欲
セルフィーネが広間に姿を現すと、テーブルの所にラードとマルクが座っていた。
セルフィーネが扉を開けず、青白い光の粉を散らして現れたので、ラードはぎょっとした。
だが以前に比べれば慣れたもので、椅子を鳴らして飛び上がるようなことはなかった。
「どうしたんです? 王子と一緒では?」
「カウティスはもう眠っている。最近寝不足だったから……」
近頃は、まだやれることはないかと、遅くまで起きていることが多かった。
「一緒におられなくて良いのですか?」
マルクの気遣うような言葉に、セルフィーネは黙ってしまった。
すぐに立ち去る様子のないセルフィーネに向けて、ラードが椅子を引く。
やはり何か用でもあるのか、彼女は大人しく腰を下ろした。
机の上には、紐を通した書類束に、ペンやインクが端に纏められている。
さっきまで書類仕事をしていたのだろうか。
そして、今彼等の前には、一本の瓶と小さなグラスが二つ置かれてある。
どちらにも琥珀色の液体が注がれてあった。
セルフィーネの視線に気付いて、ラードがグラスを持ち上げた。
「寝酒です。王子は酒より甘味が好きですから、誘いはいらないと仰って。なので、時々我々だけで頂いています」
魔術ランプの温かい光にグラスが輝き、揺れる中の液体が、濃く薄く色を変える。
「……飲んでみたい」
セルフィーネの思わぬ言葉を聞いて、ラードはマルクを見るが、マルクも驚いた様子だ。
「えーと……、飲めるのですか?」
「分からない」
それは確かに、飲食をしたことがないのだからそうだろう。
「ハルミアンは?」
ラードの問い掛けに、マルクが首を振った。
「職人達の宿舎に行ってるはずです」
分からないことはハルミアンに聞こうと思ったのだが、いないのでは仕方ない。
「……まずは水か茶で試してみてはどうでしょう。これは、かなりキツイ酒ですから」
「キツイ、とは?」
「嗅いでみますか?」
ラードはセルフィーネにグラスを差し出した。
セルフィーネは顔を近付けて、スイと息を吸う。
途端に美しい顔が歪められ、細い指が鼻を押さえた。
離れて嗅げば
「……人間は、これを飲むのか?」
反応を笑っているラードに気付き、軽く口を歪めてセルフィーネは聞いた。
例え口に含んでも、あの香りが鼻を抜けたら、飲み下すのが大変そうに思えた。
「皆が皆、飲むわけではありませんよ」
そう言ったラードが一息で飲み干すので、セルフィーネは目を真ん丸にした。
「お茶で、試してみますか?」
マルクが笑いながら聞くが、勢いを削がれてしまったのか、セルフィーネはふるふると弱く首を振った。
ラードは内心がっかりしながら、空になった自分のグラスにニ杯目を注ぐ。
酒でも茶でも、飲んでみて欲しかった。
進化に必要なのは、後は味覚なのではないかと仮説が立てられているからだ。
もしも、彼女が口に含み、舌に何かを感じるのなら。
それはきっと、進化の兆しだ。
水の精霊が年明け迄に進化すれば、王子の苦しみを減らしてやれるのではないかという期待が、ラードにはあった。
だが、強く勧めてはその期待を勘付かれそうで、何も言わなかった。
そんなラードの
「……マルク、聞いても良いか?」
何か話したいことがあるのだろうと思って、グラスを傾けながら待っていたマルクが、顔を上げる。
「はい、何ですか?」
「……どうしてカウティスは、夜になると私に小さくなって欲しいと言うのだろう」
その疑問に、ラードは密かに眉を寄せ、マルクは軽く口を開けたまま、止まる。
「どうしてこのままの私を、寝台に入れてくれないのだと思う?」
セルフィーネの長いまつ毛が悲し気に揺れる。
ラードは口にグラスを充てがったまま、どう説明したものかと考えた。
王子が長い間抱え、我慢している衝動を水の精霊に知られずに、当たり障りなくこの場で収める事が出来るだろうか。
そんな考えを、マルクの次の一言が一蹴した。
「水の精霊様は、
マルクは静かな表情で、セルフィーネに尋ねた。
ラードは、ぱかりと口を開く。
思わずグラスを落としそうになった。
「
「はい。カウティス王子は、おそらく水の精霊様にそれを求めておいでなのです」
セルフィーネは紫水晶の瞳を見開いた。
二人のあまりに直球な受け答えに、ラードの顎は外れそうだった。
「おいおいおい! マルク、いいのか、開けっ広げに……」
ラードがマルクのローブを素早く引いて小声で言うが、マルクは至極真剣だった。
「意味が分からず拒絶されるのも、知られないように拒絶するのも、どちらも辛いですよ」
ラードが強く眉を寄せる。
