青春ラブコメは嘘《フィクション》だらけ
龍川芥/タツガワアクタ
① 4月6日(月)・新学期
俺は友人も恋人も作らない。その必要性も感じない。
「他人との関係」というのは糸のようなものだ。
互いを繋ぐそれは、ときに人を導き、ときに人を窮地からすくい上げる。けれど代償として、その糸はいつだって相手を縛り、振り回し、そして自らの思い通りに操ろうとするのだ。
偶にしか役に立たないのに、いつだって何かを取り立てる。まるでたちの悪い保険だ。けれど人はみなそんな関係に縋る。友人を作り恋人を作り、関係という糸を伸ばしていく。それはきっと怖いからだろう、自分が失敗しても助けてくれる命綱が無いことが。皆欲しいのだろう、自分を正しい道へと引っ張ってくれる毛糸玉が。
無様なことだと感じる。俺にはそんなもの必要無い。誰かに縋ることも誰かに媚びることも、俺の人生には必要無いことだ。
誰からも助けられない代わりに、誰かに足を引っ張られることも無い。そんな孤独を、俺は誇って生きている。
さて、長々と語ったが……つまり何が言いたいのかというと。
「……マジかよ」
呆然と、ただ呆然と。俺は慣れ親しんだベッドの上で、電池切れにより完全停止した目覚まし時計を手に呟いていた。
……そう。つまり何が言いたいかって、俺が寝坊したところで、モーニングコールをかけてくれる友達や、わざわざ起こしに来てくれる恋人(※古典的ラブコメ式幼馴染でも可)なんて、1人として居ないということである。
スマホで確認した現在時刻は『08:51』。確か今日の始業式は8:30教室集合の8:40開始なので、一周回って急ぐ気が無くなる感じの遅刻だった。
「はぁ……なんでこういう日に限って電池が切れるんだよ」
新学期早々遅刻は流石に気分が落ち込む。いやなに、たまにはこんなこともあるさ。俺は気高く孤独に生きる者。別にこんなことで涙目になったり顔を青ざめながら落ち込んだりはしない……しないったらしないのだ。
俺は心のメモ帳に「目覚まし時計の電池を買い換える」と記しながら、胸に蟠る感情を消化するように言葉を吐き出した。
「寝坊なんていつぶりだ……まさか新学期初日にこうなるとは、俺もツイてないなぁ」
倦怠感と戦いながら、俺は名残惜しい温かさを放つ布団からなんとか這い出た。
ベッドに腰掛け、脇の小物置きに置いてある洒落気のない眼鏡をかけて、遅刻という後ろめたさを誤魔化すように深呼吸をひとつ。朝の空気が肺を満たす感覚は、寝坊した日でもそこそこ気持ちが良いのが救いだった。
いつもより陽の高い始業式の朝。少し涼しさの残る春の陽気が部屋を満たしている。
家具の少ない、1LDKの学生寮二階の一室。少し殺風景だか片付いているわけでもない孤独な部屋。テレビの横のタンスの上に、小さな子供を両親が挟んだ家族写真がひとつ、淋しそうに置いてあった。今の俺よりもずっと幼い写真の中の少年が両親の手を取り、遅刻を揶揄うような笑顔でこちらを見つめている。
ぎしり、と腰掛けたベッドが小さく軋んだ。
「……誰かに起こされるのって、どんな感じなんだろうな」
ぽつり呟いた言葉は、誰かへの恨み言なのか、それとも。
そんな部屋で今日もまた、俺の1日が始まった。
俺の名前は
ちなみに勿論、友達も恋人もまだ居ない。
◆
4月6日、月曜日。
寝不足の目には眩しい朝の陽射しを浴びながら、俺、四季巡はアスファルトの歩道を歩いていた。左手に目をやれば、グラウンドを挟んで学校校舎が見える。
俺が通う高校、木世津(きせつ)高校の学生寮は校内ではなく敷地外——正門から見て東側に隣接した住宅地の中にある。これは木世津高校、略してキセコーの寮制度を利用する生徒が少ないからだろう。
