② 4月6日(月)・放課後

 さっきまで舞っていた桜吹雪は嘘のように消え、空は曇りとも晴れとも言えない微妙な天気を保っている。


 春咲はるさく朱里あかりが去ってから体感10秒のこと。即ち始業日の放課後。

 俺、四季しきめぐるは未だ寮の前で呆然と突っ立っていた。彼女の言葉が、表情が、未だ俺の手のひらに消えない熱として燻っている。


「幼馴染、かぁ……」


 俺の脳内に流れ続ける存在しない記憶。朝起こしに来てくれる春咲、そのまま一緒に学校に行って、お互いの部活の応援に行ったり来たり、親が居ない日はどちらかの家で一緒にご飯……そんな春咲とのめくるめく幼馴染ストーリーを捏造していた俺の頬を、不意に冷たい風が撫ぜた。陽が陰っていたからだろうか、冬の名残を感じさせる冷風が、俺の手に残った熱を攫っていく。


「寒ぅ……はッ!? 俺はいったい何を!?」


 おれ は しょうきに もどった! ここはどこ俺は誰……ここは俺が住んでる学生寮の目の前、俺の名は四季巡。プロひとりぼっち、孤高のソルジャー・スチューデント、ヒロイン候補者ゼロの人生を爆走中の高校生。よし大丈夫思い出した……いや、やっぱ大丈夫じゃないかも……主に心が……。

 なんだか少し悲しくなりながらも、呟く。


「そうだよ、俺に幼馴染なんて居ない、ハズだ。多分」


 冷静になって記憶を思い返しても、やはりそこに春咲らしき影はない。赤毛の子供と遊んだ憶えも、いじめられっ子を助けて懐かれたみたいな記憶も一切無いのだ。故に彼女の宣言は――「俺が春咲の幼馴染」というのはきっと誤解なのだろう。雰囲気か名前が似ている誰かと俺を間違えたとか、そんな感じのヤツだ多分。


「……明日、誤解を解かないとなぁ」


 明日の学校で、絶賛クラスの注目の的である春咲に話しかける自分を想像して、俺の気分は重くなる。間違いと行き違いで絡まった関係の糸が、きりきりと俺の心を締めている気がした。なんだか嫌な予感だ。糸に束縛されまいと動き回ればより一層がんじがらめになるような……そんな根拠のない不安が胸を支配する。

 それを吐き出すように溜息ひとつ。


「ハァ……ま、ゲームでもして忘れるかぁ」


 気を紛らわすように言って、俺はようやく足を動かすことを再開した。向かう先は当然、学生寮二階の202号室――俺の自室だ。ゲームと本で俺の孤独を肯定してくれる、地上最後の我が楽園である。

 そうだ、楽しくないことは忘れてしまえ。明日のことは明日の俺が上手くやるだろう。今日の俺には今日の俺の使命が――魔王の城を攻略する勇者になるという大切な使命があるのだから……!

 我ながら単純というべきか。気付けば先ほどまでの憂鬱は消え、俺は鼻歌なんか歌いながら寮二階廊下への階段を上がる。


「フンフフフ~ン♪」


 錆びかけの階段を踏むカンカンという音でリズムを取り、それに合わせてプレイ予定のRPGのテーマソングを鼻で歌えば、すっかり気分は伝説の勇者。


「タンタララァ~♪ シャラ、ラ、チャララ~」


 そのまま俺は気分よく自室に帰宅する――はずだった。


「――ァんぐェへッ」


 ばちん、と。

 目が合った。そして無理やり鼻歌を止めたから、喉から変な音が出た。

 寮二階、階段を上りきった俺の視線の先——角部屋である201号室の前に、ひとりの少女が立っていた。その子がこっちを向いていたので、必然的に目が合っていた。


 中学生、だろうか。俺よりも二回りほど小さな背丈の女の子。ただその容姿には目を引くものがある。髪の色は金、色素の薄い綺麗な金髪がその華奢な腰辺りまで伸びていて、それが光を反射をしてキラキラと輝く。こちらを見つめる髪と同色の睫毛に飾られた大きな瞳は透き通るような蒼。幼さが可愛らしく残る整った容姿に、それを彩る新雪の如き肌は現代日本で出会うには実に場違いで、まるで現代に舞い降りたファンタジーの妖精さんか何かみたいだった。


