怖気づく心
「妖精界で進化している……だと?」
カウティスが愕然と呟く。
「ええ。カウティス王子は、世界の成り立ちについて、何処まで知ってますか? 五層の事は?」
「……神話程度の知識だ」
ハルミアンは頷く。
「水の精霊は、確実に妖精界に近いところにいますよ。何故なら、彼女は僕の使い魔を撫でたから」
ハルミアンが腕を上げて長い指を揺らすと、空中から金の粉が降る。
そして、あっという間に鳥の形になり、彼の手に臙脂色の鳥が止まった。
「僕達の使い魔は強い魔力の塊なので、エルフにとっては感触があります。実際の鳥を真似て創るので、羽毛の柔らかさも、温かさも多少はあって、足もしっかりしているので、こうして止まれます」
鳥はハルミアンの手を蹴って飛び上がると、羽ばたいてカウティスに向かって飛んだ。
突然、顔の真正面に向かって飛んで来られ、反射的にカウティスは腕で目を庇った。
しかし、鳥はカウティスの腕ごと頭を擦り抜けて、くるりと旋回すると、一度羽ばたいてハルミアンの手に戻る。
鳥が身体を擦り抜けたことに、ぞわりと肌が粟立った。
「妖精界の者以外には触れません。今みたいに擦り抜けてしまいますからね。でも、水の精霊は触れましたよね。
ハルミアンは興奮気味に言った。
水盆でセルフィーネは確かに、頬を染めて鳥を撫で、ふわふわだと喜んでいた。
庭園の泉でも、鳥は彼女の肩に止まり、飛び上がると髪を舞い上げた。
カウティスはゴクリと唾を飲む。
「使い魔の目を通せば、
「待て!」
興奮気味に語り続けるハルミアンに詰め寄り、カウティスは険しい顔で制止した。
「余計な事はするな!」
「…………余計な事?」
ハルミアンは意味が分からず、少年のような顔でポカンと口を開く。
「水の精霊に手を出すな。そなたは知らないだろうが、水の精霊は十四年間近く眠っていて、目覚めてまだ半年しか経っていない。ようやく……ようやく穏やかに過ごしているのだ。彼女の心を乱すな」
酷く泣いて苦し気に喘いでいた、数日前のセルフィーネの姿が脳裏を過り、カウティスは無意識に拳を握った。
西部が落ち着き、神聖力も隠した。
やっとセルフィーネと笑って過ごせている今を、何者にも邪魔されたくない。
あんな風に、心を乱すことがあって欲しくない。
口を開いていたハルミアンが、ふうと一つ息を吐いて首を振った。
再びカウティスを見た深緑の目は、光を弾かず、何処となく暗い。
「マルクも、『王子と水の精霊の為に、誰にも言わないで欲しい』と言ったけど、それって本当に二人の為ですかねぇ。本当は、王子の為では?」
「何?」
カウティスの声に険が籠もる。
「自らの進化の可能性を、水の精霊は知ってますか?」
ハルミアンの問いに、カウティスは言葉に詰まった。
「彼女自身の事なのに、何故教えてやらないんですか? それは、カウティス王子が彼女に変わって欲しくないからでしょう。穏やかに過ごしている時間を壊したくないのは、カウティス王子ですよね」
思わず強く眉を寄せたカウティスに、ハルミアンは一歩近付くが、その空気感は冷たい。
甘い花の香りさえ、ハルミアンから遠ざかるようだ。
すぐ側まで近付いたハルミアンが、カウティスの顔を睨め上げるように深緑の瞳を向ける。
「水の精霊の心を乱すな、手を出すなと言いますけど、そこに水の精霊の意思は入ってるんですか? まさか、彼女も自分と全く同じ考えのはずだなんて、乱暴なことは仰いませんよね?」
カウティスの左胸を、ハルミアンの長い人差し指が突いた。
服の内にあるガラスの小瓶を押され、カウティスは反射的にその手を強く払う。
「……失礼。王族に勝手に触れてはいけませんでしたね」
ハルミアンは微笑んで、垣根の側まで下がった。
カウティスは強く奥歯を噛んだ。
言い返したい気持ちはあるのに、言い返す言葉が出てこない。
