不均衡な存在

夕の鐘が鳴る頃、王太子の執務室に、メイマナ王女から謁見の要請があった。

エルノートは応接室に通すよう指示を出した。


応接室でメイマナは、流れるような美しい所作でエルノートに挨拶をした。

しかし、何時もよりどこか小さく見える。 


「王太子殿下、先程は、大変失礼を致しました。お恥ずかしいところをお見せしてしまったどころか、殿下のお召し物まで汚してしまい……」

挨拶の後、向かい合ってソファーに座ると、メイマナは固い表情で言った。



エルノートが離宮の厨房を覗いた際、メイマナは卵の入ったカゴを手から落とした。

十数個入っていた卵は、メイマナの足元で全て無残に割れ、彼女の足を盛大に汚す。

動転したメイマナは足を滑らせ、よろけた。

「メイマナ様!」

即座に侍女が駆け寄ったが、共に尻餅をつく形でその場に座り込んでしまった。


ドロドロに汚れた足元に、腰と掌。

侍女や護衛騎士が囲む中、メイマナは恥ずかしくて顔が上げられなかった。

床を向いた視線の先に、エルノートの足が近付いて来て、メイマナは反射的にギュッと目を閉じた。



次の瞬間、フワリと身体が浮くように抱き起こされ、ガッシリとした腕と厚い胸板に寄りかかる。

驚いて目を開けると、目の前には角ばったエルノートの顎があった。

「そなた、マントを貸せ」

メイマナを支えているエルノートが、彼女の護衛騎士に言った。

「王太子殿下、お待ちを」

「黙れ。王女をこの姿で歩かせるつもりか」

エルノートの侍従と、メイマナの護衛騎士が止めたが、エルノートは事も無げに言い、彼女を軽々抱き上げた。


厨房の外には多くの人がいて、王女をこの汚れた姿で歩かせるのは不憫だ。

この場にいるメイマナの護衛騎士は女性で、メイマナを抱き上げるのは難しいだろう。

エルノートの近衛騎士もいるが、非常事態と言うには弱い状況で、しかも恐縮しきっているメイマナの身体を預けるのは躊躇われた。

それでエルノートは、自身でメイマナを掬い上げた。

護衛騎士のマントを、彼女の身体に被せ、その身を自分にしっかり引き寄せると、そのまま足早に居住区へ向かったのだった。



 