 そして俺は思った。


「(き、聴かれたァ~!? 恥っずぅ……!)」


 可愛いとか誰とかよりもまず最初にそれが来た。余りにも羞恥、そして余りにも遅い後悔。


「(あ”~、『滅茶苦茶上機嫌で鼻歌ってんなコイツ』って思われてそ~! ぐああ顔が燃える、新手の背後霊系能力の攻撃を受けてるレベルで熱いんだが!?)」


 そんなこんなで灼熱羞恥地獄にのまれ脳内で独り悶える羽目に。せめてもの意地で外面だけは素知らぬ表情を貫き通して突っ立っていた俺に、ふと歩み寄る者が居た。


「……」


 とてて、と近付き俺の顔を見上げる妖精さん……否、それは件の女の子。その人形のような可愛らしい顔が、何用かと身構えた俺を見上げていた。彼女の背筋が伸び、小さな口が動いて言葉を放つ。


 それは、新雪がしんしんと降り積もるような、真っ白で儚く透き通った声で。


「はじめまして、


 ぺこり、と金の髪を揺らしながら綺麗なお辞儀。

 とんでもなく礼儀が成っていた。そんな子の前で醜態をさらしたのが、なんだか恥ずかしいってよりも惨めになった……自分より出来た年下を見たら「俺ってなんなんだ」ってなる感じのやつ、あれをモロに喰らったのだ。

 余りの抉られっぷりに心の中で警報が鳴り響く。エマージェンシーエマージェンシー、ダメージ甚大! プライド機能に重大な損傷、KOKOROユニットが傷つきました! これ以上の戦闘かいわ継続は困難と見做し自宅へ撤退します!

 というわけで、


「あ、うん。初めましてコンニチワ。なんかゴメンね、ホント。じゃあね……」


 と最低限の言葉と礼儀で会話を切り上げた俺は少女の横をすり抜ける。

 そのまま出来るだけ早く、しかし走りに見えない洗練された足捌きと歩法はやあるきで自室202号室のドアまで辿り着き、熟練の手つきで鍵をポケットから取り出し解錠、扉を半分だけ開け滑り込むように体を中にねじ込む。おいそこ、高校生の身で見知らぬ中学生女子から尻尾巻いて逃げたとか言うな。フツーに泣くぞいいのか。

 それに偉い人は言いました、三十六計逃げるに如かずと。だからこれは勝利を視野に入れた戦略的撤退なのである。ホラあれ、競馬とかで「一着の馬が後続の馬から逃げる」とかいうじゃん、それと同じなのだ俺の「逃げ」は。異論は認めない。


「(ま、今日も逃げ切り勝ちと……)」


 そうして勝利宣言しながら鍵を閉め、一息つこうとしたところで……ガッ、と扉を閉める手が止まった。


「へ?」


 否、何者かに扉を掴まれ止められたのだ。いくら腕に力を入れても半開きの扉はびくともしない。慌てて振り向くと、そこには金糸の光。

 青い眼が、こちらを見ていた。


「……まって、『お兄ちゃん』」


 きゃあああああああああああああ!!

