⑧-2 4月8日(水)・舞台裏

 ◆


「異能、者……」


 ぽつり、呟く。

 それは世界の陰に潜む、常人の域を逸脱した存在。

 超能力、オーバーテクノロジー、魔術等——そういったものを身に着けた人達が、俺が持つ「情報」を狙っているらしい。


 それを説明された俺、四季しきめぐるは……正直、まだ半信半疑だった。

 荒く頭を掻きながら、今しがた俺に「異能者」についての説明をしてくれた秋月あきつきコノエに質問する。


「あー、そのさ。秋月はその超能力的なの使えるわけ?」

「いいえ。私は非異能者です。異能者は基本的に自身と同じ能力者が居る『陣営』に行くので、審問官はほとんどが異能を持たないか、ごく微弱な異能しか持ちません。ですがご心配なく、護衛能力には何の問題も――」

「ああいや、ゴメン、そうじゃなくてさ。その、要するに……異能ってやつを、『今・ここで・直接』見るのは無理なのかなー、と思って」


 その言葉に、秋月の鉄面皮が初めて崩れた。僅かに不服を覗かせながら彼女は言う。


「……疑われているのですか」


 じと、と少しだけ睨むような視線に、俺はちょっと気まずくなりながらも、


「まあその、正直ね」


 頭を掻きながら、そうひとまずの結論を提示した。


「確かに不思議なこといっぱいあったし……消しゴムとか謎弁当とか。それに、あんな可愛い女子たちと俺なんかが親しくなれたのは解せなかったけどさ……それでも『異能』ってのはなんていうか、キャパオーバーだ。悪いけど、中学生1人の言葉だけじゃ信じられない」


 そう。俺はこれでも16年間、普通の社会で生きて来た普通の人間。そりゃあ超能力とか魔法とかに憧れた時期はあったし、なんなら今も「あったらいいな」くらいは思っているが……それが真面目な顔で「ある」と言われても、やっぱり信用は出来ない訳で。

 そう俺が言うと……秋月は少し目を見開いて、半ば独り言のように呟いた。


「……ではあなたが持つ『情報』とは、異能に関わるものでは無いのですか」

「ていうかそこなんだよな。俺、別に異能者が喜ぶ情報なんか持ってな――」


 その時。


 ぞわ、と背筋が泡立つ。


 まるで猛獣に背中を睨まれているような、そんな不気味な感覚が俺の全身を襲った。秋月に抱いた、道端に落ちたナイフを見たときに似た警戒心それとは桁が違う。日本刀を首筋に突き付けられたのではないか、そう直感するほどの悪寒。


 俺は弾かれたように視線の先を振り向く。そこには。


「やぁ~っと見つけたァ」


 月を背にした金色の眼が、此方をじっと見つめていた。

 目のやり場に困る格好をした、鬣のような紺色の髪の女性。それが"電柱の上"に肉食獣を思わせる格好でしゃがんでいた。更にどういう原理なのか、その細い右腕が俺の身長くらいありそうな巨大な剣を棒切れか何かのように持っている。

