呼び掛ける声
ザクバラ国とネイクーン王国の国境地帯。
日の出の鐘が鳴る前、ベリウム川を挟んでザクバラ国側では、休戦協定が結ばれて故郷へ帰っていくはずの兵士達が、魔獣と戦っていた。
首が二つある大型の狼のような魔獣で、休戦前から時々何処からか出現しては、手負いの兵士を襲っていた。
最後の一体を斬り伏せて、ようやく兵士達が安堵の息を吐いた。
「良くやった、イルウェン。負傷者を運べ。重症の者はいないか」
指示を出すのは、主使としてネイクーン王国を訪れていた、リィドウォルだ。
ネイクーン王国から帰国し、一日休んですぐに、国境地帯に来ていた。
魔術士ではあるが、長いローブは着ずに、兵士のような軽装に黒の丈の短いケープを羽織っている。
緩くクセのある青みがかった黒髪は、後ろで軽く縛られていた。
彼の護衛騎士のイルウェンは、目付きの悪い顔に散った血を気にすることなく、魔獣の血がついた片刃剣を振り、鞘に納めた。
魔力が歪んでると魔獣が現れるというのは事実で、この一帯は目に見えて魔力の流れがおかしくなっていて、魔獣が多く出現する。
魔術素質の高いリィドウォルには、気を抜けば吐きそうな程に空気が悪い。
兵士達と、投石機などの戦器を、この気分の悪くなる国境地帯から早く撤退させたいが、魔獣のせいで思うようにはいかないのが現状だった。
倒した魔獣を、魔術士が火の魔術で焼く。
昇る煙を見上げれば、川を挟んでネイクーン王国側の空は、濁った魔力が混じりながらも、美しい水の精霊の魔力が広がっていた。
リィドウォルはギリと歯軋りする。
川幅分の距離を隔てているだけで、その恩恵を受けることが出来ない。
ネイクーン側へ行った密偵の話では、対岸には魔獣は出現していないらしい。
リィドウォルがこちらから見ても、明らかに魔力の濁りが違う。
川の中程に、濁った魔力が集まって水面に降りていく箇所があった。
長く見ていると、水中からジワジワと澄んだ魔力が溢れ出てるのが分かる。
リィドウォルはここに来てから、何度もあれを見つめている。
あそこに、水の精霊がいるのだ。
遠くから日の出の鐘が鳴り響き、既に随分と明るかった東の空で、月が太陽に替わった。
ふと、対岸に、ロープを身体に巻き付けた男が二人、川に入って行くのが見えた。
距離もあり、二人共日除けのフードを被っているので顔は分からないが、一人が魔術符らしい物を取り出して、お互いの背中に貼った。
貼ったところが青く光る。
一部の魔術式が見えたが、どうやら水勢を抑える魔術符のようだ。
川の流れが、彼等の周りだけ緩やかになった。
命綱のロープを垂らしながら、腰上の水位を、川の中程に向って、二人はゆっくり進んで行く。
「あれは、何をしているのでしょうか」
側に立ったイルウェンが言った。
「……あそこに向かっているようだな」
リィドウォルが指差した先には、小さな中洲がある。
比較的穏やかな今のベリウム川では見えるが、荒れる時には水没するだろう。
その時、風の精霊が突風を吹かせた。
一人がバランスを崩して頭まで水に浸かり、もう一人が引っ張り上げる。
立っていた男の方のフードが剥がれ、黒髪が風に散る。
「黒髪?……まさか、
リィドウォルが目を凝らした。
「マルクの奴、見てらんねぇな」
岸に残り、命綱のロープを木に括り付けた場所から川に入った二人を見つめ、ラードは歯噛みした。
周りにいる兵士達も、息を詰めている。
宣言通り、マルクは今朝までに水の通信魔術符を完成させた。
実行するのはベリウム川の中洲だ。
村の跡にある井戸から水を汲み上げ、試してみて上手くいったが、実際どのくらいの距離を伝えられるのかは分からなかった。
だから出来るだけ、水の精霊に近いところで実行する。
水の精霊に声を掛けるカウティスと、魔術符に何かあった時の為に、マルクが一緒に行く。
エルドは兵士達と、カウティス達が水に飲まれたときの為に、命綱の番だ。
見ている者をハラハラさせながら、二人は中洲に辿り着いた。
動きやすいように、二人共兵士の格好で日除けのフードを被っていたが、ここに辿り着くまでに全身びしょ濡れで、マルクに至っては満身創痍だ。
「大丈夫か、マルク」
「……た、多分」
マルクは膝をつき、何とか息を整える。
落ち着いて周りを見れば、今は穏やかな流れとはいえ、幾度も氾濫しているベリウム川の中にいることに恐怖を覚えた。
しかも上から降りてくる魔力は、毒々しい色をしている。
ゴクリと喉を鳴らしてカウティスを見れば、彼は澄んだ青空色の瞳で、マルクを心配そうに見つめている。
「すまない。無理をさせているな」
その顔を見て、マルクはようやく落ち着いてきた。
この不器用で真摯な王子に、今、水の精霊様が無事なのか教えてやれるのは、自分しかいないのだ。
「大丈夫です、王子。やりましょう」
マルクは立ち上がった。
水の精霊がいる方へ向けて、二人は中洲の端に立った。
「水の精霊様がいるのは、この方向です」
魔力の見えないカウティスに方向を教え、マルクは取り出した魔術符に魔力を流す。
魔術陣が波打つように青く光った。
カウティスが、強く頷く。
それを見て、マルクが水の上に魔術符をかざす。
穏やかに流れる水面に、青い魔術陣が映し出された。
カウティスは、魔術陣の側に片膝を付き、呼び掛ける。
「セルフィーネ」
水の精霊がいるはずの方向へ、視線を送る。
「セルフィーネ。返事をしてくれ」
名を呼んだら、胸の内から思いが込み上げた。
彼女の声を聞きたい。
彼女の姿を見たい。
「セルフィーネ!」
セルフィーネは、ベリウム川の底の更に深い所で、泥のような魔力に全身を覆われていた。
聞こえるのは、
ふと、微かに何かが聞こえた気がして、ピクリと身体を震わせる。
…………何だろう?