 声にならない悲鳴と共に玄関先で尻もちをついた、中学生女子に本気でビビる高校生男子が俺の部屋に居た。ていうか俺だった。中学生から逃げたさっき俺のの軽く5倍は情けないのだった、人生俺のカッコ悪かった瞬間ワースト一位をあわや更新する所だった……ただこれだけは言わせてほしい。知らない人に家の扉開けられるの、マジで怖い。


 俺は後ずさりながら、扉を閉じないように片手で抑えている女の子に、


「ひぇ、ええっと、何用でしょうか……?」


 と情けない声で問う。

 すると彼女は此方を見ながら、敵意も友好さもイマイチ読み取れない薄い表情と声音で言う。


「予定外の行動、こまる」

「よて……何?」

「なんでもない。あなたに話が、ある」


 年相応なのか、言葉数少なくどこか不慣れなそうな喋り方をする金髪の少女。

 そんな彼女は遂に扉を完全に開け放つと、玄関で尻もちをついたままの俺に言う。


「私は冬野ふゆの理沙りさ。『お兄ちゃん』って、よんでいい?」


 コテン、と可愛らしく傾けられる首。長い金の髪が、天使の羽根のように揺れる。

 俺は思った。


「えーっと……どゆこと???」


 俺の名は四季巡、16歳。

 出典不明の幼馴染の次は、なぜか出会って5秒の妹が生えてきた。


 ◆


「つまり、理沙ちゃんは木世津中学キセチューの3年生。来年から高校生だから、家庭の事情で今年から寮に入ることになって……初めての一人暮らしで心細かったから隣の部屋の俺を頼りたい、ってことでいいの?」

「うん。概要は一致している」

「が、がい……? 難しい言葉知ってるね」

「あ。いいえ、しらない。ふつうの中学生だから、しらない」

「?? あー、照れてるって解釈で、いいのかな……?」


 あの謎だらけの自己紹介から10分後。

 俺はなぜか暫定妹(?)の冬野理沙ちゃんを自室に入れ、彼女と会話をして情報を聞き出していた。いや、正直なんでこうなったのかは俺にも分からんです。驚愕と疑問に呑まれて場の流れに抗えなかった、が正しいのだろうか。


「(てかなんで部屋に入れちまったんだ俺……)」


 俺は、床にちょこんと行儀よく座る少女――理沙ちゃんのことを改めて見つめた。自分の部屋に自分以外が居るというのは、それもさっき会ったばかりの少女を招くというのはなんだか非日常感が凄まじい。てか俺の部屋(家)に家族以外の誰かが来るのって、もしかしなくてもコレが初なのでは……うっわー、なんかスッゲー緊張して来たんですケド。

 そんな俺を見つめる金髪少女冬野理沙、お人形さんのような端正な容姿の彼女は、中3にしては少し背丈が小さい気もするが……確かに見覚えのある木世津中学校の女子制服を着ている。なにせ俺も2年前はキセチューに通ってたから、見間違えるはずはない。背中に背負っている四角い革鞄も、多分中学校で使ってるスクールバッグなのだろう。キセチューは鞄自由だったし。やはり彼女の発言は信憑性があり、俺が初見で立てた中学生予想も間違ってなさそうである。

 ただ気になる事はあった。


「えっと理沙ちゃん。親御さんは今どこに?」


 問うと、彼女は首を横に振る。


「しらない」

「そ、そっか。あー……ここ来たのは今日だったよね? 1人で来たの?」

「うん。タクシーできた」


 おおう、これはまさか。

 彼女の淀みない言葉に、俺の内心で膨れ上がった疑念が口から洩れる。


「……俺もあんま人のこと言えないけど……中学生を放任で一人暮らしさせるって、これワンチャン児相案件では……?」


 声量を抑えた独り言に、しかし理沙ちゃんは敏感に反応。先程までの簡潔で年相応の口調からがらりと変わり、子供らしさとはかけ離れた流暢さで言葉を羅列する。


「! 懸念を否定。これは双方合意の上での計画であり、危険性・犯罪性の有無には十分配慮が為されていることを開示する。よって当計画上に児童相談所等の公共施設が介入する余地は無い」