此処
「……今頃始業式の真っ最中か。流石に途中で入っていく度胸は無いなぁ……」
溜息と共にぼやく。
俺が歩くのは木世津高校側の歩道、側溝と白線に挟まれた、手を伸ばせば学校のグラウンドを覆う緑色のネットに触れられそうな道だ。
登校時間はとっくに過ぎているためか、通い慣れた通学路は普段よりずっと人通りが少ない。電線の上で鳴く鳥の声がなんだか俺を責め立ててくるようで、俺はどうにも居心地悪く学生鞄を担ぎ直した。遅刻の後ろめたさ故か、いつになくのっそりとした足取りで学校側の歩道を進む。左手側に見える見慣れた校舎は、今だけレベル1の勇者を待ち受ける魔王城くらい近寄り難い場所に見えた。
そんなことを思いながら通学路で唯一の曲がり角――学校の北東端の部分を曲がろうとした時。その声は、唐突に耳に飛び込んできた。
「いっけなーい! 遅刻遅刻ー!」
どこか投げやりな高い声。しかしそれで終わりではない。
声の主であろう人影が、俺が今まさに曲がろうとしていた角から突如として飛び出してきたのだ。
こちらに飛び込んでくるようなその人影に、思わず俺の口から焦りの声が漏れる。
「う、わっ!」
だが辛うじて俺の体は反応、人影から離れるように後ろに身を躱す。
否、躱したハズだった。
しかし如何なる偶然か、飛び出してきた人影はその軌道をこちらへと曲げたのだ。
「げ――」
やばい、と思う間もなく近づく俺と誰かの距離。
軌道変更など想定もしていなかった俺が、それを躱せるハズも無く。
――結果、衝突。
ドン、と激しい衝撃に俺は尻もちを付き、咄嗟に出した手をざらざらしたアスファルトの路面で擦りむいてしまった。
「い、
手に血が滲むのを感じる。手のひらに満遍なく広がる痛み、そして制服の尻と鞄が砂で汚れた不快感。
「(クソ、何だってんだ。遅刻の次は怪我かよ……っ)」
泣きっ面に蜂な状況に、普段より数段口の悪い悪態が喉から飛び出そうになる。それをなんとか我慢した俺は、怒りのままぶつかってきた人物の姿を確認しようと顔を上げ――そして次の瞬間、怒りも苛立ちもどこかに忘れた。
「――ちょっと、どこ見て歩いてるのよ!」
顔を上げた俺の眼前には……女子。女子が居た。しかも結構可愛かった。
赤毛というのか、珍しい髪色の少女で、目と鼻の先である木世津高校の制服を着ている。俺と同じように地面に尻もちをついていて、潤んだ瞳でこちらを睨むように見つめていた。気の強そうな顔立ちは、髪色も相まってどこか炎を想起させる。
知らない女子だ、と無意識に思う。いや、今回ばかりは俺の交友関係が狭いからではなく。
彼女の整った顔立ちに、地毛だろう特徴的な綺麗な赤毛。首元の赤色のネクタイから、彼女も俺と同じ2年生だと分かる。こんな女子なら一目見れば忘れられないハズなのに……少なくとも一年生のときには一度も見た事が無い。新学期デビューという雰囲気でもないし……。
俺がそんなことを考えていると、名も知らぬ女子が先に動いた。
彼女はバッと素早い動きで地面に落としたカバンを手に取り、そしてどこかわざとらしく、
「そうだ、遅刻しちゃう!」
と言い残して踵を返すと、そのまま校門の方へ走り去っていくのだった。
その様子に、思わず一言。
「……いや、もう遅刻は確定してね?」
ほとんど呆気に取られていた俺は、チクリとした手の痛みでようやく我に返った。ポケットティッシュで手のひらの血を拭い、道路に落ちたカバンと制服の尻の部分の砂を払いながら立ち上がる。
一応スマホで時間を確認するが……表示された時間は『09:13』。ああ無情、今からどれだけ急いだところで遅刻は確定である。