確かに、水の精霊が疑問を持ってしまったのなら、
「…………俺は知らねえぞ」
ラードは持ったままだったニ杯目を、グイと飲み干す。
セルフィーネは困惑して、ゆっくりと首を振る。
「……マルク、私は精霊だ。繁殖能力はない」
「そうですね。でも、
セルフィーネの胸はドキンと打った。
「私がカウティスに抱きしめて欲しいと思うのも、そういうものだろうか?」
「そうかもしれません。……ですが、水の精霊様には実体がないので、
「我慢……?」
マルクは照れたり誤魔化したりせず、真剣に向き合った。
「その我慢は、時にはとても辛いものですが、それでも王子は水の精霊様と一緒にいたくて、小さくなって欲しいと願うのではないでしょうか」
セルフィーネはマルクの顔を呆然と見つめる。
確かハルミアンもそんなことを言っていなかっただろうか。
『カウティス王子は君に触れたいのを一生懸命我慢してるのさ。可哀想だから、一緒にいるなら小さくなっててあげて』
セルフィーネは細い眉を寄せて、弱く首を振った。
「でも……、そんな……」
カウティスに我慢や辛い思いをさせたくないが、繁殖能力もなければ、魔力干渉をしても、中途半端にしか触れられない自分に、何が出来るのか。
さっきだって、熱くて魔力干渉を解きそうになったではないか。
以前は昏倒までして皆を心配させた。
セルフィーネは、長いまつ毛を震わせて目を伏せた。
「そうか、私には何も出来ないから、カウティスは我慢せざるを得なかったのか……」
顔を伏せてしまったセルフィーネを見て、殆ど酒の減っていないグラスを置き、マルクが問い掛けた。
「水の精霊様は、どうされたいですか?」
「私は……どうしたい……?」
呟くように、セルフィーネは自分に問い掛ける。
カウティスを傷付けたくないと、自ら消えようとしたことがある。
精霊の自分よりも、人間のアナリナと一緒に行った方が、カウティスは幸せになれるのではないかと考えたことも。
でも、今は。
「……カウティスと一緒にいたい」
例え、側にいることで傷付けたり、我慢させるようなことがあっても。
『 苦しくても、痛くても、そなたが一緒にいる人生が俺の幸せなのだ 』
カウティスが言ってくれた、あの言葉が全てだ。
「一緒にいたい」
顔を上げたセルフィーネの表情は、例えようもなく美しかった。
セルフィーネがカウティスの部屋に戻り、ラードが瓶と空のグラスを持って立ち上がった。
「お前は水の精霊様に甘いよな。『どうされたいですか?』じゃなくて、『実体を望みませんか?』って聞いてほしかったぞ」
マルクが軽く笑いながら、僅かに残っていた酒を飲み干した。
「ラードさんだって、飲み物を強く勧めたりしなかったじゃないですか」
ラードは口を歪ませる。
「……もどかしいったらないな。水の精霊様が進化されれば、それで事は収まりそうなものだが、強く望めば進化するってものでもなさそうだし」
そもそも進化というものが、人間の手ではどうしようもない現象なのだから仕方がない。
「それでも、水の精霊様は、王子が“我慢している”とか“辛い”とかいう消極的な事を私が言っても、身を引かれませんでした。それだけ、個の意志が強くなったということですよね」
マルクは、カウティスの部屋の扉を振り返る。
「その意志が強ければ強い程、きっと願いには近付くと思います」
カウティスの部屋に戻ったセルフィーネは、寝台に音もなく近寄る。
疲れ切って眠っているカウティスは、彼女が部屋を出たときと同じ格好のままで、よく眠っていた。
手を伸ばし、カウティスの青味がかった黒髪を、そっと撫でる。
魔力干渉をしなければ、ハルミアンの髪を
何だか、胸の奥が軋むような気がした。
強く強く抱きしめられて、カウティスの腕の中に収まった時。
深く口付け、カウティスの骨ばった指が優しく髪に差し入れられた時。
震える程に幸せだと感じた。
ずっとそうしていて欲しかった。
身体が離れる瞬間、寂しいと感じた。
カウティスも同じ様に感じているかと思っていたが、彼はもっと、寂しく辛かったのだろうか。
「……すまない。それでも、私はそなたに、もっと深く触れて欲しい」
不意に口をついて出たその願いに、セルフィーネは
「私は……私の……身体に触れて欲しい……?」
カウティスは気づかず、安らかに寝息を立てている。
彼女は藍色のマントの中で、自分の身を抱く。
「……私……、私は……」
それは、初めてセルフィーネが自覚した、実体化への欲だった。
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