「急にめっちゃ喋るね!? てかびっくりしてあんま聞いてなかったけど、なんかスッゲー難しいこと言ってね……?」


 指摘すれば、理沙ちゃんは少しだけその青い目を見開き、再びたどたどしい口調に戻って、


「あ。そ、それは気のせい。だって私、『ふつうの中学生』だから」


 とだけ言った。その年相応の様子からは、先ほどまでの説明書みたいな口調は欠片も見受けられない。


「……うーん。まぁ俺の気のせい、か?」

「きっとそうだよ『お兄ちゃん』」


 俺はそんな風に理沙ちゃんと会話しながら、どこかデジャブのようなものを感じていた。


 彼女は「木世津」の生徒であると名乗った。それは恐らく間違いない。だが彼女はこの「木世津高校》」の寮へと引っ越して来た。そこが謎というか、どう考えても理屈が通らない部分なのである。

 詳しく説明しよう。キセチューとキセコーは分かりにくいがそれぞれ『県立』木世津中学と『市立』木世津高校で、別に同系の学校ではない。近くに建ってるだけの別の学校だ。当然、学生寮にも互換性はない。つまりキセチュー生がキセコーの寮を使うというのは普通に考えるとおかしい訳だ。

 また理沙ちゃんは身綺麗で、着ているものも質が悪いとは思えない、むしろどこかのお嬢様だと言われたほうが納得できる上品さを感じる。そんな子の親が、中学生3年生という中途半端なタイミングで、こんなしょぼい寮に娘を送り込み一人暮らしなどさせるだろうか。


 この既視感——飲み下せないが背後に見え隠れする感じは、春咲のときと似ている気がした。それに何よりも……。

 俺は頭を掻きながら、ずっと気になっていたことを指摘する。


「ていうか理沙ちゃん、その『お兄ちゃん』って呼び方はいったい……? 俺は四季巡、メグルだよ」

「それは……」


 言い淀む理沙ちゃんに、俺は再度警戒を高める。

 俺は最初、理沙ちゃんは名前の知らない年上の青年にその呼称を使う子なのだなと思っていた。だが俺が自分の名前を教えても「お兄ちゃん」呼びが変わることは無く。考えすぎかもしれないが、俺はそれにも違和感を覚えたのだ。まるで初対面の相手である俺のことを最初から「どう呼ぶか決まっていた」ような、そんな違和感を。

 そんな俺の問いと疑いの視線に、少し俯いた理沙ちゃんは……小さく、口を開く。


「――私。むかしからずっと、お兄ちゃんがほしかったの」


 それは小さな、寂しそうに震えた声だった。

 今にも消えてしまいそうな粉雪のような、そんな弱さと儚さを感じさせる声が室内にしんと響く。

 チクリ。年下の少女にそんな弱弱しい声を上げさせてしまった罪悪感から、俺の胸の奥が小さく傷んだ。

 そんな俺に追撃するように言葉は続く。

 今度は雪解けを思わせる嬉しそうな声で。


「でも今日、めぐるさんと話してて、お兄ちゃんができたみたいでうれしかった」


 ばっ、と理沙ちゃんは顔を上げた。

 宝石みたいにうるんだ瞳と、淡く赤らんだ頬をこちらに向けながら、小動物を思わせる上目遣いと仕草で彼女は言う。


「だから……これからも『お兄ちゃん』って呼んじゃ、だめかな……?」


 その余りにも弱弱しい口調が、守りたくなる愛らしさが、俺の頭を強烈に殴打した。まるで顎にアッパーカットを喰らったかのような前後不覚の状態の中、俺は何とか生き残った僅かな理性を搔き集める。


「(落ち着け四季巡、これは罠だ! たとえどれだけ可愛かろうが、守ってやりたくなっちまおうが、人間関係にはリスクと痛みと面倒事が付き物! 故にこの場において、平和主義者事なかれ主義ロンリーイコールラブアンドピースの俺が言うべき答えはただひとつ――)」