 それは俺にとって、余りにも現実離れした光景だった。


「な、電柱の上あんなとこに、人が……!? それになんだあの剣、あれ持ってどうやって登ったんだっ?」


 驚愕と疑問の狭間で混乱する俺の横で、秋月は身構えるように身を沈める。


「あれは……ッ!」


 彼女の声が一段低くなった。それはやはり、熱を持たない刃のようで。


「巡さま、『異能』を直で見たいとおっしゃってましたね」

「お、おう……あとその、『サマ』は止めてくれない? めっちゃムズムズします」

「承知しました、では『先輩』で。話を続けますが――あれが『異能者』です」


 あの人が――そう思って視界を再び電柱の上に向ける。

 しかしそこには既に誰も居なかった。


「『異能者』呼びは止めてよぉ中学生ちゃん。誰だってさァ、『女』とか『学生』とか、肩書で呼ばれたらムカつくっしょぉ?」


 背後に。


「な」


 俺と秋月の間に、まるで最初からそこに居たかのように彼女は居た。

 悪戯が成功した子供のように、にま、と笑い。そのまま彼女は軽い口調で自身の素性を明かす。


「——やっほーはじめましてメグルっち。ウチは藍華アイカ・ヴァレンタイン。ハーフで、魔剣士で、ギャルだよ。凄いっしょ?」


 金に光る目を細めて笑うその顔は、何処かネコ科のそれを思わせる。えくぼを見せて笑う口の端には八重歯――否、牙。他の印象が無ければ「天真爛漫」と言えそうな容姿と仕草も、今はヒトではないナニカがヒトを演じているようで、ただ恐怖を掻き立てる。

 突如背後を取られたこともあり、その軽い口調の自己紹介などまったく頭に入ってこない。俺の思考は「どうやって」で一杯だった。

 思わず、口から荒唐無稽な言葉が漏れる。


「い、異能……瞬間、移動??」

「ヤだなぁ、そんなんじゃないよ」


 そう笑うと、アイカと名乗った少女は――ズガン!! とコンクリートの地面を蹴りぬいた。

 衝撃に体が揺れる。轟音に体が硬直する。道路に蜘蛛の巣状に罅が入り、地面が数センチほど陥没した。


「……え」


 明らかに常軌を逸した脚力。けれどその露出している細い足は、こんな破壊を起こせるようには到底見えない。

 彼女は今起こした蛮行を誇るように笑いながら言う。


「さっきのはでぇ、ジャンプして登って、ジャンプして下りてきただけ。この剣、『魔剣ダーンスレイヴ』を持ってるとチカラが沸いてきてさ~、こんなコトも簡単にデキちゃうワケよ」


