星流れて

催事に使用する大広間は、明かりもなくガランとしている。

来週のカウティスの誕生祭の為に、明日にはテーブルなどが運び込まれて準備が始まるだろう。


エルノートは、何もない広い空間を横切り、バルコニーへと向かう。



バルコニーへと出る大扉の側に、王の侍従と近衛騎士が立っているのに気付き、立ち止まる。

「王太子様」

侍従がエルノートに気付いて頭を下げ、近衛騎士は立礼した。

バルコニーに立っていた王が振り返り、驚いた顔をする。

「エルノート」

「……父上、お邪魔をして申し訳ありません」

まさか今、こんな所で父に会うとは思っていなかったエルノートは、急いで踵を返そうとしたが、引き止められる。

「待て、そのように急いで行かずとも良いだろう。折角だ、共に星を見ないか。今日は、よく星が流れる」

さあ、と促され、エルノートは王の隣に立った。


「珍しいな。そなたも星を見に来たのか?」

心なしか嬉しそうな王に、エルノートは薄く笑む。

「はい、偶然星が流れるのを見て……昔、父上と母上と三人で、ここから星を見た事を思い出しました」

「ああ、何度か見たな。……そなたは眠そうに目を擦るのに、眠くないと言い張って、結局毎回私の腕で寝てしまった」

王は肩を揺すり、楽しそうに笑う。

エルノートはバツが悪そうに目を逸らした。

「……覚えておりませんでした」

「そなたは昔から、簡単には弱音を吐かぬ」

夜空にまた、短く尾を引いて星が流れた。


「……お一人の時間を邪魔してしまったのでは?」

エルノートの問いに、王が小さく笑う。

「一人ではない。エレイシアと星を見ていたのだ」

「母上?」

「心の中でな。昔は、二人でここからよく見た。辛い時、苦しい時、悩んだ時、いつもここで弱音を吐いて、エレイシアに聞いてもらった。……今もな」

思いがけない父王の言葉に、エルノートは目を瞬いた。

「父上が、弱音を……?」

王は冗談めかして、もう駄目だ、もう無理だと言うが、本気で弱音を吐くところを見たことはない。


王は苦笑する。

「王とて人の子だ。苦しいこともある。泣いても泣いても、涙が枯れぬほど悲しいこともな」

夜空を見上げた王の横顔は、どこか寂しそうに見える。




「そなたはどうだ、エルノート」

不意に、王が呟くように問い掛けた。


「………………どう、とは?」

突然問い掛けられ、エルノートの喉が貼り付き、一瞬言葉に詰まった。

「そなたは、吐き出したい思いはないのか」

王は、ひたとエルノートを正面から見据えた。

月光を映す青空色の瞳が、カウティスの真摯な瞳と重なる。


『どうか心の内を吐き出して下さい』


身体の内から何かが強い力で押し上げられるようで、握ったままの左手に、更に力を込める。

しかし、いくら拳に力を込めても、喉元まで迫り上がった何かを、彼はもう押し留めることが出来なかった。


「…………私は」

エルノートはひび割れた声を出す。

王は黙って、静かにエルノートの言葉を待った。


「……父上……」

喉はカラカラに乾いていて、声を出すのも苦労するのに、押し出されるように言葉が絞り出される。

「………………とて、も……苦しいのです」



ずっと目標にしてきた父王。

何があろうとも、決してこの父の前でだけは、弱音は吐いてはならないと戒めてきた。

それなのに、痛くて、辛くて、それでも胸を掻きむしって藻掻いても耐えてきた苦しみを、こんなにもあっさりと口にした自分に、エルノートは半ば呆然とした。


『苦しい』と言ったエルノートの表情はなく、ただ強く握った拳だけが細かに震えている。

王がエルノートの震える左拳を握った。

その掌は握り込んだ爪で傷つき、血が滲んでいる。


「……ようやく言ったな。ずっと……ずっとそなたが弱音を吐くのを待っていたのだぞ!」

王が顔を歪めて言った。



エルノートは幼い頃から、自己抑制の上手い子供だった。

第一王子の立場がそうさせたのかもしれない。

セイジェが病弱に生まれついてからは、尚の事だった。

そして、仕方のなかった事とはいえ、未成人で王太子として正式に立った。

幼い皇女を婚約者に据えられ、母は亡くなり、懐に入れていた弟は離された。

容易に弱音を吐ける場所は、もう長い間彼にはなかったのだ。


父王はエルノートの頭を引き寄せ、肩に抱く。

その固い掌で、彼の髪がクシャクシャになるまで撫でた。

「王は孤独だ。善事も悪事も全て、重責をその肩に負わねばならん。逃げることは許されず、常に悩みと後悔が付いて回る」

右手で握った、エルノートの拳に熱が伝わる。

「だかな、エルノート。だからこそ、苦しい時には苦しいと口に出せ。一言で良い。信頼出来る者、心許せる者に、苦しいと言うのだ。一人で耐えるな。一人で耐えるのは、本当に独りになってからで良い」