 窮地を脱するため高速回転する思考。先の先を読み編み出される起死回生の一手。

 そして俺は、強靭なる固い意志で理沙ちゃんに返答した。


「――ぜ、んぜん駄目じゃない、好きなだけ呼んでくれ……ッ」

「ありがとう、『めぐるお兄ちゃん』っ」


 ダメなのは俺だった。

 嬉しそうに笑うその顔がもう天使に見える。「お兄ちゃん」という響きが福音のように心を揺らし、俺の頬を自然と弛ませた。分かりやすく言えば、俺の矜持が完全敗北だった。

 俺は己を暴走させた「庇護欲」という怪物を恨みながら、心の中で涙を流す。


「(ちくしょう、また流された! でもしょうがないじゃん、俺だって兄弟欲しかったんだよ! 一人っ子だから兄姉にも弟妹にも憧れてたんだよ! それをここに来て、こんなカワイイ子に『お兄ちゃん』とか呼ばれちゃったらさあ!! )」


 全力で耐えようとした分、決壊した時の勢いは凄まじいというか。

 気付いたときにはなんかもう吹っ切れていた。


「えーと、理沙ちゃん。お菓子食べる? 甘いヤツ」

「……(こくり)」

「りんごのジュースもあるよ。流石に炭酸よりそっちのがいいよね?」

「……(こくり)」

「ゲームもする? 友達が出来たらやろうと思って買ったパーティーゲームがあるんだけど」

「……する」


 俺は決めた。固く決意した。この小さくて可愛い動きをする生き物を、全身全霊を持って丁重におもてなし、甘やかすことをッ!

 女児ウケの良さそうな甘いお菓子を座卓のテーブルに備蓄ありったけ並べ、普段使わないコップになみなみとジュースを注ぎ、CPU相手だと空しすぎて断念していたパーティーゲーム――すごろくとミニゲーム複合式のソレをテレビに映してコントローラー理沙ちゃんに渡す。

 正直、色々と思うところはあった。違和感の正体。関係という名の糸が繋がる感覚。でも、今だけは全部忘れた。なぜなら――



「お、妨害できるミニゲームだ。それそれっ」

「んっ、むぅっこの操作用端末の形状は人間工学的観点から見て非効率的、ありえなっ」

「ぬははもう負け惜しみか理沙ちゃん? お兄ちゃん先行っちゃうぞ~?」


 ゲスく笑う俺、体を傾けながら必死にコントローラーを操作する理沙ちゃん。


「……えーと、確かこっちだったよな……うわ、違ったかぁ」

「データ収集完了。確率演算、全カード取得可能率90%以上」

「な、はっや!? まさか理沙ちゃん今までめくったカード全部覚えてんの!?」


 驚愕に目を見開く俺、神経衰弱ミニゲームで無双しドヤ顔になる理沙ちゃん。


「……ふっ、やるな理沙ちゃん。まさかここまで接戦になるとは」

「もう点差はないにひとしい。おとなしく私にそのせきをゆずって」

「いくら理沙ちゃんの頼みでもだが断る。たとえCPU(よわい)にいくらボコされようとも、最下位にだけはなりたくない俺なのであった……!」

「いざ。お兄ちゃん、かくごーっ!」


 最弱の座をかけて、CPUに高みの見物されながら、死闘という名の泥仕合を展開する俺と理沙ちゃん。

 ソロゲーしかしてこなかった俺のプレイお世辞にも人を楽しませるものでは無かったし、初心者の理沙ちゃんは慣れるまで随分大変そうだった。けれど、勝とうと必死にコントローラーを叩くうち、不思議と自然な笑顔が溢れる。