「時計でもズレてたのかあの子……そうだ、『人とぶつかって気絶してたんです』って言えば遅刻が取り消されたりは……いや、流石に無理があるなぁ」
なんなら虚偽の証言として更に罪が重くなりそうだ。なにせ去年、新作ゲームをするために「祖母が危篤で」って嘘ついてズル休みしたら、次の日めっちゃ怒られて草むしりさせられたからな。1人で。
「あの子も『時計がズレてたんです』って言って、嘘判定くらって草むしりさせられたりして……ん?」
そんな苦い思い出を噛み締めていた俺は、此処でふと気づく。
「……ちょっと待て」
口から洩れる声は、我知らずトーンが下がっていた。俺の脳内に、先程の衝突事故のシーンが再現される。俺とぶつかって走り去っていった、キセコーの制服を着た赤い髪の女子生徒。
「今の子、うちの学校の生徒だよな」
俺の通学路の曲がり角はひとつだけ。そして俺が歩いていたのは、学校側の東歩道。 俺から見た「曲がり角」は当然左手側にある。そして、学校への道も左手側。
つまり今の女子生徒は……俺から見て左手側の角から飛び出して、俺とぶつかり、そして左手側の角へと――元来た道へと戻って行った。 木世津高校の制服を着て「遅刻しちゃう」叫びながら、つまり明らかに目と鼻の先の学校へ行く意思を有しながら。
「……いや、なんだそれ」
理解不能な行動に困惑する。だって北校門を通り過ぎでもしない限り、そんなことにはならないハズだ。北門からこの曲がり角までは100メートル弱ほど、勢いが付いたからと言ってここまで滑るなんてことも無いだろうし。
色々な仮説を考えた末、俺はひとつの結論に達した。
「まさか今の子……二次元から飛び出してきたレベルのドジっ子なのか?」
思わず呟く。なにせそれくらいしか考えられる可能性がない。いや、もうひとつだけある。それは……わざわざ俺を待ち伏せしてぶつかってきた、という可能性。
「いやいや、ありえねー」
我ながら荒唐無稽な考えに、思わず失笑が漏れる。だってそんなことしても、あの女子にはなんのメリットも無いだろう。いや、他人にぶつかって嫌がらせするイジメみたいなのがうちの学校で流行り出した可能性もあるが……そんなものがあっても、流石に遅刻してまではやらないだろうし。
答えが見えない思考に少し困惑し……俺は結局、「これ以上は考えても無駄」という結論を出した。
「んー……ま、とりあえず俺も学校行くかぁ」
気を取り直して宣言し、俺は再びのっそりとした足取りで通学路を歩き出す。今は女子の事より遅刻を咎められないかが不安で仕方ない。
けれど、思う。件の赤毛女子、その整った容姿がちらついて。
「でも、今のはなんていうか……ラブコメのテンプレ展開みたいだったな。あの女子、見たことは無いけど可愛かったし。もしかしたら運命的な出会い、とかだったり……いや、自分で言っててアレだが、無いな」
己の発言に苦笑する。今のはちょっとキモかったな、と思いつつ、俺はもう会う事の無いだろう赤毛女子のことを思う。
どうか彼女の遅刻が許されますように、そして嘘の証言を理由に草むしりなどさせられませんように、と。
ざあ、と風が吹き、桜の花びらが視界に舞った。
学校の北側の歩道、広めの道に細かい飾り石が埋め込まれたその道には、学校と反対側の車道との間を遮るように桜が植えられている。今は春、当然桜は満開だった。
降り注ぐ陽光、桜の花びらを通したことで桃色になったそれに当てられ、俺は少しセンチメンタルに呟く。
「……とにかく、今日から俺も2年生だ。妄想も遅刻もほどほどにして、ちゃんと卒業できるよう頑張らなくちゃな」