 耳も生えるんだよカワイイっしょ? と頭の上の物体をピコピコと動かしたとき、俺はようやくそれが獣の、それも「生きている」耳だと認識できた。

 巨大な剣、異常な身体能力、そして「耳」。

 頭ではなく、肌で感じた。


 ――じゃない。これが、異能者。


 16年信じ続けた「常識」が崩れ去る中、何も言えなくなった俺に魔剣士?のアイカは顔を近づけてくる。


「でさぁ、ウチ魔剣士で、サークルのために色々やってて~。お、写真通り。やっぱりキミがメグルっちだ」


 彼女はスマホで撮ったらしい写真とのけぞる俺の顔を見比べる。そのとき初めて、その顔に手にスマホに血が付いているのが分かった。

 鼻をツンと刺す、鉄錆の匂い。それを握る得物から香らせながら、アイカは何でもないように言う。


「だからさ~メグルっち……大人しくウチに攫われてくんない?」

「え――」


 そうして、彼女は血で濡れた手を俺の方へ伸ばし――。


 ガギィン!! という甲高い音と共に、火花が散った。

 ぺろり、とアイカが舌で唇をなぞりながら目を細める。


「ありゃ、アンタも?」


 見れば、巨大な漆黒の魔剣が銀色のナイフを受け止めていた。

 そのナイフを突き出しているのは――秋月、コノエ。


 彼女は硬質な声でアイカを刺すように言う。


「……一般人への異能漏洩及び拉致未遂。異端審問会の規定により、あなたを拘束します」

「アハ、嘘が下手だねぇ。どーせメグルっちのボディーガードかなんかでしょ?」


 目が。2人とも目が笑っていなかった。肉食獣のような視線と刃物のような視線がぶつかり、武器と一緒に鍔競り合っているのが分かる。

 ふと。アイカが上を見上げた。

 視線から逃げたという感じではない。彼女の目が捉えたのは、夕の終わりを飾るような薄色の月。


「まだ夕方だけど、月が出てるね」

「……」

「綺麗だから、殺しちゃお!!」


 言うやいなや、超速で魔剣が振るわれた。巨大な刃による攻撃は、「斬撃」と形容するより「黒色の破壊」と呼ぶ方が似合うほど。

 漆黒の颶風が吹き荒れ、攻撃の軌道上にあった壁がやすやすと両断される。


「――ッ」


 しかしその一撃を秋月は身をかがめることで避けていた。そのままバネのように勢いよく体を跳ねさせ、ナイフで敵の喉元を狙う。


「おっと危ない、お返しッ!」


 それを魔剣で受け止めたアイカが今度は攻撃を繰り出し、それを秋月は身を捻ることで回避し――気付いたときには、俺の目の前で超高速の白兵戦が展開されていた。

 ナイフと魔剣が交互に突き出されながら、刃が肉体が、そして言葉がぶつかり合う。


「『四季巡』に手を出せば、超常殺しが黙ってませんよっ!」

「あっは、1年も行方不明なんだし、もう死んだっしょぉ。それにウチの陣営サークルはどうせ弱小だしぃ、一発逆転の大博打も楽しいと思わない?」

「くっ、愚かな!」


 なんだ、コレは。

 彼女たちの戦いを見せつけられた俺の胸中を占めたのは、超ド級の困惑だった。

 それは、そのあまりにも人間離れした戦いの様子に、ではない。


「(。2人とも、100%『殺す気』で斬り合ってるッ)」


 ――「殺し合い」の世界。それは俺にとって、余りにも遠い存在だった。そんなのは画面や紙面の奥の出来事で、決して現実に出張ってくることは無い。それが俺の世界の常識だった。

 けれどその常識が、目の前の「殺し合い」に現在進行形で壊されていく。


「(喉を狙った! それが当たれば死んじまうんだぞ! な、今の秋月の腹に掠って――あの異能者の攻撃なんか、何喰らっても一発アウトじゃないのかッ!? 殺されるのが怖くないのかよ、殺すのが怖くないのかよッ! なんで殺し合えるんだよ、なんで……ッ)」


 足が竦んで動けない。

 少しでも動けば、途端に2人のうちのどちらかがこちらを向いて襲い掛かってくるのではないか。一言でも声を掛ければ、それによって何かが起こり勝負の行方が決まってしまうのでは。そんな強迫観念じみた思い込みに頭を支配され、俺は息を吸うことすら忘れていた。

 だがそれは、恐れた通りの結果を呼び寄せる原因になってしまった。


 俺の喉から何かが込み上げ、俺はそれを止めることが出来ず咳き込む。


「が、ゴホッ、ゲホガハっ……!」


 呼吸を忘れた結果、むせてしまったのだ。

 口を押えて止めようとするが、一度むせると収まるまでは己の意思では止められない。そして俺の異常は秋月にすぐさま伝わってしまった。


「巡先輩ッ!?」


 秋月の焦ったような声。なんとか手の平を向けて大丈夫だと訴える。


「あら、ウチじゃないよ~。てかそっち見ててイイのか、にゃッ」


 対称的な軽い声音と共に振り下ろされる刃。絶死の一撃を髪の毛先が巻き込まれるほどの紙一重で躱し、秋月はナイフ片手に敵に向き直る。


「もうおまえの動きはッ」


 そのまま秋月は一歩前へ。魔剣は振り切っている。カウンターの要領で、自分のナイフが突き刺さる方が早いと判断して、


「(だ、駄目だ!)」


 俺の思いなど届くハズも無く。

 秋月の鳩尾みぞおちに、アイカの蹴りが突き刺さった。


「かはっ――」

「ゲホっ……あ、秋月ッ!!」


 まるでサッカーボールみたいに、バウンドしながら道路を3メートルは吹き飛ぶ秋月の体。俺の脳裏にアイカがアスファルトを蹴り砕いた場面が浮かび、背筋が凍った。あんなの、まともに喰らえば即死だ。