星が続けて流れ落ちた。


王は、エルノートの頭を撫で、背をさする。

しかし、彼が何に苦しんでいるのかは少しも聞かなかった。

エルノートは王にされるまま、その額を父王の肩に付けていた。

たった一言を口にしただけなのに、身体中を脱力感と安堵感が満たし、呼吸が楽になった。


子供のように撫でさすられながら、彼はようやく握り締めたままだった拳を解いた。






翌、五週四日。

カウティスが大食堂の朝食の席に着いた時、エルノートの姿はなかった。

昨日の事を思い出し、カウティスは小さく溜め息をつく。


食事が始まってから、エルノートは遅れて入ってきた。

「何かあったか?」

失礼を詫びて席に着くエルノートに、王が問い掛ける。

「いえ、何も。申し訳ありません、寝過ごしました」

さらっと言ったエルノートの一言で、この場の誰もが一瞬目を剥いた。

王太子が遅刻するなど早々ないことだが、更に遅刻理由が“寝過ごした”、である。


ははは、と王が大きな声で笑う。

「これは珍しい。今日は、ネイクーンに初めての雪が降るかもしれんぞ」

心なしか嬉しそうな王がエルノートを窺うが、彼は素知らぬ顔のまま食事を始めた。



食事が終わり、王が席を立ち、大食堂を出ていく。

続けて側妃マレリィが退室し、廊下を進んで行くと、後ろから呼び止める声がした。

「マレリィ様、お待ち下さい」

振り返ると、エルノートが追い付き一礼する。

「どうしましたか?」

マレリィは今日も黒い髪をきっちりと結い上げ、装飾は殆どないが、隙のない出で立ちだ。

エルノートは一度静かに呼吸する。

「……マレリィ様、一昨日お願いした王太子妃の決定を、取り下げにして頂きたいのです」

エルノートの言葉に、聞かないふりをしなければならない侍従や侍女達が、小さく息を呑んだ気配がした。

マレリィは黙って彼の顔を見つめる。

エルノートは真剣な表情だが、何処か穏やかにも見える。


「社交界に於いて、これ以上ない失礼な話だとは承知しております。王家に対する叱責も賠償も、私個人が受けますので…」

「ああ、そういえば」

エルノートの言葉を、マレリィの涼し気な声が遮る。

「返答を先延ばしにしておりました。まだ、どの家門にも返答しておりません」

マレリィは漆黒の瞳をそっと細める。

「申し訳ございません。私の手違いでございます」

「マレリィ様……」

「では全て、お断りしても宜しいのですか?」

エルノートは薄く笑む。

「はい」



マレリィが一礼すると同時に、後ろからカウティスが追い付いた。

カウティスはエルノートと目が合うと、立礼する。


何か言いた気なカウティスから、エルノートは目線を逸らして口を開く。

「そなたはまた、朝方までセルフィーネに付き合ったのだろう。その後、制御はどうだ?」

エルノートは淡々と話しながら歩き出した。

「もう私の助けなしで制御出来るようです。これ以上、私に出来ることはないかと……」

答えながら、カウティスは後ろに付いて行く。

そのまま歩きながら、事務的な会話が続く。


「今日は午後に、フルデルデ王国のメイマナ王女と約束がある。そなたを引き合わすので、午前は休んで、午後には私に付け」

暫くは遠ざけられることを覚悟していたカウティスは、側に付けと言われて、弾かれたように顔を上げた。

「兄上、私がお側に付いても良いのですか?」

足を止め、大きく開いた目を瞬くカウティスに、エルノートは振り返らずに答える。

「当たり前だ。そなたは私の右腕だぞ。簡単に手放すと思っていたのか?」


兄のどこか穏やかな語尾に、カウティスの顔に笑みが広がる。

昨夜、兄は心の中の痛苦を吐き出すことが出来たのだ。

そしてその相手は、きっと父王だ。



「お待ち下さい、兄上!」

嬉しくて思わず駆けるように追い掛けて来るカウティスを、エルノートが振り返って見て、ふっと軽く吹いた。

包帯の巻かれた左手を口元にやって、くっくっと笑う。

「そなた、尻尾を振る子犬のようだぞ」

「はっ?」

困惑するカウティスを尻目に、エルノートは笑い続ける。


そしてようやく笑いが収まると、小さく言った。

「……心配を掛けた」



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