時刻は午前9時20分、始業式終了を伝えるチャイムが鳴る学校への門を、重い足取りでようやく通過する。
皆と比較して約一時間遅れで、俺の新学期は始まったのだった。
◆
さて。些か唐突だが、ここで去年の事……つまり俺が高校1年生だった時の思い出を語ろうと思う。俺の一年生の記憶は次の通り――「いたって普通に学校に通った」。以上……いや、本当にこれ以外言いようがないのである。特筆できる思い出とか楽しかったイベントとかが一切無いのだ。
友達も恋人も居ない、毎日同じ時間に学校に行き授業を受けて帰宅する日々。運動会は欠席、学園祭は流行り病で病欠。思い出は全体的に灰色というかモノクロパラパラ漫画というか、「教室の隅でじっとしてたら気付くと一年経っていた」みたいな、言葉にすればそんな感じ。
成績表には「もう少し積極的に皆と関わろう」と書かれ、体育の時間では「せんせー四季くんが余ってまーす」とクラス委員に叫ばれる、そんな男が俺だった……うるせえほっとけ、人が友達作らなかろうが自由だろうが。泣くぞ。
だがそんな日常も悪くない、と俺は窓の外の雄大な空を見ながらあえて呟いてみせるのである。
友達が居なければ喧嘩の痛みは無く、恋人が居なければ別れへの怯えも無い。
そんな、薄味ではあるが波風の立たない平穏な1年を送り、俺は密かに決意していた。今年もそんな感じの、淋しくもささやかな幸せを噛み締めるような高校生活を送ることを。
そのハズだった。だったのに……どうしてこうなったのだろう。
「あー!! アンタはあの時の!」
こちらに向けられたその人差し指と大声に、教室中の視線が俺に集まる。
高校生活始まって以来の大注目、総勢30人からの視線の群れに、俺は所在なさげに下を向くことしか出来なかった。首が熱くなり、そこから嫌な汗がだらだらと噴き出るのを感じる。慣れていない者にとって「注目」とは、時に非難と同じかそれ以上に鋭い刃となるのだ。
そんな刃にぐさぐさと心を突き刺されながら、俺は心の中で絶叫する。
「(どうして……どうしてこうなった!? 俺の平穏な学校生活はどこに消えちまったんだ!!)」
けれどそんな思いも空しく、針の筵のような注目は依然として去ってくれなくて。俺はこの受け入れがたい現実から逃避するように、こうなった経緯を必死で回想し始めた。
時は少し遡り、始業式後。
己のクラスを確認した俺はトイレの個室で人目につかないように時間を潰し、教室に戻る生徒達の流れに溶け込む様な形で割り当てられた教室に入った。中にはそんな俺に訝しげな目を……「こいつ始業式のとき居なかったよな」という目を向けてくるクラスメイトも居たが、特にそのことを咎められたりはしなかった。何故ならこの学校の中には、俺に話しかけて来れるほど俺と仲のいい人間は存在しないからである……なんだこれ、自分で言ってて凄い悲しくなってきた。来たばっかりだけど早退しようかな。
そんな感じで、新しいクラスの出席番号で決められた新しい席……つまりここ「2-A」の窓際一番後ろの席へと着席した俺だったが、ここで思いもよらぬことが起こった。
新任だろう2-A担任の若い女教師が、突如妙にいい笑顔でこう言い放ったのだ。
「さて皆。今から転校生を紹介する」
その学園ドラマの始まりを告げるような担任教師の言葉に、クラスがやにわに色めき立った。「転校生が来るなんて初耳」「男子かな、女子かな」「可愛い子が良いな~」「イケメン来い!」と思い思いに周囲の友人と騒ぎ出す生徒らの後ろで、俺はというと……ひとりだけ青い顔で沈黙していた。
思い出すのは、通学路でぶつかった女子の事。
「(転校生……赤毛で可愛い、目立つ筈なのに見た事ない女子……まさかな)」