 顔を青くする俺、倒れた秋月に対し、アイカは蹴りの為に脚を上げた姿勢のまま猫のように笑う。


「『見切った』ってぇ? 残念ざんねぇん、蹴りでだって人くらいまっぷたつにできる――」


 ぽたり、と血が道路に落ちた。その出所は秋月では無く、アイカ。彼女の蹴りぬいた姿勢のままの長い脚、その太ももの辺りに浅い切り傷が刻まれている。

 アイカは血が滴る己の傷を見て、余裕こそ崩さないもののその笑みを消した。


「ありゃ、やるね」


 数秒前。蹴りを入れられた一瞬の間に、秋月は狙いを急所から足に変更。浅い傷ではあるものの、なんとか痛み分けに持って行ったのだ。

 アイカはそれに、と続ける。


「蹴った感触。腹に鉄板かなんか入れてるっしょ? ボディーガードちゃん」


 その言葉を証明するように、倒れていた秋月が震えながらも立ち上がる。


「……っ。ふぅ、ふぅ」


 ごとり。秋月の足元に何かが落ちた。

 それは「拳銃」。正真正銘、普通の人間が生み出した普通の武器である。

 だがよく見ると、その拳銃は大きく歪み破損している。つまり、懐の銃が偶然アイカの蹴りを受け止め衝撃をある程度殺したのだ。

 それを見て、分かりやすく腑に落ちた様子のアイカ。


「にゃるほど。ま、異能者に挑むんならフツーに持ってるよね、現代武器そういうの。う~ん、やっぱキミ危ないかもねぇ、さっきの3人組よりずっと。キミの血も見てみたいケド窮鼠なんたらっていうし、。今日無理する必要はないかな?」


 そう言うと、アイカは獣のような俊敏な動きで再び電柱の上に登った。

 登場時と違い細い足場の上で直立しながら、彼女はこちらを見下ろして口を開く。


「15日にまた来るよ、メグルっち。今度は『お土産』を持って」

「お、お土産……?」


 思わず俺が訊き返すと……月を背景に、その顔が狂気の色に染まった。藍色の髪を夜風に揺らし、彼女は牙を見せて嗤う。


「うん。赤毛に金髪に黒髪に……ガールフレンドをの。目の前であのコたちの腕とか足とか斬っていけばさァ、優しいメグルっちは情報吐いてくれるっしょ?」


 それが、春咲、理沙ちゃん、夏目先輩……彼女らの事を言っているのだと分かった瞬間、ぞっと全身が総毛立つ。言っていることもその表情も怖い。だが何より怖いのは、彼女の発言は「本気」であると、はっきり分かってしまうことだった。


「じゃあね~、また満月の日に☆」


 軽い挨拶を最後に、どこかに「飛び去った」魔剣士の姿を、俺は身動き一つできずに見送っていた。

 全身を包むのはやはり恐怖、そして少しの困惑。足が地面に縫い付けられたかのように動かず、俺は暫く立ち尽くしていた。


「めぐる、先輩……」


 弱弱しい声。

 その声を聴いた瞬間正気に戻る。


「あ、秋月っ! 大丈夫か、ケガは!?」


 俺は秋月の元に駆け寄って様子を見る。彼女は膝を付きへたり込んだような状態のまま、なんとか立ち上がろうと地面に手を当て藻掻いていた。実際どの程度の怪我かは分からない。喋れる程度の元気はあるみたいだが。

 彼女は途切れ途切れの声で答える。


「はい。ダメージは少しっ、ありますが、致命傷ではありません。ラッキー、でした。首か胸を蹴られたら、多分一撃で……いえ、何でもありません」

「そ、そっか……」


 発言内容に、銃を持っていた「審問官」という職業。

 流石に何を言っていいか分からず、俺はもう誰も居ない電柱の上を見ながら話題を変える。


「てかなんでアイツは逃げたんだろうな? 満月がどうのとか言ってたけど……」


 すると、秋月は大真面目にその話題に乗って来た。


「おそらく、奴の魔剣の特性です。『魔剣ダーンスレイヴ』……それは持ち主に『人狼』の力を与えると言われています。そして人狼、狼男といえば満月。きっと満月に近い夜であるほど奴は力を増すのでしょう」