「本当に、申し訳ありません」

目の前のソファーに座るメイマナは、その居住まいは美しいが、この数日間に見せていた朗らかな笑顔はない。


ああ、そうか、とエルノートは思った。

昨日、内庭園で会った時の自分は、きっとこんな風だったのだろう。

自分の失態を覆い隠してくれた相手に、感謝する気持ちと、謝罪したい気持ち。

そしてそれと同等に、自分の失態が恥ずかしく、情けなくて、いたたまれない。

……目の前でそんな風では、メイマナ王女はきっと、放っておけなかったのだろう。

それで、お茶に誘ってくれたのだ。


「申し訳ない」

「え? えっ? 王太子様が謝られるようなことはっ! 私が助けて頂いたお礼を述べる方です」

メイマナは慌てて腰を浮かす。

「いえ。私が驚かせたのです。それで、貴女がそのような顔をする事態を招いてしまった。申し訳ない」

「違います! 私が迂闊だったのです。失敗ばかりで、お恥ずかしい……」

メイマナは顔を赤くする。

「……それならば、あいこにして頂けないでしょうか」

「……あいこ、ですか?」

メイマナが目を瞬き、エルノートは苦笑する。

「一昨日の私の恥と、相殺に。そうでなければ、私達は昨日のように楽しくお茶もできません。まだ、弟君のお話も聞いていないのに」


謁見の間でメイマナの言った、フルデルデ王国の末の王子のことだ。

メイマナは、エルノートがそんなことを覚えていたことに驚くと共に、フワリと嬉しい気持ちが湧いた。

「……はい。では、あいこにさせて下さいませ」

メイマナが恥ずかし気に笑う。

彼女に笑顔が戻ったことに、エルノートは少しほっとした。



「良かったですね、メイマナ様」

ハルタに言われて、廊下を歩きながらメイマナは頷いた。

謝罪を受け入れてもらって安堵したこともあるが、次のお茶の約束が出来て嬉しかった。

特別な意味はない。

ただ、王太子と話すのは想像以上に楽しくて、昨日の短いお茶の時間では、話し足りていない気がするだけだ。

だから次の約束がとても楽しみで、メイマナは自然と笑顔になっていた。





日の入りの鐘が鳴る。

王の執務室で、王が磨かれた銀の水盆を前に水の精霊を呼ぶ。

水の上に小さな水柱が立ち上がり、仄かに輝く美しいセルフィーネの人形ひとがたが現れた。

その姿は透けてはいるが、もう朧気ではなくなっている。


水盆に向かうのは王とエルノート、魔術師長ミルガンだ。

水の精霊の声を聞くことが出来ない、宰相セシウムと騎士団長バルシャークは、少し離れた所に立って見ていた。



「セルフィーネ、精霊のそなたが神聖力を持ったとは本当のことか」

「本当だ」

王の問いに、彼女は答える。

目を伏せ気味に立っているセルフィーネの表情からは、その感情が窺えない。

「では、カウティスの報告は偽りで、国境地帯を浄化したのはそなたの力なのか」

王が眉根を寄せて強い語気で問う。

「偽りではない。私の力は狂った精霊を鎮めただけだ。あの地を浄化したのは月光神だ」


王は、溜め息と共に額に手を当てた。

端的に言えば間違っていないのだろう。

だが結果的にはそうでも、この大事を引き起こしたのはセルフィーネで、彼女はそれがこの人間の世界でどういった意味を持つのか、理解出来ていないように見えた。


思えば、以前から水の精霊とはそうしたものだった。

ネイクーン王国の水源を保ち、人々の生活が潤滑に回るようにする為に王族と交わっていただけで、それに必要なことでなければ口を開くこともない。

問い掛けても無言を貫いていた。

変わったのは、カウティスと出会っての十数年だ。

しかもその多くは眠っていたのだから、僅か数年ということになる。

人の世の道理や序列はおろか、しがらみや機微に至っても、疎いのは当然なのかもしれなかった。


多くの事を知り、大きな魔力を持っているが、多くの事を知らず、使われる存在であることを受け入れている。

今の水の精霊は、非常に不均衡な存在なのだ。



「セルフィーネよ、司教は、そなたを神殿に求めてきたぞ」

セルフィーネが初めて顔を上げて、王を見た。

「オルセールス神聖王国所属として、神殿に据え置きたいようだ」

「……私は、ネイクーン王国の水の精霊だ」

「そうだ。しかしそなたは、それだけでは収まらないものになろうとしているのだ。神聖力を持つということはそういうことだ」

セルフィーネは目を見開く。


「聖紋を刻まれ神聖力を持つ者は、この世界の如何なる者であろうとも、オルセールス神聖王国所属となる。神の意志に背いてはならない。それがこの世界の道理だ、セルフィーネ」

王の言葉に、信じられないというように、セルフィーネは小さく首を振った。

「私は……、私はそんな……」


聖職者?

私は、水の精霊だ。

この世に生まれ出た時から変わっていない。

それなのに、何がどうしてこうなっているのだろう。

水の精霊として、ネイクーン王国に、カウティスの側にいたいと願っているだけなのに、どうして。


薄い胸を押さえ、狼狽えているセルフィーネを見て、王は大きく息を吐いた。

これでは、まるで虐めているようだ。

気が付くと、側に立つエルノートとミルガンの目が冷たい。


「陛下、その仰りようでは、既に水の精霊様を神殿に引き渡すように聞えます」

水の精霊の声が聞こえないセシウムでも、苦い顔をしてそう言った。

「そんなつもりではないわ。知っておくべきことを教えただけだ」

口を歪める王の言葉に、セルフィーネは僅かに顔を上げ、震える声で言った。

「私は、……私は神殿に据えられたくはない」

「そんなことは、分かっておる」

王は鼻の頭にシワを寄せ、ミルガンは疎らな口髭をしごく。

「神託が何故下りていないのか疑問ですが、召喚を突っ撥ねる事が出来て、今のところこちらには都合が良いですな」



エルノートが心細く水盆に立つセルフィーネを見て言った。

「先ずは、管理官が来た時にどうするか、だな……」




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