この国の王族として
庭園の泉で、いつものように水の精霊と過ごそうとやって来たカウティスは、突然のことに戸惑った。
何度も目を瞬いて、水の精霊の言葉を理解する。
「……南部へ? どうして」
「エスクト砂漠の地下水源が危うい。私が向かわなければならない。先程、王にも告げた」
カウティスは眉を寄せる。
「城にいるままで、何とできないのか」
「火の精霊が活発化している。私が当分の間留まる方が良い」
「当分とは、どのくらいだ?」
「……火の季節までには戻る」
カウティスは、祭事用の真新しい衣装の袖を、しわが寄るほど握った。
「そんなに長く……」
優しい声音で話す水の精霊に、思わず甘えが出る。
「ではせめて、御迎祭が終わってからにできないか?」
毎年楽しみにしている、御迎祭の終わりに上がる花火を、水の精霊と見たいと思っていた。
彼女は首を横に振る。
「砂漠に住まう者達のためにも、少しでも早い方が良い」
水の精霊は、泉の縁に一歩近付く。
しゃがんで、穏やかな表情でカウティスに向き合った。
「
カウティスは下唇を噛んだ。
水の精霊が、この国の水源を守ってくれていることを理解している。
理解はしているが……。
カウティスは俯き、水の精霊の足元を見つめた。
「火の精霊が、もっと弱くなれば良いのに」
「それは願ってはならない」
水の精霊の固い声が、頭上から降ってきた。
カウティスは顔を上げる。
水の精霊は立ち上がり、カウティスを静かに見下ろしていた。
髪が大きく揺れて、彼女の顔を半分覆った。
「セルフィーネ?」
「
火の精霊の強い影響で、多くの災厄もある。
しかし、同時に多くの恩恵を受けていることも事実。
鉱山、砂漠の産出物、鍛冶場など火の精霊の影響による産業も多い。
水の精霊は、恐ろしく澄んだ紫水晶の瞳でカウティスを見据える。
「ネイクーン王国、カウティス第二王子。そなたは火の国の王族。例え、私を大事に思ってくれていたとしても、決して火の精霊を蔑ろにしてはならない」
自覚せよ。
忘れてはならない。
ここは火の精霊の地であること。
この国の王族であるということ。
望まずともここに生まれ、今、ここに生かされていることを。
カウティスは、長い時間、黙って水の精霊の瞳を見上げていた。
受け入れ難いものを、何とか飲み下そうとしているようだった。
青空のような瞳は、強い光を宿している。
冷たい風が吹いて、彼の青味がかった黒い髪を乱す。
握った拳は、節が白くなる程強く握られたまま開かない。
剣術の鍛練のため、訓練場に行く時間を過ぎた。
午後の二の鐘が鳴る。
いつまでも王子が庭園から出てこないので、侍女のユリナが、花壇の小道から様子を見に来た。
しかし、護衛騎士のエルドが止める。
普段と違う王子と泉の様子に、声を掛けてはならないような気がしていた。
水の精霊は、ただ静かに待った。
カウティスと長い間見つめ合い、彼が言葉を発するまで、何も言わず待っていた。
「……分かった、城で待っている。……南部を頼む」
ようやく、カウティスが声を絞り出すように言った。
水の精霊が小さく息を吐く。
「承知した」
彼女は、カウティスの左頬に右手を伸ばす。
水の精霊の白い指が、頬に触れる。
彼女の指が触れても、カウティスにはなんの感触もなかったが、互いに薄く微笑んだ。
「国内の目は閉じない。そなたのことも感じているので、鍛練を怠らないように」
体術の先生のような物言いに、カウティスが顔をしかめる。
「当然だ。そなたが戻る頃には、もっと強くなっている」
水の精霊は長い髪を揺らして頷く。
「では、行く。息災で」
カウティスは唇を引き結ぶ。
ふと、水の精霊が目元を和らげた。
「祭事の衣装がよく似合っている。男前だな。見られて良かった」
言って、はにかんだような笑顔を見せる。
そして唐突に姿を消した。
泉の水柱がパシャンと音を立てて落ちた。
水柱が消えたのを見て、エルドとユリナが急いで近寄った。
カウティスは泉の縁に手をついて、ガクリと首を垂れている。
「……んだ、それ……」
「カウティス様?」
ユリナが声を掛ける。
カウティスは耳まで真っ赤にして、呟いた。
「言い逃げなんて、ズルイだろ……」
庭園の泉で、サラサラと小さく水音がする。
今日は、一年の最後の一日。
日の入りの鐘の後に、月光神への感謝の祭事が行われる。
年末と年始の祭事だけは、未成人の王族も参加する。
カウティスも、毎年この二日間は、何もかもがいつもと違う雰囲気でワクワクしたものだ。
夕食の後に、カウティスは庭園の泉に来ていた。
こんな時間に泉に来るのは初めてだ。
この時期、夕の鐘が鳴った後は暗くなるのも早い。
泉には小さな噴水が上がっているだけで、水の精霊の姿はない。
彼女は、十日程前に南部へ向かった。
カウティスは泉の縁に座る。
暮れの薄暗い色に染まる水面を見つめて、小さく息を吐いた。
侍女のユリナが庭園に入って来た。
「カウティス様、そろそろセイジェ様とのお約束の時間です」
セイジェと一緒に感謝祭に向かう約束をしているのだ。
カウティスは立ち上がり、庭園を後にした。
日の入りの鐘が鳴る。
「いつもなら寝る準備をする時間に、外にいるって、ドキドキしますね」
セイジェが隣ではしゃいでいる。
薄葡萄色の上下に、銀糸の刺繍がされた黒のベルトと、同じ意匠の短いマントを着けている。
「そうだな」
カウティスは笑顔で答える。
カウティスも色違いで、同じ衣装だ。
明日の御迎祭では、金糸の刺繍がされた白いベルトとマントに変わる。
西の空で薄く霞んでいた太陽が、月に替わる。
月光神が現れる瞬間だと言われる。
月光神に仕える女司祭が、祈りを捧げ始めた。
続けて王と王妃が祈りを捧げる。
この後、神官による奉納舞と、長い長い祝詞奏上があり祭事は終わる。
年が明けて行われる、太陽神の御迎祭は華やかだが、月光神の感謝祭は清静に行われる。
大人達は、祭事の後に離宮の大広間で、夜通し宴を楽しむ者もいる。
城下でも、民が夜通し祭りを行っていて賑やかだ。
王女や王子達は、奉納舞まで参加すれば自室に戻って良いことになっていた。
幼い王子だと、寝てしまう程に祝詞が長いのだ。
カウティスも去年まではここで退席した。
美しい奉納舞が終わり、舞具が仕舞われる。
祝詞奏上の準備が始まると、セイジェは立ち上がった。
立ち上がらないカウティスに、首を傾げる。
「カウティス兄上は、戻らないのですか?」
「今年は最後まで参加する」
カウティスは、コクリと頷いて言う。
セイジェは自分も残ると主張したが、乳母や侍女達に止められ連れて行かれた。
「カウティス、今年は残るのかい?」
深緑の上下に、カウティスと同じベルトとマントを着けたエルノートが聞いた。
その隣からフレイアが覗いて、悪戯っぽく笑う。
「途中で抜けるのは格好悪いわよ」
緋色のドレスに、王子達のマントと同じ意匠の刺繍がされたショールを巻いている。
「最後まで参加します」
カウティスは二人にそう言って、姿勢を正す。
エルノートとフレイアは顔を見合わせた。
神官の祝詞奏上が始まる。
カウティスは、長い祭事の最後まで、王族の席で前を向いていた。
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