「な、なるほど。秋月が思ったより強かったから、自分が有利な満月まで待つつもりか……あんなバケモノが今より強くなるなんて、正直想像したくないな」


 にしたって、まるでゲームかアニメの設定だな。剣が力を与えるとか、満月のとき強くなるとか……。

 俺がそんなことを考えていると、秋月の表情が少しだけ和らいだ気がした。


「異能の事、信じていただけたようですね」


 ……言われてみれば、俺はもう「異能」の存在を疑ってはいなかった。


「……まぁ、目の前で見ちゃったからな。てか春咲たちもなのか……。そう思うとなんていうか――」


 言いながら。

 俺の脳裏に電流が走った。


「ちょっと待て」


 頭の中で、バラバラの情報が点滅する。

 「血、恐らく返り血の付いた手足」「『さっきの3人組より』」「春咲、理沙ちゃん、夏目先輩の髪色を知っている」「学校で起こった爆発音」「秋月から教わった、異能者同士の抗争」……。

 あらゆる情報が繋がっていく。


「アイツ、もしかして……ッ」


 ――俺たちと出会う前、あの魔剣で春咲たちを斬ったのではないか。

 流石に声には出来なかった。

 だが、その妄想でしかないはずの仮説が、俺の中でどんどんと信憑性を増していく。

 ずきり、痛むのは心。俺の心に食い込んだ関係という名の糸が、俺に「速く動け」と囃し立てる。


 もう居てもたっても居られなかった。


「……クッソ、頼むから勘違いであってくれよ!!」

「!! 先輩、どこへ!?」

「ごめん秋月、ちょっと待っててくれ!」


 俺は立ち上がり、走り出す。怪我人の秋月を1人置いていくのは少し気がかりだが、それでも止まることは出来なかった。


「学校だ! 多分春咲たちはそこに居る!!」


 日が暮れ闇に染まる世界の中、俺は慣れ親しんだ通学路を必死に走った。


 ◆


 木世津高校西棟の屋上で、「魔剣士」藍華・ヴァレンタインは頭を掻いた。


「あっれぇ、3人ともどこ行った~?」


 屋上には夥しい量の血痕が残されていた。インク缶をぶちまけたような屋上の床にはしかし、それを流した3人の少女の姿が無い。

 藍華は頭を掻きながらぼやく。


「交渉材料にする予定とはいえ、半分くらい殺すつもりで斬ったんだけどにゃ~。ちょい萎えだぁ」


 だが、追跡もまた容易。彼女の持つ魔剣ダーンスレイヴは、所有者に「人狼」の力――人の持ち得ない獣の力を与える。それは魔剣を片手で振り回す膂力だけではない。狼の鋭い五感――特に強力な嗅覚の再現も可能なのだ。

 藍華は鼻を動かし、獲物の匂いを追跡しようとして……。


 ヴ、と彼女のポケットの中のスマホが振動した。

 藍華は何事かとスマホを取り出し……そして目を見開く。


「え、ヤバ! EMOがミンスタライブやってるじゃん! すぐ帰って見ないと――」


 喜色のこもった言葉が不自然に切れる。

 彼女は視線をスマホから血みどろの屋上へと戻し、やっぱりスマホに戻し。


「ま、いっか☆ かくれんぼとかメンドいし! 満月じゃなくてもボコれたしぃ、また今度満月になったら捕まえに来よっと!」


 あっけらかんと言い放って、彼女は追跡を諦めた。魔剣を持ったまま軽やかに跳躍し、その姿は夜の闇の中に消えていく、

 脅威は去り、屋上には静寂が戻った。



 その場所から扉1枚隔てた、屋上への階段にて。


「……」


 そこには満身創痍の春咲はるさく朱里あかり冬野ふゆの理沙りさ夏目なつめ優乃ゆうのが階段や踊り場にて身を投げ出していた。全員深い刀傷を負い、息も絶え絶えに倒れている。


