最後の一日 (3)

王城の門前で、ラードとマルクは待っていた。

カウティスと水の精霊の帰城予定だった、午後の二の鐘半は過ぎている。



「……戻って来ると思うか?」

ラードが固い声でマルクに問う。

「……水の精霊様と一緒である以上、何処にも逃げ場はありません……」

マルクが悔しさを滲ませた。

水の精霊はネイクーン王国の定められた国境を出れば、消滅する。

逃げようにも、逃げる所などないのだ。

「第一、あのお二人は、全てを捨てて行くような選択はされないでしょう……」


ラードは城下へと続く前通りを睨む。

捨てられるなら、捨てさせてやりたいという思いが、心の隅にある。

自分が昔、騎士である事を捨てて王城を後にしたように。

だが、それが出来たとしても、そうしないであろう王子を敬愛しているのも事実だ。


ラードが拳を握り締めた時、前通りを城下に向かって来る馬が見えた。






「おそらく、セルフィーネは味覚を得た」

自室に戻って口を開いたカウティスを見て、ラードとマルクは息を呑む。

「では、何か変化があったのですか?」

ラードの問い掛けに、カウティスは力なく首を振った。

「……特に変化があったようには見えない」

直には触れられないままで、実体化には至っていない。


「どうしたら良い? 分からないのだ。諦めたくない。それなのに、何をどうして良いのか、何が出来るのか、もう分からない……」

カウティスは額を押さえ、俯く。


気持ちに頭が追いつかない。

何をどう考えればよいのか、カウティスには分からなかった。

ただ、嫌だ、諦めたくないという焦りだけが頭の中を占めてしまっている。



「お側にいて下さい」

普段通りのマルクの声がして、カウティスは顔を上げた。

「先程お戻りになった時に、水の精霊様は『楽しかった。とても幸せだ』と仰って笑っておられました。あれは本当のお気持ちです」


セルフィーネは隣室で、侍女のユリナに服を脱がせてもらっている。

彼女はカウティスから離れる時だけ、僅かに不安気な顔を見せたが、それ以外はずっと穏やかに微笑んでいた。


「心苦しいことですが、現状で我々が出来ることはありません。ですが、王子だけは水の精霊様のお側にいて差し上げられます。……王子だけが、水の精霊様のお心を満たせます」

カウティスは騎士服の胸を掴み、歯を食いしばった。



隣室に続く扉が開き、服や靴を脱いで、濃紺のマントを纏ったセルフィーネが戻って来た。

カウティスを認めて、彼女はふわりと笑む。

カウティスは固く服を掴んでいた手を離して、微笑みを返す。


辛く苦しいのだと、僅かにも感じさせないように、出来る限り柔らかく笑んだ。





日の入りの鐘から始まる感謝祭には、直前に沐浴で身体を清めて参席することが決められているため、先に軽く食事を摂る。


カウティスは食欲が湧くはずもなく、自室に用意された食事を前に躊躇ちゅうちょしたが、セルフィーネは嬉し気にテーブルの上を眺めた。

「味見したい」

「勿論良いが、どれを?」

「全部」

全部と言われてさすがにカウティスが驚いた顔をすると、クスクスと楽しそうに笑う。

「どれがどんな味なのか分からないから、カウティスがまず食べて、教えて欲しい」


結局カウティスが席に着き、一つ食べては、これは甘い、少しピリピリする辛さだ、酸味があると教えながらセルフィーネに味見をさせる。

食べるのではなく、僅かに舐める程度だったが、彼女はスプーンを口に含んでは、変な味だと顔をしかめたり、甘いと笑ったり、時には咳き込んで涙ぐんだりしながら、カウティスの隣でずっと味見していた。