ハルミアンの言うことはいちいち尤もだ。
セルフィーネを傷付けたくないのは嘘ではない。
だが、現状を変えたくないのは自分だ。
本当は、怖いのだ。
この均衡が崩れることが怖い。
魔力、進化、神の御力、全て自分の手の届かない事ばかりだ。
もしも、水の精霊の進化が急速に進んだら、何が起こるだろう。
今、僅かなりとも触れ合えている状況が、無にはならないだろうか。
まさか、再びセルフィーネを失うようなことにはならないのだろうか。
その可能性を考えた時、カウティスは身体が竦んで動けなくなる。
あれ程鍛えてきた剣さえ、握ることが出来ない気がする。
恐ろしくて、恐ろしくて、進化の可能性をただ見ないふりをしているのだ。
「……何故だ。何故、そなたには直接関わりのない、水の精霊を構おうとする? 興味本位で掻き回すのはやめてくれ……」
絞り出すようにカウティスの口から出たのは、そんな言葉だった。
ハルミアンは、暫く黙っていた。
深緑の瞳で、カウティスの黒髪が風で揺れるのを見つめている。
「……水の精霊は『人間を好きかは分からない』と答えましたけど、僕はね、人間なんて嫌いでした。自分勝手で、強欲で、自分達と違う者には狭量で容赦ない。……信じて心通ったと思っても、あっさり裏切る。関わって良かった事なんて、一つもなかった」
ハルミアンは、大きな瞳を一度瞬いて、垣根に連なる赤い大輪の花弁を撫でた。
俯き加減のその顔は、どことなく傷付いて見えた。
「でも、そんな僕の意見に、『人間が全てそうではない』とフレイア妃は譲りませんでしたね。……そのフレイア妃が、以前、言ったんですよ」
『弟のカウティスは、何と水の精霊と想い合っているの!』
フォーラス王国の魔術師団棟で、中庭の噴水に手を伸ばしたフレイアが楽し気に言った。
青味がかった艷やかな黒髪や、真っ赤なローブに水滴が散ってもお構いなしだ。
『人間と水の精霊が? そんな夢みたいなこと、あるわけないでしょ』
ハルミアンは鼻で笑う。
フレイアは知的な黒い瞳を輝かせて、真っ赤な唇で微笑んで見せた。
『あら、本当よ? 何百年も淡々と国を見守ってきた精霊と、心を通わせたの。ハルミアンにも見せてあげたいわ。フォグマ山で眠っているはずの水の精霊が、どんなに美しい魔力をカウティスに纏わせたままか。カウティスに対する情が深くなければ、あんなことは有り得ないもの』
母国に思いを馳せているのか、どこか遠くを見るような顔で、フレイアはうっとりと言った。
『きっと
ハルミアンは、カウティスの青空色の瞳を見つめた。
「『きっと
カウティスは姉の笑顔を思い出す。
水の精霊が眠ってしまっても、カウティスの周りに美しい水の精霊の魔力があると、彼女の心は消えていないのだと、教えてくれた。
「僕は、人間と精霊が心を添わせるなんて、そんなことあるわけないって思ってましたけど、……そうだったら良いなって、勝手に少し期待してました。もしもそんな人間がいたらって……」
ハルミアンは花を見つめたまま、表情なく言った。
「だから、カウティス王子が水の精霊の気持ちを放ったらかしにしてるのは……、残念です……」
愕然と立ち尽くすカウティスに視線を向けず、ハルミアンは内庭園の外周を通って去って行く。
カウティスの方には、もう少しも意識を向けなかった。
「くっ……」
カウティスは震える程強く拳を握る。
しかし、その拳を振り下ろせるものは、どこにもない。
恐れてばかりで、セルフィーネの気持ちを見ないふりをしている自分に、怒る資格などない。
「…………情けない」
カウティスは、額に固く握った拳を当てて、このやりきれなさが薄れるまで立ち尽くしていた。
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