 特にひどいのは朱里だった。


「(土壇場の蜃気楼で間合いを数センチ見誤らせたのはいいけど、それでも傷が深すぎた……クソ、けどこの痛み、死ぬよりよっぽどキツイわね)」


 数分前。袈裟切りにされ、手も足も動かせないまま失血死を待つだけだった朱里は、どうせ死ぬのならと賭けに出た。胸から腹にかけた巨大な傷口を超能力で"焼く"ことで強引に止血し、一命をとりとめたのだ。だがその代償として、彼女の体は大きな火傷で酷く爛れていた。


 もはや火を出すことも出来ず、痛みによる気絶と覚醒を繰り返す彼女に比べれば、他の2人はまだマシといえた。


「(日本刀も防ぐ強化防刃繊維の制服そうびと、アームによる縫合手術……完治はしたけど失血量が危険域。応援が来るまでは下手に動けない)」

「(念のため仕込んでおいた、藁人形にダメージを移す身代わり魔術がなければ死んでいましたね……魔力が足りず半分くらいはまともに受けてしまいましたが)」


 それでも例にもれず燦燦たる有様で、無防備な敵に攻撃はおろか自力で動くこともできない。夜明けで命が持つかさえ怪しいと言えた。

 満身創痍で荒く浅い息を吐き、敵も味方も無くただ同じ場所で倒れる三者の間を奇妙な沈黙が支配する。


 と、そんな場に沈黙を破る者が居た。こちらに向かって、誰かが慌ただしく階段を駆け上がってくる音がする。それと共に、徐々に鮮明になる声。


「――るさく、春咲! 理沙ちゃん! 夏目先輩! 誰でもいい、居たら返事してくれ!」

「(四季、巡……? なんで、ここに)」


 声は下から上に近づいて来る。


 やがて声の主――四季巡は、屋上に繋がる階段に辿り着いた。

 その目が遂に3人の姿を見つける。


「あ、居た! よかった、無事か――」


 安心した巡の表情はしかし、一瞬のうちに塗り替わった。


「血、血が……は、春咲ッ、その傷は……」


 3人が倒れこむ床に血だまりができていることに、春咲の焼き切れた制服の隙間から覗く痛々しい火傷に、巡の表情は嫌な汗と共にみるみるうちに歪んでいく。


「だ、大丈夫か!?」


 足を縺れさせながらも階段を駆け登った彼は、最も近くに居て最も重症に見えた朱里に駆け寄った。

 その瞬間鼻腔に飛び込んでくる血の匂い。さらに目の前、朱里の火傷傷の細部が見えてしまう。黒と赤に焦げた肉。傷口から覗くてらてらしたピンクと白色。それは巡にとって、とてもショッキングな光景だった。


「う……っ」


 反射的に巡の口から何かが込み上げる。暗い夜の学校の踊り場、視界の悪さで傷がよく見えないのは幸運だった。もしも周囲が明るければ、巡はその場で吐いていたかもしれない。


「――、とにかく救急車を」


 一瞬である程度の冷静さを取り戻し、ポケットからスマホを取り出した巡。

 その震える手を、朱里が掴んだ。予想外の力に通報を止められ、巡は倒れる彼女へと視線を向ける。やはりその様は見るも無残な重傷体。


「春咲! ちょっと待ってろ――」

「……あ、ぐっ」


 息も絶え絶えの彼女は何かを喋ろうと口を開き、しかし痛みに顔を歪める。


「春咲っ」


 痛々しい声に思わず通報すら忘れ顔を覗き込む巡、彼と朱里の目が合う。

 そして朱里は……場にそぐわない、無理矢理な作り笑いで言葉を紡いだ。


「……あー、めぐる、くん。だいじょうぶ、だから」

「な、大丈夫な訳ないだろっ」

「ぜんぜん、へいき。だから、帰って。ね?」


 掴んでいた巡の手を放し、にこり、と朱里は笑う。その笑みが拒絶の笑みであることは、流石に巡にも察せられた。彼女は優しい言葉で、無理矢理の笑顔で、「これ以上踏み込むな」と言っているのだ。


「……っ」


 だが、巡はその言葉に従えなかった。

 糸が。春咲との関係いと、理沙ちゃんとの関係いと、夏目先輩との関係いと。それが、己をこの場を縛り付けている。離れられなくしている。

 踏み込むな。帰れ?


