加速する変化 (後編)
ハルミアンは眉を寄せたまま、黙って二人を見守る。
水の精霊の声が聞こえないラードですら、混乱しながらも黙っていた。
セルフィーネは、目の前に出されたカウティスの掌を見つめる。
その上には、薄い飴色に輝くバングルがある。
青白い月光を浴び、艷やかな鳥の羽根の意匠が美しいバングルから、セルフィーネは目が離せなかった。
「……私が、変わったら……ネイクーン王国は“水の精霊”を失ってしまう……」
絞り出すような言葉に、カウティスは首を傾げる。
「俺はそうは思わない。これまでそなたはずっと変化してきた。それでどうなった? ネイクーンは、更に護りを強くしたはずだ」
セルフィーネが子供の頃のカウティスと出会って、感情を持ち始め、カウティスに対しての情を強くしても、国の護りは弱くなるどころか、むしろ強くなった。
フォグマ山で眠っても、護りは失われず、目覚めてからはより強くなった。
神聖力を持って西部を浄化し、弱った魔力を回復すると、更に強まった。
「もしも、セルフィーネが変わっても、ネイクーン王国への気持が失われない限り、“水の精霊”はきっと消えない」
カウティスは紫水晶の瞳を覗き込む。
「例え失われても、ネイクーン王国の人間が自分達で補える。そなたがネイクーン王国に授けられた頃とは違う。人間も変わったのだ。何百年の間に、火の精霊の影響を抑え、自分達で
セルフィーネは目を見張り、カウティスを見つめる。
「セルフィーネ、もう、そなた一人で守る必要はない。
カウティスが優しい声で言う。
「一人きりで悩ませて、すまなかった」
紫水晶の瞳が揺れた。
薄く開いた口から、震える息が吐かれる。
「……本当に、望んでいいの……」
「良い。セルフィーネ、そなたの望みを教えてくれ」
一度コクリと喉を鳴らし、セルフィーネは、白く細い左腕をゆっくりと上げた。
カウティスの目に、水色と薄紫の美しい魔力の層が見え始める。
「……私は、……私は、
紫水晶の瞳が潤み、細い水色の髪が大きく流れた。
ようやくセルフィーネの口から紡がれた小さな願いに、カウティスは微笑む。
「それで良い」
セルフィーネの差し出した左手を取ると、持っていたバングルを細い手首に挿し込んだ。
手を離すと、バングルはセルフィーネの白い手首で愉し気に揺れる。
セルフィーネは右手の指先で、愛おしむように鈍く輝くバングルをなぞった。
「……嬉しい」
何度もなぞる内に、頬に光る雫が流れる。
幸せそうに微笑みながら涙を流す彼女を見て、カウティスはようやく安堵の息を吐いた。
「やっと、嬉し涙を見れたな」
そう言って頬を流れる涙を拭えば、彼女は更に笑みを深めてカウティスの胸に添った。
仕方ないなぁという顔をして、ハルミアンはカウティスに寄り添う水の精霊の魔力を眺める。
水の精霊の進化は放っておかれたけれど、それはそれで良いような気さえした。
人間と精霊が、本当に心を寄せ合っているのだと実感して、嬉しいのか安心したのか分からないが、何だか鼻の奥が痛くなった。
隣に複雑な顔で立っているラードの肩を、思わずバシリと叩く。
「いてッ!……まったく、何なんだかさっぱり分からないぞ。後でもう少し噛み砕いて説明してくれ」
ラードはハルミアンに唸るように言ってから、カウティスに声を掛ける。
「王子、とにかく用が済んだなら戻りましょう。ここは明るすぎる」
ラードは空を見上げる。
今夜の月は冴え冴えとして、いっそ眩しいほどに光り輝いていた。
「セルフィーネ、戻ろう」
後ろ髪を引かれる思いだったが、カウティスがそう声を掛ける。
魔力干渉が解かれれば、またバングルが落ちると思い、胸に添う彼女の手首に手を伸ばした。
「いや」
セルフィーネが腕を引いて、バングルを胸に抱き込んだ。
ふるふると首を振る。
「嫌だ。もう外したくない」
「セルフィーネ」
彼女の切ない主張に、カウティスの胸は痛んだ。
叶えてやれたらいいのに。
それが出来ないもどかしさに、俯いて手首を抱き込む彼女の頭に口付ける。
同時に、セルフィーネがとても小さな声で呟いた。
「……外したくない。ずっと着けていられるものになりたい……」
―――――― 。
「……?」
極小さな物が割れるような音が聞こえた気がして、カウティスは顔を上げた。
その途端、胸に添っていたセルフィーネがカクリと膝を折ったので、反射的に両手で支える。
「セルフィーネ、…………っ!!」
カウティスの手に触れた彼女の肌は、触れたことのない感触だった。
滑らかであるのに、吸い付くように柔らかな弾力がある。
支えた腕には、僅かながら重みを感じた。
戸惑ったカウティスを、セルフィーネが顔を上げて見上げた。
その姿を見て息を呑む。