食欲はなかったはずなのに、カウティスはすっかりセルフィーネのペースに巻き込まれて、気が付くと殆ど食べていた。



「また、一緒に食べたい」

セルフィーネは微笑んでスプーンを置いた。

「ああ。そうしよう」

カウティスが笑って答えると、セルフィーネはそっと抱きついた。

「約束だ、カウティス。……嬉しい。こうして一緒にいられて、私はとても幸せだ」

カウティスは強く抱きしめて、気持ちに応えた。





夕の鐘が鳴って四半刻。

カウティスが祭事の準備にかかる為、セルフィーネは魔術師士館のマルクが普段使っている部屋に姿を現そうとして、その場を見た。



「この期に及んで、まだ掻き回す気かっ!?」

険しい声音でラードが壁に強く押し遣ったのは、旅装のローブを着たままのハルミアンだ。

夕の鐘には王城へ来ると聞いていたので、今しがた到着したところなのだろう。


「掻き回すつもりなんかない。でも、今ならまだ、間に合うかもしれないんだよ!」

ローブの肩を押すラードの腕を掴んで、ハルミアンが言う。

「それが掻き回してるって言ってるんだ! 今更、水の精霊様を司教に預ける訳がないだろうっ!」

「そうじゃなきゃ進化出来ない…………、セルフィーネ」


青白い光の粒を降らして姿を現したセルフィーネは、ハルミアンとラードを見つめた。

「……何の騒ぎだ?」


ラードとマルクの意識がそちらに向いた隙をついて、ハルミアンが壁際からセルフィーネに駆け寄る。

「セルフィーネ、今からすぐ西部に行って、イスタークに聖職者として登録して貰うんだ」

「やめろ!」

ラードが再びハルミアンの肩を掴むと同時に、ハルミアンは声を上げた。


「水の精霊であることを捨てるのが、進化への最後の鍵なんだ!」



イスタークは言った。

『“水の精霊としての役割”を捨てさせてやらなければ、おそらく進化は遂げられない』

進化は神の領域の事象だ。

オルセールス神聖王国でも、進化については様々な研究がされているという。


聖職者の見解では、進化への最大の難関は、自分への執着を捨てることだという。

聖職者が神聖力を失くすことも、それに通じる。

生物は皆、無意識に己の存在に執着を持つ。

自らそれを捨てることは、容易ではない。



「人間には難しくても、精霊なら簡単でしょ。聖職者だと認めれば……っ」

ラードが力任せにハルミアンを引き倒した。

尻もちをついたハルミアンを、軽蔑と怒りの入り交じる灰色の目で見下ろす。

「そんなものは、司教の虚言かもしれないだろう!」

「イスタークはそんな嘘つかない! それに確かに理にかなってるんだ!」

「お前はっ……」

踏み出しかけるラードの前に、マルクが入って止めた。

「待って下さい、二人共! 落ち着いて!」



「私は神殿には行かない」



セルフィーネの静かな声が響いた。

たたずむセルフィーネは、ハルミアンに向かって微笑する。

「私は水の精霊であることを捨てない。何者に進化しても、ずっとこの心で水源とネイクーンを守る」


今日城下に降りて、改めて感じた。

ネイクーン王国この国が好きだと。

水の精霊としての心のまま、ずっと見守り続けたいと。


「私は神殿には行かない。……どうか、この話はカウティスには聞かせないで欲しい。聞けばまどい、苦しむだろう。もう、そんな姿を見たくない」

ラードは奥歯を噛み締め、ハルミアンから顔を逸らした。

「……それに、これ以上イスターク司教との間に確執を生むのは、カウティスの為にも、ネイクーンの為にもならない。ハルミアンだって、そんなことは望まないだろう?」



淡々と話すセルフィーネに、ハルミアンは整った顔を歪めた。

「セルフィーネ、進化を諦めてしまうの!?」

「諦めない。ただ、進化の時は今ではなかったというだけだ。いつになっても、きっと私は進化する」

「今じゃなきゃ無理だよ!」

ハルミアンは強く首を振った。


セルフィーネは伏せていた目を開き、ゆっくりと瞬いて、悲し気に首を傾げた。

「……ハルミアンは、やはり私が三国共有になれば、消えると思っているのだな」

視線を彷徨さまよわせ、ハルミアンは声を落とす。

「消えて欲しくないと思ってる……ネイクーンの魔術士達の努力は凄いと思うよ。でも……、でも!」


エルフのハルミアンには、どうしても積み上げられてきた知識と情報が、希望や僅かな可能性よりも正しいことのように感じてしまうのだ。

選択は、より確実な方へ傾いてしまう。


「分かっている。ハルミアン、そなたは、そなたの信じる通りで良い。……心配してくれて、感謝している。だが、もうこれ以上何も言わないで欲しい」

セルフィーネは微笑んで頷く。


ハルミアンは口を開けたが、言葉を発することは出来ず、強く顔をしかめた。




セルフィーネは、ラードとマルクを見る。

「マルク、ラード、そなた達は私が三国共有のものとなっても、必ず消えずにネイクーンを見守ると信じてくれるか。いつか進化してカウティスの側に戻ると、信じてくれるだろうか」

二人は真剣にセルフィーネを見詰め返した。

「もとより、魔術士達我等は皆、信じております」

「水の精霊様を、……お二人の絆を信じます。必ず王子の元へお戻り下さい」

セルフィーネは頷く。

「ありがとう。カウティスをこれからも支えて欲しい。カウティスが、カウティスらしく在れるように。……どうか、あの瞳を曇らせないで」

「はい、水の精霊様」

二人は姿勢を正し、立礼した。


「……私の名は、セルフィーネだ。二人には、名を呼んで貰いたい」

二人は頭を上げて、顔を見合わせる。

「……はい、セルフィーネ様」


再び頭を下げた二人に、セルフィーネは美しく微笑んだ。






日の入りの鐘が鳴る。

西の空で薄く霞んでいた太陽が、月に替わった。

祭事の為の苑地には祭壇が設けられ、月光神に仕える女司祭が、祈りを捧げ始めた。

司祭の後には、王が祈り、王族が順に続く。



藍色の礼服に、銀糸の刺繍がされた黒いベルトを巻き、同じ意匠のマントを着けたカウティスは、祭壇の前に立つ。

今年を無事に終える感謝を以って祈り終えると、冴え冴えとした光を降らせる月を見上げ、一度目を閉じた。


月光神よ、貴女の眷族たる水の精霊をお守り下さい。

彼女の願うまま、ネイクーン王国この地に、私の側に留め置き下さい。

清らかなあの者に、これまで以上に苦しみや悲しみを与えないで下さい。



――――どうか、進化させて欲しい。


カウティスは心から願った。




神官による奉納舞と、長い長い祝詞奏上があり、静謐せいひつとした空気の中、感謝祭は終わった。





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