「……いや、でも。ダメだろ、それは」


 ああ、あるいは彼女たちと初対面だったのならそうしたのだろう。だが現実はそうでは無く、四季巡はこの場で死にかけた三人のことをどうしようもなく知っていて。

 その事実が、情が――即ち関係という名の糸が、その選択を許さない。


「見捨てて行くのなんて、俺には、出来ない」


 結果、彼は朱里の言葉を無視する形で残ることを選んだ。選んで、しまった。

 朱里の表情を確認しないまま、巡は半ば正気を失したようにぶつぶつと思案を巡らす。


「なにか、出来ないか。救急車がダメなら……あ」


 そのとき、脳裏に閃くものがあった。口からするりとキーワードが抜け出る。


「『異能』!」


 それは秋月から知らされた真実、魔剣士に見た超常の力。それさえあれば、と俺の思考は熱に浮かされたように踊る。


「よく分からないけど、3人とも『異能者』ってヤツなんだろ!? なら無いのか、怪我を治す魔法とか、そういう、の……」


 だが、ここで巡は気付いたのだ。

 その舌を思考を回させていた熱を鎮火させる、春咲朱里の表情に。

 それは諦めたような、憤るような、そんな喜色とはかけ離れた冷笑だった。


「そっか。バレた、のね」


 軽い口調の筈なのに、何よりも重く腹に響く声だった。

 がつんと頭を殴られたように何も言えなくなる巡の前で、朱里はなんと階段の手すりに手をかけ、立ち上がろうと力を入れた。


「ぐ……」

「ちょ、春咲……っ」


 脚を震わせ、脂汗を流しながら苦悶の声を漏らす朱里に、巡は咄嗟にその体を支えようとして。

 朱里がキッと彼を睨む。巡の視線に、紅蓮の怒りを湛えた視線がぶつかって。

 ――炎が。

 種火も無く薪も無く、突如として虚空を炎が焼いた。その虚空とは巡の眼前、睫毛を焦がすほどの至近距離で。


「うわっ!」


 反射的に巡はのけぞり、そのまま踊り場に尻もちを付く。突如現れた炎に恐慌する彼に対し、朱里は苦痛の残る怒りの表情で吐き捨てる。


「『コレ』で、傷が、治るって?」

「え、あ……」


 怒りの声。聴き慣れないそれがざくりと鋭く胸を刺す。

 そして巡は、今更に気付いた。


 『見捨てて行くのなんて、俺には、出来ない』。そう言って、それを選んだはずだった。だがそれは覚悟を持って決断した答えでは無く、己の胸を裂くだろう痛みから逃げる為だけの消極的な選択。それでは何も為せないのだと――情に縋った安い正義感とペラペラの意志では、残った所で出来ることなど無いのだと気付く。

 ――踏み込むな。帰れ。ああ、それこそ唯一の正解だったのだ。自分が選んだ選択肢は、一から十までどうしようもなく間違いだった。四季巡が選んだのは、己が傷つきたくないがために相手を巻き込む最悪の選択で。


 朱里が遂に立ち上がり、階段の手すりに体重を預けながら、否、壁に肩を押し付けるようにしながら階段を下りだす。苦悶の息を漏らしながら、それでも巡に背を向けて、一歩、また一歩と。


