第二王子と水の精霊
幸まる
少年王子の自覚
王城の泉
王城の小さな庭園に、泉があった。
大人が二十歩も歩けば一周回れそうな小さな泉。
真ん中に細く一本の噴水が上がっていて、太陽の光でキラキラと虹が掛かって見える。
周囲には色とりどりの花が咲き乱れ、微風に揺られていた。
花の間の小道から、軽快な足音を立てて走ってきた少年が、石畳の段につまづいて勢いよく転んだ。
べしんっ!と盛大な音を立てて転んだ彼の手から、持っていた何かが弧を描いて飛んでいき、ポチャンと泉に落ちた。
「あーーーっっ!」
転んだまま顔だけ上げて、少年は泉に向かって叫んだ。
短く切り揃えられた、青味がかった黒い髪。
痛みで潤んだ瞳は青空の色だ。
受け身も取れずに転んだらしく、ぶつけた鼻が赤い。
少年は両手をついて起き上がると、服も払わず泉の縁にしがみついた。
泉の水は塵ひとつ浮かんでおらず、おそろしく澄んでいて、泉の底のタイルの細かい模様をはっきり見ることが出来たが、少年が落とした物は見当たらなかった。
―――少年が細い眉を寄せた時だった。
サラサラと小さく水音をたてて、突然、透明の泉の水から
腰まであるストレートの水色の髪。
長いまつ毛が揺れる、目尻の下がった瞳。
柔らかな曲線の肢体に、細かな襞が寄った長いドレスを纏った、美しい細身の女性だった。
ただ、その美しい姿は透けている。
だが不思議と恐ろしいものとは思えなかった。
ポカーンと、口を開けた呆け顔で少年は彼女を見つめ、次の瞬間、彼女の右手を見て叫んだ。
「オレの飴!」
「そなたか、私の泉に飴玉を投げ入れたのは」
彼女の細い指に摘まれたのは、棒のついた真っ赤な飴玉だった。
「美しいもの以外を投げ込まれたのは初めてだ」
彼女は小さくため息をつきながら、飴の棒を親指と人指で挟んでブラブラと揺らして見せた。
少年は揺れる飴と彼女を見比べてボソッと。
「…おばけ?」
ポチャン!
再び飴は泉に落とされる。
「あーーーっ!!オレの飴!」
「誰がおばけだ」
彼女が右手の指をスイと上に動かすと、水中から棒付きの真っ赤な飴が浮き上がり、彼女の手に戻る。
彼女は再び飴をブラブラと揺らした。
「おばけじゃないなら何なんだよっ」
届きそうで届かない飴に手を伸ばした彼が、バランスを崩して、泉の縁から水面に向かってつんのめった。
落ちる!と、ギュッと目を瞑ったが、ひんやりとした柔らかいものが彼の身体を受け止めた。
ゆっくり目を開けると、キラキラと輝く水が盛り上がり、彼の身体を支えていた。
「今度はそなたが飛び込むつもりなのか?」
彼女がそう言うと、彼を支えていた水は、彼の身体をゆっくり押し戻して石畳の上に降ろした。
彼は自分の身体を見回す。
その身体には水滴一粒すら付いておらず、衣服に湿ったところは少しもない。
気付くとその右手には飴の柄が握られていて、水中に二度落ちたはずのその飴にも、濡れて溶けたところはなかった。
彼は澄んだ青空の色をした瞳を丸くして、改めて彼女を見上げる。
彼女は涼しい顔で彼を見返していた。
「おばけじゃないなら、何……?」
「王子! 護衛を撒いていかれては困ります」
さっき少年が出てきた小道から、赤毛の青年が顔をしかめて走り出てきた。
格好からすると護衛騎士のようだ。
王子と呼んだ少年に走り寄りながら、泉の方を見てハッとすると、少年の側まで来て片足を折り跪く。
そして泉に向かって頭を下げた。
「水の精霊様」
「水の精霊?」
少年は後ろで跪く護衛騎士と、泉に佇む彼女を見比べる。
「そう、私は水の精霊だ。ネイクーン王国第二王子、カウティス王子」
彼女は涼しい声で言う。
一緒にサラサラと水音が聞こえるようだ。
「オレを知ってるのか?」
「王族は我が契約の主。全て把握している」
少年――カウティスは、目の前の美しい精霊をまじまじと見つめた。
ネイクーン王国は、大陸の南東の辺境の火の国。
火の精霊の影響が強い土地柄、水源に乏しく、古来より度々日照りと干ばつで苦しんできた。
そこで十数代前の王が、大陸を治めるフルブレスカ魔法皇国に願い出て、水の精霊と契約を交わし、ネイクーン王国に迎え入れることにした。
これにより、ネイクーンに水が枯れることはなくなり、豊かな水源で街は栄え、国は富み、いつしか王国は、“聖泉を頂く火の国”とまで呼ばれるようになった。
「伝説の水の精霊が、こんなところにいたなんて知らなかった。エルドは知ってたのか?」
カウティスは後ろに控えた護衛騎士を振り返る。
「水の精霊様が、この泉に姿を現されることがあるとは聞いたことがありました。お姿を拝見するのは初めてです」
エルドと呼ばれた赤毛の護衛騎士は、緊張からか口調が固い。
「ずっとこの泉にいるのか?」
「ずっといるわけではない」
カウティスが泉に向かって精霊と会話していると、エルドはぎょっとしてカウティスを止めた。
「王子、精霊様にそのような物言いは失礼に当たります……」
「構わない。そのまま喋れば良い」
水の精霊は表情を変えずカウティスに頷く。
「構わないと言っているから良いだろう?」
「……あの、精霊様は、そのように仰っているのですか?」
エルドは眉根を寄せてカウティスを見る。
「ん? 言っているだろ?」
「……私には聞こえません、王子」
エルドは泉をチラリと見て声を小さくする。
「泉の水が盛り上がっているので、水の精霊様がそこにおられることだけは分かりますが…」
「?? どういうことだ?」
カウティスは訳が分からなくて首を傾げる。
「私をこの姿で見て、話すことが出来るのは、契約の主である王族だけだ。魔術士であれば声は聞こえるようだが」
水の精霊は表情を変えることなく、自分の胸に手を当てて淡々と話す。
「ではこの美しい姿は、オレにしか見えてないのか?」
カウティスは目を瞬いて、エルドに向かって彼女を指し示した。
エルドは首を振る。
「私には小さな水の柱にしか見えません。水の精霊様はそんなに美しいのですか?」
エルドは泉にできた水柱を、赤味がかった茶色の瞳を凝らして見つめる。
カウティスは改めて水の精霊を眺める。
細く細く、サラサラと流れるような水色の髪。
紫水晶のように輝く瞳。
瞳の上に揺れる、長いまつ毛。
薄い唇に細いあごの線。
整った顔立ち、柔らかな肩の曲線。
王宮内に美しい女性は多いが、これ程美しい者を見たのは初めてだった。
よく見ると、確かに透けて見えるその細い肢体の後ろに、小さな水柱がある。
エルドにはそれしか見えていないのだろう。
自分にしか見えてない、この美しい精霊のことを、エルドに詳しく教えてやるのは何だか惜しい気がした。
悪戯に小さく笑んで、カウティスはエルドに向かって言った。
「秘密だ」
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