 いつもは静かな部屋に、2人分の声が響く。

 笑い声も叫び声も、いつもの2倍。どこか楽し気に、どこか嬉し気に、踊るように声は弾む。



 ――なぜなら今だけは、冬野理沙という女の子の「お兄ちゃん(仮)」を遂行してみたくなってしまったのだから。


 ◆


 かあ、と夕暮れの空にカラスが鳴く。

 楽しい時間は早く過ぎるというが、今日は本当にその通りで。

 夕焼けの眩しい202号室の前で、俺は帰宅する理沙ちゃんを見送っていた。


「ちょっと長時間遊び過ぎたね。もう遅いから、気を付けて――いや隣の部屋だからそれはいいのか」


 靴を履き鞄を背負った彼女の、金髪の流れる背中を見ながら照れ笑い。別れの挨拶が上手くないのは、まあコミュニケーション経験の無さ的に順当である。


「うん。ありがとうお兄ちゃん」


 廊下に出て振り向いた理沙ちゃんと、目が合う。

 吸い込まれるような青い瞳が、俺を真っ直ぐに見上げていた。


「今日は楽しかった。またきて、いい?」


 こてん、と可愛らしく傾けられる首。

 甘えるような彼女を前に、俺は迷った。言うべきか悩んで、数秒迷って……それで、やっぱり言う事にした。


「……それは、えっとね」


 舌が重い。唇が渇く。抱いた情が、心を沈める。けれど俺は「お兄ちゃん」なのだから、言わなければならない。良識に基づいた言葉を。


「今日は俺も流れで入れちゃったけど、女の子が1人で男の家に入るってあんまり良くないことなんだ。理沙ちゃんはまだ中学生で、親御さんの許可も貰ってないし、だから……」


 関係とは糸のようなものだと、つくづく思う。

 絡みついた関係の糸を千切ろうとするたび、心に深く食い込んで痛みを残す。深い仲になればなるほど、別れる時の傷は必然深くなるのだ。

 拒絶の言葉を連ねる度、心が軋むようだった。

 知ってしまった楽しさを手放すという苦しみが、俺の胸中に深い影を――。


 そんな時だった。

 ガシャガシャ。そんな金属音のような音が俺の耳に飛び込んできて。


『いやー、お隣のお兄さん。娘がお世話になりました』

「へぁっ?」


 気付いたときには、そこに居た。

 突然声をかけられ顔を上げれば見慣れない顔。理沙ちゃんの隣に、スーツ姿の男性が立っていたのだ。壮年にさしかかったくらいだろうか、白髪混じりの髪を後ろに撫でつけた仕事の出来そうな男性は、その皺の刻まれた顔に営業スマイルのような微笑みを湛えている。

 さっきまで確かにいなかったハズの人物の出現、その不思議な出来事に俺は目を回す。

 そんな俺の混乱に気付かなかったのか、件の男性は口を開いた。


『理沙と遊んでくれたんでしょう、ありがとうございました。私は冬野理沙の父です。この子、理沙は少し愛想がない所がありまして……お兄さんに懐いたのならこれは僥倖、まさに渡りに船と言うやつですな』


 そのまま捲し立てる自称冬野父の言葉もほとんど聞き流してしまった――それどころか混乱のせいか、その口の動きが声に対し少しだけ遅れているような気さえする。


『私は仕事の事情で家にあまり帰れず……この子には寂しい思いをさせてしまいそうだったんですが、お兄さんがいれば安心だ。どうです、娘も君に懐いているようですし、これからもこの子と遊んでくださいませんか?』


 最期の問いは流石に聞き取れたが、それよりも頭を埋め尽くす疑問があった。


「え? いやあまあそれは良いんですけど、理沙ちゃんのお父さん? はいったいいつからそこに――」


 だがその疑問が明かされることは無かった。


『ありがとうございます娘も喜びますそれでは!』

「え、ちょっ!」


 びゅん、と急に冬野父(?)の姿が消える。慌てて扉を開け階段の方の通路を見ても、そこには誰も居なかった。カンカンと階段を下りる音らしきものは聴こえるから、走って行ってしまったのだろうか……?