そんなベタな展開起こる訳……という俺のやれやれ笑いは、数秒と経たず驚愕顔に変わった。つまり――あの赤毛の女子が教壇の前に現れ、そして俺を指さしながらベッタベタの展開をなぞるように「あー!! アンタはあの時の!」とそれはもう派手に叫んだのである。
そんなこんなで今に至る。
クラス中の注目の視線、そして担任の女教師の揶揄うような声。
「なんだ、お前ら知り合いか? なら席は隣同士で良さそうだな」
いや違うんです、知り合いどころか名前も知りません、なんなら1秒くらいしか面識無いです……などと大注目されたこの状況で言えるハズも無く。俺はせめてもの抵抗として、この名も知らぬ女教師を嫌いになったのだった。
「(反論できない状況で分かりやすく揶揄いやがって、この恨みは忘れんぞ……いや、別に何か仕返しできるという訳でもないけどもさぁ!)」
と、そんな俺を置いてけぼりに、担任教師は転校生の赤毛の女子へ、
「まあそれは置いておいて。とりあえず自己紹介をしてくれるか転校生。名前を黒板に書いて……あとはそうだな、転校の理由でも言ってくれ。ダメなら新しい学校での抱負でもいいぞ」
と自己紹介を促した。そして、クラスの主役は俺から転校生の彼女へと変わる。
総勢30人の視線を一身に受けて……けれど彼女は、俺とは異なり自然体に笑った。それはやわらかい陽だまりが射すような、桜の蕾が花開くようなそんな笑顔で。
教室中が静まり返る――否、教壇の前に立つ彼女の笑顔にほうと見惚れる。「えー、こほん」という咳払いすら、花弁を運ぶ春風のように可憐だった。もはやこのクラスに、四季巡とかいう存在感の薄いヤツを憶えているものは居なくなったと確信できる程に、全員が目を奪われていた。
ふわりと優美な輪郭を描いて膨らむ、肩を擽る綺麗な赤毛。前髪の下の表情、通学路では勝気に見えたそれは、今は微笑を湛えているせいか随分柔和で優しげに見える。襟元から、そしてスカートの下から覗く健康的な色の肌はくすみひとつなく、まるで白紙のキャンバスのよう。俺とぶつかった彼女、あのときの印象を猛くも美しい「炎」とするなら、今は可憐で誰もが目を奪われる「華」だろうか。そこらの地下アイドルなら蹴散らせそうな程整った容姿が、無意識のうちに俺の脳裏にそう連想させていた。
そうこうしているうちに、転校生は口を開く。長い睫毛に大きな瞳、花が揺れるように鮮やかな赤い髪に彩られて、桜色の唇が白い歯をちらつかせながら踊って。
「――はじめまして。私は
それは言ってしまえば、何の変哲もない、それどころか少し短めの自己紹介。
けれどそれで充分だった。
純情可憐。そんなイメージを、容姿と立ち振る舞い、シンプルな自己紹介での表情と声色だけでクラス中に植え付けた転校生――春咲朱里は、彼女を迎える強めの拍手と矢継ぎ早の質問の数々で、このクラス「2-A」へと受け入れられた。
そんな教室の喧騒を最後尾の窓際の席で眺めながら、数秒で忘れられた男――存在感の薄い俺、四季巡は考える。
「(通学路でぶつかった相手は転校生、しかも可愛い。いやいや、どういう偶然だよコレ。しかも……)」
ちらり、と目だけで隣を見る。俺の右手側にある隣の席、即ち最後列かつ窓際から一つ空いた席はあつらえたように空席だった。そしてそこに、自己紹介を終えた春咲が歩み寄り、そのままストンと着席する。
俺は努めて右側を見ないようにしながら頭を抱えた。
「(よりにもよって隣の席……! なんだコレ、マジにラブコメアニメの世界に入りこんじまったのか俺……!?)」
余りの急展開に目が回る。アニメや漫画の見過ぎで変な夢を見ているんじゃないかと頬を抓ったが、残念ながらというべきか、目が覚めたり転校生の幻覚が消滅したりすることは無かった。