セルフィーネの姿は、変化していた。
腰まであった長い髪は、背の中程で真っ直ぐに揃い、水色に薄く紫色が滲む。
細い身体はより滑らかな曲線を描き、女性らしい膨らみを増す。
真っ白で透けるようだった肌は、陶器のように温かな艶を放ち、頬には柔らかな桃色が差した。
変わっているのに、目の前にいるのは確かにセルフィーネだ。
「……セルフィーネ?」
戸惑いながら名を呼んだカウティスを見上げる瞳は、変わらない紫水晶だった。
「凄いや……」
ハルミアンは目を見張り、唇を震わす。
深緑の瞳が輝きに満ちている。
「水の精霊が、変わった!」
「……水の精霊様……?」
ハルミアンの横で、ラードが呟いた。
驚愕に顔を歪め、
「そ、その方が水の精霊様なんですか……?」
ラードの視線はカウティスの胸の辺りに定まっている。
「……もしかして、見えているのか?」
引きつった顔のまま頷いたラードを見て、カウティスは唖然とする。
「カウティス……」
変わらない声で呼ばれて、カウティスは我に返る。
腕の中のセルフィーネを見れば、彼女は疲れたように言った。
「もう、解けてしまう……」
唐突に魔力干渉が解けた。
支えを失ったセルフィーネは、川面に座り込む。
しかし、彼女の細い腕から、バングルは滑り落ちなかった。
風の季節前期月、五週三日。
フルブレスカ魔法皇国の王宮。
竜人ハドシュは、竜人の管轄区域と皇帝の管轄区域を繋ぐ渡廊で、竜人シュガと話している。
渡廊の優美な柱には、今日も彩り鮮やかな花が挿されていた。
「契約魔法陣に、亀裂?」
シュガが深紅の瞳を細める。
「そうだ。ネイクーン王国の水の精霊は、契約から外れようとしている。こんな事があってはならない。すぐに水の精霊を切り分ける」
ハドシュは無表情に言った。
「もう少し待て兄者、皇帝の始末が先だと言ったろう」
「何故待たねばならん。皇帝が騒ぐのであれば、力で抑えろ」
ハドシュの物言いに、シュガが眉を寄せる。
「多くの者に関わるのだ、そう簡単にはいかない。……兄者こそ、何故そんなにネイクーンの水の精霊を気にする。例え契約から外れても、所詮精霊ではないか。何の問題がある?」
ハドシュは一瞬、
「…………この大陸の主は
微風が渡廊を抜ける。
竜人の肩から垂らした長い布と、柱の花が同時に揺れる。
深く長い息を吐いたシュガが、冷ややかに口を開いた。
「兄者はまだ分かっていないようだが、竜人族は、既にこの大陸の主ではないぞ」
のっぺりと表情のないハドシュが、僅かに眉を揺らした。
「…………何を言っている?」
「この大陸を覆い尽くし、全てを動かし始めているのは人間だ。
当たり前の事のように言ったシュガに、ハドシュは初めて不快感を露わにした。
「お前は、何を言っているのか分かっているのか? 我等は兄妹神が認めた、ただ一つの種族だぞ」
シュガは、人間臭く顔を
「いつの話だ、兄者。大昔はそうであっても、今は違う。人間は竜人の力無しで、どんどん進化しているではないか。北部の国々を見ろ。竜人の力で脅してみても、服従する気など更々ないわ」
シュガは冷めた瞳で兄を見る。
「兄者、現実をよく見てくれ。円卓様とて、いつかは
ハドシュが手を振り上げて、シュガを柱に押さえつけた。
鈍く重い音がして、柱が軋む。
飾られていた花が落ち、ハドシュの足で無惨に踏みつけられた。
「人間と長く暮らして、おかしくなったようだな!」
ハドシュの尖った大きな爪が、シュガの肩に食い込む。
苛立ちと腹立たしさに、強く眉を寄せ、牙を剥いた。
柱に縫い付けられたシュガは、力で抵抗することなく、兄を睨み付けた。
「…………兄者も同じだ。その溢れ出る感情こそが、我等が人間に感化されている証だろう。過去には竜人族に喜怒など無かったはずだ。水の精霊にこだわっているのも、役割でなく兄者の執着ではないのか」
ハドシュは一瞬
シュガの強い視線から、僅かに目を逸らした。
数度呼吸すると、ハドシュは再び表情を失くして重い手を引き、一歩下がった。
「……人間を導くのは我等の役割。皇帝を始末するのが人間を統轄する為だというのなら、待とう。但し、急げ。長くは待たん」
のっぺりとした顔のまま、口だけを小さく動かしてハドシュが言った。
肩から垂らした長い布をマントのように翻し、踵を返す。
『その選民意識を捨てないと、いつかは
いつか聖女に言われた言葉が頭を
『例え遥か昔がそうだったとしても、世界は兄妹神が望んでいるように、それぞれが進化し続けているんだから』
忌々し気に牙をギチと鳴らし、ハドシュは始祖の元へ戻って行った。
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