 まるで突然現れて消えた幽霊みたいな冬野父に混乱していると、俺の服の裾がくいっと引かれた。見れば、そこにはこちらを見上げる青い瞳。

 白黒の髪の冬野父とは全然似ていない金髪少女、理沙ちゃんは邪気の無い顔で言う。


「親の許可、もらったよ?」

「……そういえばそんな話だったなぁ」


 自分の父親が急に来て急に消えたというのに実に落ち着いた様子だった。もしかして冬野父はいっつもあんな感じの慌ただしい人なのだろうか……じゃなくて。


「でもやっぱりなあ……世の中のモラル的には」


 なんだかんだと言おうとした俺の手が掴まれる。あれ、なんかデジャブ。

 嫌な予感を感じる前に、視界の中心でうるうるとした瞳が炸裂した。


「お願い、めぐるお兄ちゃん……」

「しょうがないなぁもう! 夕方までなら大丈夫だろ、多分!」

「わーいありがと」


 ダメだった。妹(*本日初対面)がカワイイのだった。手がちっさくてすべすべしてて倫理道徳どころではないのだった。てかこれ春咲のときと一緒じゃん、俺ボディタッチに弱すぎじゃねえ……?

 関係の糸は解けるどころか、より強く俺と理沙ちゃんを繋げてしまった。自分の余りの意志薄弱さに流石にガチ凹みするロンリーウルフ(笑)こと俺。

 そんな俺に、軽やかな声が掛かる。


「それじゃ。また明日、お兄ちゃん」


 そう言って、理沙ちゃんは背を向けた。茜の空を背景に金色が踊る。

 その光景は、まるで天使が背の翼を自慢するような、そんな穢れを知らぬ可憐さで溢れていて。

 背を向ける直前に見せた理沙ちゃんの表情は、一瞬だったので分かりづらかったが、俺には笑っていたように見えた。その頬に朱が差していた気がするのは、流石に真っ赤な夕焼けのせいだろうけど。


 がちゃん、と隣の部屋の扉を閉める音がして、ようやく俺は再起動した。

 廊下に突っ立っていたのを思い出し、逃げ込むように自室に戻る。そのまま玄関先に座り込み、天井を見上げて大きな一息をついた。

 考えるのは今しがた別れた少女の事。そして、あまりにも激動すぎる今日という日について。


「『幼馴染』の次は『妹』か……いったいどうなってんだ、今日は。急にラブコメアニメの世界に入りこんじまったのか?」


 思わず呟いたその言葉は、普段より冷たい部屋の静寂に吸い込まれて消えていった。


 ◆


「はっ、はっ……」


 走る。息を切らし、赤い髪を揺らして走る。

 少女の名前は春咲朱里。今しがた四季巡に「幼馴染」であると伝え、彼と別れたこの春からの転校生。

 小走りで巡の元を立ち去った彼女は、巡の視界から外れるとおもむろに走り出したのだった。人目を避けるように、ひたすらに入り組んだ路地の奥へと。そうしてしばらく走った彼女は、人目につかない路地裏で立ち止まり、その場で息を整えていた。

 薄暗く狭い道、路傍に打ち捨てられたゴミと倒れたゴミ箱。蜘蛛の巣が張りネズミの死骸を加えたネコが朱里の姿を見て逃げる。滅多に人が訪れないのだろう鬱屈した空気が漂う路地裏……そこに制服を着こなした少女が居るというのは、実にミスマッチな光景だった。


「はぁー……」


 赤毛を揺らしながら長い息をひとつ吐き、彼女は上下していた肩の動きを止める。そして周囲を見渡し、注意深く見渡し。前にも後ろにも誰も居ないこと、周囲に人の気配や人由来の物音が無いことをを確認して……そして、春咲朱里は。


「――やってられるか、こんなことッ!!!」


 ゴガン! と大きなゴミ箱を全力で蹴り飛ばしながら、貼り付けていた分厚い外面をかなぐり捨ててそう叫んだ。


「なんで私がこんなことしなくちゃならねーんだッ! この御時世にハニトラもどきとか、上の老人は全員脳ミソ腐り落ちてんのかッ!? ホント冗談じゃない、私のとこの任務に何の関係があるんだよッ! あークソクソクソ!! もう無理こんな小っ恥ずかしい任務辞退してやるッ、1人2人でも絶対降りてやるッ!!!」