そんな俺を尻目に、春咲と入れ替わるように教壇に立った新任担任教師が、
「えー、私はこの春から新しく、ここ木世津高校に赴任して来た――」
と自己紹介を始めるも、そんなものに耳を傾ける余裕など当然今の俺には無く。
思い出す。自分に言い聞かせるように必死に、己の掲げた人生哲学を。
「(――俺は友人も恋人も作らない。その必要性も感じない)」
口の中で言い飽きたその言葉を転がすと、少しだけ頭が冷める気がした。
転校生の美少女と隣の席。きっと普通の高校生男子ならば「青春」だの「恋愛」だの言いながら諸手を挙げて喜ぶシチュエーションなのだろう。けれど俺はその「普通の男子」の枠組みからは少し外れた所にいる。
「(俺には友人も恋人も必要無い。誰かとの関係に縛られるくらいなら、そしてさっきみたいな注目を浴びるぐらいなら、ひとりぼっちの方がまだマシだ)」
己自身に放ったその冷たい言葉に、熱に浮かされそうだった体が冷え、だんだんと冷静さが戻ってくる。
「(そう。俺は孤高のソルジャー。独りを選んだ気高き一匹狼。青春にも恋愛にも惑わされない真に強き漢! 我が覇道、止められるものなら止めてみやがれ……!!)」
と、そんな一周回ってよく分からない方向に突っ走りだした思考を中断するように、俺の右耳に声が飛び込んできた。
それは、先ほどクラスを虜にしたのと同じ、花弁を運ぶ春風のような声。
「――ねえ、朝の事なんだけど」
思わず。
虚を突かれたからか、それとも別の理由か。気付けば俺の首は右を向いていた。
春咲朱里。隣の席に座る彼女の微笑みとばっちり目が合う。
「ありがと、こっち向いてくれて。その、朝のことはゴメンね。ぶつかったのに酷い態度取っちゃって。遅刻しそうで気が立ってたんだ。それを謝りたくて……えーと、名前、なんて言うの?」
可憐な声が、綺麗な赤毛が、こちらを覗き込んでいるその花を思わせる笑顔が、俺のなにかに突き刺さった。 150キロ超えストレート球が俺のハートにどストライクし、そのままショッキングピンク色の衝撃波を体中に撒き散らす。
「(か、可愛い……っ!!)」
えっと……女の子ってこんなに可愛かったでしたっけ?
異性に耐性の無い心臓がどくんどくんと騒ぎ出し、薄弱な意志と軽い信念がグラグラと揺らいでいるのを自覚してしまった。エマージェンシーエマージェンシー、コード
「(ええい舐めるな、俺は去年クラスで一番優しい
そんなふうに何と戦っているのか良く分からないまま、脳内で必死に当たり障りの無い対応を組み立てた俺は、あくまで平静を装いながら春咲に返事を行う。
「あ、えーと……お、俺は四季巡。朝のことはその、まあなんていうか、気にしなくていいよ、うん。俺も別に全然気にしてないし。……じゃ、そういうことで」
それだけ言って、俺は自分の机へと向き直る。完璧だ。我ながら完璧な会話の切り方である。積み重ねた孤独の歴史が違うのだ。……いやそこ、寂しい奴だなみたいな目で見ないでよ。べ、別に寂しくなんてないんだからねっ。
しかしなんと、予想外にも会話は終了しなかった。
春咲は少し慌てたように、前に向き直った俺を引き留めてくる。
「そ、そんな訳にもいかないって言うか、そっちが気にしなくてもこっちが気にするっていうか……」
【悲報】会話続く【どうすれば】。
「無理して話を続けなくてもいいですよ」と春咲に対して必死に目で語りつつ、謎の汗を垂れ流しながらなんとか上手い返しを絞り出す俺。
「あー、その、ごめん。あの時は俺も注意散漫だったと思うし、俺が悪いよな、うん。じゃ、そういうことで」