「その、」

「ついて来るなッ」


 往生際悪く伸ばした手も、鋭い声に咎められてぴたりと止まった。

 もはや巡に出来ることなど――朱里にしてやれることなど何もなかった。


 四季巡は気付く。糸、関係という名のそれが視界の端に舞っている。春咲と繋がっているそれはぶちぶちと音を立てて剥がれた。剥がれたのは外装、「幼馴染」という毛糸のように柔らかかった嘘。その中から剥き出しになったのは、鋼線のような冷たく鋭利な真実の関係であった。か細いそれは、手繰ろうと掴むのなら簡単に千切れてしまうだろう……もしくは痛みと共に手を切り裂くだろう。そんな糸に手を伸ばす勇気など、巡には無く。


「は、るさく……」


 血の付いた手のひらは、空を切る。

 巡は視界から消えていく春咲を、ついぞ追うことができなかった。

 項垂れかけた巡の体を、視界の端のふたつの人影がなんとか支える。


「あ、そ、そうだ。2人は――」


 振り返ると、理沙が立ち上がるところだった。その背中、いや鞄からは機械の脚が伸びている。蜘蛛のものに似たその脚は、床を踏むことで理沙の重心を支えているようだ。そんなアームに支えられるのは、血みどろの小さな少女。切れた服の隙間から生々しい縫合痕が覗くその様は、妖精のようだった可憐さの面影も無い。

 そんな理沙の表情、血が足りないのか蒼白なその顔にはやはり、巡を頼ろうとする気配など微塵も無くて。


「理沙、ちゃん……」

「……ご、めんね、お兄ちゃん」


 つい、と目を逸らしながら放たれた言葉は、やはり拒絶で。


「状況コードF-080……規定により本座標より離脱を開始」

「そ、そんな機械みたいなっ」

「……機械と、かわらないよ。私は『3番』。製造番号はBB-03、識別コードはS-096-461-03……兵器用強化人間の『3番』だから」


 絶句する巡の前を彼女は通り抜ける。

 息も絶え絶えの彼女もやはり、巡の助けを望まなかった。アームを使い、自力で階段を下りていく。


 ——理沙ちゃんとの糸も、兄貴分と妹分の関係もまた、偽物。


 そして最後に残ったのは優乃。

 斬られて穴の開いた服を、そして血を流す傷口を抑えながら、彼女もゆっくりと立ち上がる。彼女は巡の近くに歩いてきたものの、それは助けを求めるためでは無く。


「四季君」

「夏目、先輩……」


 巡の縋るような目線から逃げるように、彼女は懐からひとつの小瓶を取り出した。小瓶の中は白く濁った液体が揺れている。


「お願いがあります。今日のことは忘れて下さい。これは『忘却薬』、寝る前に呑むとこの瓶ひとつで1日分の記憶を失います。虫のいいお願いだとは百も承知ですが、本当に私たちのことを思うなら……これをどうか、今夜使ってください」


 言いながら、小瓶を巡の手に握らせる優乃。

 その普段とはかけ離れた口調に、言動に、巡の口から遂に制御できない感情が溢れた。


「なんで、どうして……ッ」


 彼は薬瓶を握りしめ、己に宿った衝動を必死で抑える。筋違いとは薄々気付きつつも、己が間違えたことを自覚しつつも、けれどついに不満の言葉は決壊する。


「心配することすら、許してくれないのかよッ」


 酷い言葉だと、吐いた己で唇を噛んだ。遠ざけようとしていた癖に、繋がりたくないと嘯いたくせに、今更関われないことに絶望する。

 体の奥、心を軋ませる痛みが憎い。己の弱さがただ苦しかった。

 その言葉に、優乃は俯く。


「すみません。でも……」


 そして彼女も、巡に背を向け歩き出した。最後に小さく言葉を残して。


「……私たちの肩書も、関係も……所詮は『偽物』、ですから」


 ——夏目先輩との、先輩と後輩の関係も……ッ。


 そうしてその場に残されたのは、途方に暮れる四季巡だけ。

 血の匂いが残る空間で、新たに透明な血が流れる。体に出来た傷口からではなく、心の痛みを叫ぶなみだが頬を伝って床で弾けた。


「……っ、そぉ……っ」


 どうしようも出来ずすすり泣く彼の声が、夜の教室にむなしく響いた。

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