 そこに、純情可憐な転校生の美少女の姿は無かった。不良少女も真っ青の怒号を放ちながら路地裏に落ちているものを手当り次第蹴っ飛ばす――現在寮の前で浮かれている四季巡が見れば間違いなく卒倒するだろう、とんでもないバイオレンスの化身がそこに居た。


 そう。これが春咲朱里の本当の姿。先程までクラスメイトや巡に接していた時の態度など、丁寧に取り繕った上っ面でしかない。

 ……否。これが本当の姿と言うには、まだ彼女は晒していないものがある


 春咲朱里は頭を乱暴に掻いて……そして、目を爛々と見開きながら叫んだ。


「あー、イライラするッ!! もういいやッ、誰も見てないでしょここなら!」


 言うと同時。

 ばちり。急速に周囲の空気が乾燥し、火花が散るような音が鳴る。

 ぶわり。春咲朱里の特徴的な赤毛が、熱された大気の上昇気流によって炎のように激しくはためく。

 路地裏に突如として満ちる乾いた、そして怒りに満ちた空気。


 綺麗な赤毛を振り回し、最初に蹴った大きなゴミ箱を信じられない脚力で空中へと蹴りあげた春咲は――その瞳を大きく見開き、こう言った。


「"燃えろ"ッ」


 炎が。

 まるで冗談のように、爆発するみたいに現れた。

 その炎は標的となったプラスチック製の薄汚れたゴミ箱を飲み込み、覆い尽くし、そして薄暗い路地裏を太陽のように照らす。


 かくしてゴミ箱が地面に落下することは無かった。地面に落ちたのは灰の塊となった、ゴミ箱だった何かだけだったから。

 紅蓮の暴虐。常識を無視した発火現象。

 それを唯一目の当たりにしておきながら、春咲朱里はなんの気負いもなく呟く。


「あー、ちょっとスッキリした。やっぱイラついた時は我慢せずになんか『燃やす』のが1番だわ」


 そう。今の超常現象を引き起こしたのは、紛れもない彼女――「超能力者」の春咲朱里その人である。

 彼女は言う。その瞳に怒りという名の炎を宿しながら。


「……はあ。四季巡だっけ? あんな冴えない奴をオトせとか、それも面倒臭いけど……少女漫画みたいな出会いとか、幼馴染設定とか、マジで必要だったの? コレ」


 そう。彼女が巡にやったこと言ったことは、その全てがすべからく嘘だらけ。

 四季巡と春咲朱里が幼馴染だった事実など本当に存在しないし、運命的な出会いも無理やりぶつかりに行って再現しただけだし、なんなら春咲は1ミリたりとも巡のことを良く思って居ない。


「ていうかアイツマジなんなの? やたらこっちを避けてくるし、なんかすっごい暗いこと言ってたし……まさか友達1人も居なかったとか、普通有り得ないでしょ。お陰で『上』に指定された幼馴染設定が一気に怪しくなったし……」


 ブツブツと呟く彼女は、また苛立ちが再燃したらしく、ガツンと壁を殴りつけた。


「四季巡……ホントにアイツ、この私が苦労する価値のある”何か”を持ってるんでしょうね……」


 その言葉にはどこか、恨みすらこもっていそうだった。

 そんな彼女の本性を、当然のごとく四季巡は知らない。学生寮の前で未だに立ち尽くしている、どことなくニヤけた面の少年には知る由もない。



 ここから、彼、四季巡の青春は……灰一色のハズだったそれは、大きく色付くことになる。

 彼の青春を彩るのは――嘘。

 そして、まるで出来の悪い小説みたいな、超常だらけの世界の出来事。

 さあ、改めてご紹介しよう。

 この物語は残念ながら、シンプルな幼馴染達との恋愛合戦では終われない。

 つまり、ここからは非日常のネタばらし。

 嘘に隠された真実――作り物フィクションの青春ラブコメ、その秘された舞台裏の物語である。

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