そちらに意識を向けなければいけない気がした。
薄っすらと目を開けた時、土の精霊の声が聞こえた。
« 同胞よ 水の精霊よ 目を閉じよ 我等と共にあれ »
そうだ。
私はまだここにいなければ。
傷付き、苦しんでいる同胞を癒やしてやらねばならない。
再び目を閉じようとした時、もう一度何かが聞こえた。
目を閉じなければと思うのに、どうしても今聞こえた音が無視できず、首を傾げる。
―――声?
誰かの声だと認識した途端、不思議と彼女の内側から、“帰りたい”という思いが迫り上がった。
今すぐ、帰りたい。
帰りたい、でも、何処へ?
急激に全身の痛みが増した。
土の精霊が、水の精霊を拒絶する。
セルフィーネは力を込めて留まろうとするが、三度目の声が、彼女の意識を拐った。
『 セルフィーネ! 』
彼女は弾かれ、外に出された。
突然、水の中から激しい水飛沫が上がり、カウティスとマルクを濡らした。
咄嗟に目を閉じた二人が、水飛沫が収まったのを感じて、目を開けた。
カウティスは、驚愕した。
水の通信魔術陣が映し出されていた辺りに、それは立っていた。
辛うじて人の形に見えるそれは、赤黒い泥の塊のようで、表面をモヤのような物で覆われている。
頭からは、酷く濁った青色の長い髪のような物が重く垂れ下がり、泥水のようなものを滴らせていた。
よく見れば、一部は実体でないらしく、ぼんやりと向こうに水面が見えた。
カウティスは息を呑んだ。
魔術素質のないカウティスに、実体がないのに
「……セルフィーネ」
カウティスが名を呼ぶ。
異形の水の精霊が目を開いた。
硬質な紫水晶の瞳に、赤黒いものが滲んでいる。
太陽が輝く空の下で、水の精霊の身体は形を留めることが出来ず、不安定に大きく歪む。
「……ネイクーン王族よ、何故私を呼んだ」
不明瞭な声が聞こえた。
だがその声は確かにセルフィーネの声だ。
「セルフィーネ」
カウティスは再び呼ぶが、彼女は反応しない。
「
怒りのようなものが、水の精霊の周りに滲む。
カウティスが眉根を寄せた。
「セルフィーネ、俺だ。分からないのか」
カウティスの言葉が聞こえていないように、彼女の歪みが大きくなり、さっきまで穏やかだった川の流れが、急に荒れ始めた。
マルクは立てなかった。
カウティスの前に集まっている、毒々しい魔力の塊の圧力に抑えられ、手も足も震えて動けない。
あれが本当に、ネイクーン王国の水の精霊様なのか。
周りの流れが荒れ始め、中洲にも水が押し寄せた。
このままでは、すぐにでも荒れた川に押し流されそうだ。
岸の方では、ラード達が、二人の命綱を引くために皆で綱を持っていた。
こちら側にいる魔術士が、恐れ慄く程の魔力の塊が水の中から出てきたと言う。
ラードに魔力は見えないが、汚泥の様な物が人の大きさに盛り上がり、泡立つように動いているのが見える。
それと同時に、急激に荒れ始めた川を見て、二人を回収するべきだと判断した。
命綱を引くよう、号令を掛けようとした時、カウティスがこちらに何かを叫んでいるのが見えた。
轟々と水の音がして、よく聞こえない。
しかし、目を凝らしたラードには、カウティスが何と言っているか分かった。
「まだ引くな!」
カウティスの命令を受け、ラードは鼻の頭にシワを寄せる。
「……くそっ。まだ待機だ!」
命綱を持った兵士達に大声で言い、ラードは中洲を見る。
中洲は今にも沈んでしまいそうだ。
「頼みますよ、王子……」
力一杯綱を握り、ラードは呟いた。
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