「そんなことないよ! 私が不注意だったっていうか、だからその……」
「いや気にしてないからいいよ謝らなくて。じゃ、そういうことで」
「いや、あの……」
「大丈夫気にしてないから。じゃ、そういうことで」
「……えーと、そんなあからさまに避けられると、そっちの方が困るっていうか……」
ぐ、流石にバレたか。俺の108ある会話切り上げテクニックのひとつ「じゃ、そういうことで(真顔)」を見切るとは、なかなかやるな……とか考えてる場合じゃねえ。
実際ここに来て、俺はかなり頭を悩ませていた。
「(困ったなぁ……春咲が困り顔をしていることに困った)」
ここで勘違いして欲しくないのは、俺が拒む関係の糸はポジティブなものだけではないという事だ。他人を困らせることは、回り回ってネガティブな関係性の構築に繋がってしまう。嫌われるというのも一種の「関係」であり、お互いを縛る糸なのだ。
そして当然、俺はそんなものに囚われたくない。会話は終わりたいが、春咲との間に禍根を残す訳にはいかない……。
そんな理由で、なんとか当たり障りのない会話終了のための言葉を探していた俺の思考はしかし、春咲の次の言葉に打ち砕かれることとなる。
「その、だから……お詫びも兼ねてさ、今日一緒に帰らない? メグルくん」
それは、生まれて初めて向けられた上目遣いだった。
まるで心臓を握られたみたいな衝撃が俺の全身を駆け抜ける。それと同時に「え? 何この子。超カワイイんですけど」と心が俺の意志を全無視して思考してしまった。
結果。
「あっハイ……あ”」
即答だった。考える前に返事をしていた。今更口を閉じた所でもう遅いのだった。
不安げに揺れる瞳、上目遣いでこちらを覗き込むその仕草は、女子に免疫の無い俺の心をめちゃくちゃにするには充分すぎたのだ。
そんな俺の心境など知らないだろう春咲は、ほっとしたように小さく笑う。
「よかった。それじゃ放課後ねっ」
会話は終わったが、全ては手遅れで。
「約束」という名の糸が春咲の方から伸びてきて、俺の体に巻き付くのを感じる。「あえての孤独」という信念の敗北を受け入れられず呆然とする俺を尻目に、春咲は他のクラスメイトからの質問等に元気よく答えだした。その横顔を我知らず見ている自分に気付き、俺は慌てて目を逸らす。
担任教師の言葉に努めて耳を傾け、それでも頭には内容が全く入ってこなくて。浮ついた心を落ち着かせようとしながら、俺は机に突っ伏した。
「(……青春ラブコメの主人公はスゲーよ。異性と一言二言交わすのすら、こっちは必死だってのに)」
顔が熱い。汗で前髪が額に張り付く。それを誰かに、特に春咲には無性に悟られたくなくて、俺は窓の外に顔を向けた。
そのままやけにグイグイくる少女、隣に座る春咲朱里のことを考える。
まるで恋愛漫画のような運命的な出会い方をしたが、俺は夢見がちな乙女では無い。高校生男子的な「魅力的な異性と仲良くなりたい」という衝動はあるものの、それも俺の超強固(*自社調べ)な信念を揺るがすほどでも無い。
なのに、何故だろう。こんなにも彼女の事が引っかかるのは。
そう、引っかかる。「気になる」でも「意識してしまう」でも無い。どこか引っかかる。飲み下せない棘のようなものがある。
勘違いで済ませてしまうには大きすぎる違和感。けれどその問いの答えを出すには、今の俺の心は上の空すぎていた。
「(……ていうか。なんで俺、女子と一緒に下校することになってんだ?)」
急展開がすぎるだろ。昨日までそんな気配は一切無かったのに、どうなっちまっちまったんだ俺の日常。
チラリと横を盗み見ると、春咲はまだ質問対応中だった。赤毛を彩るヘアピンがキラリと光り、似合ってるな、なんて恥ずかしいことさえ考えてしまう。
少しのことで心が揺らぐ俺の姿は、悲しいほどに無様だった。
「(母さん、俺、グイグイくる女の子に弱いのかも……)」
思わず雲を見ながら胸中で呟く。
記憶の中の母の顔は、単純がすぎる息子に呆れながらも、優しく笑っているような気がした。
◆
始業日特有の午前授業を少し浮ついた気分で乗り越え、そんなこんなで放課後。
昼過ぎの空は、朝とは打って変わって灰色の曇り空だった。
そんな空の下、木世津高校の北門の前に。朗らかに談笑をする訳でもなく、さりとて沈黙を良い雰囲気と受け入れる訳でもなく……ただどちらも口を開けないという、微妙な空気で隣合い共に下校する男女――つまり俺と春咲の姿があった。
「……えーと、その……い、いい天気だね……」
「……いや、曇ってるし……。その、話題がないなら解散ってことで……」
「い、いやあそういう訳には……」
「は、はあ……」
春咲とたどたどしく会話をしながら、やっとこさ桜の歩道に辿り着き下校を始める。朝来た道を遡りながら、俺は心中で呟いた。
「(……いや、何この空気。気まずすぎない?)」
一応俺の名誉のために言っておくが、先の会話、解散を提案した方が俺である。断じてモテない男的なムーヴをしている方ではないから勘違いしないでよねっ……なんて現実逃避でもしたくなる始末。
あまりの気まずさに、心模様も空と同じ曇天だ。というか女子と上手く話せない自分に死にたくなってくる。困らせているという罪悪感が勝手に俺の心を突き刺す。
やはり人間関係なんてろくなもんじゃない、絶対に囚われてなるものかと強く思いつつ、しかし俺の胸中には全く別の疑問もあった。
数時間前、転校生と衝突事故を起こした角を曲がりながら……その相手を、俺の後ろを着いてくる春咲のことを出来るだけ自然にちらりと伺う。
「(ていうか。春咲はなんで俺なんかに着いてくるんだ? 話題も全然無さそうなのに)」
あーでもないこーでもないと話題を捻り出そうと呻いている春咲。そんな彼女の様子を見ながら、思う。
今日は新学期始まりの日。俺にはよく分からないが、普通の人間は親睦を深めるために一緒に遊びに出かけたり教室に残って交流したりするんじゃないだろうか。そういう貴重なタイミングを俺との気まずさMAXな下校に使うなんて、一体何を考えているのだろう、この春咲朱里という転校生は。
ただ……疑問に答えが出る前に、タイムリミットはやって来た。
「(ま、もう関係無いか……)」
俺は足を止める。目の前には既に、俺の暮らす部屋がある学生寮が鎮座していた。普段はぼろっちいなと感じる小さなアパートが、今はなんだか頼もしい。
短い帰宅路で助かった、と思いつつ、俺は春咲の方を振り向いて言う。
「あー……それじゃ、俺住んでるのここだから。その、もう解散ってことで……」
返答は無い。
春咲は俯いていた。赤い前髪が彼女の顔を隠している。
その下の表情は悲しんでいるのか、喜んでいるのか。前髪の影に隠された表情は覗けず、何も窺い知る事が出来ない。
……何故か心の深い部分が、柔く傷んだような気がした。
それはどうしてだろうか。春咲が俯いたままだったから? 可愛い女の子と仲良くなれなかったから? 円満に解散する空気では無くなったから?
それとも――名残惜しい、から? どうして? ひとりぼっちこそ、俺が選んだ道なのに。
「(いやいや、そんな訳ないだろ)」
沸いた疑問に精一杯の力で蓋をして、春咲に背を向ける。
そのまま寮の方へ1歩踏み出そうとして、
「ま、待って!」
がしり、と俺の手首が掴まれた。
思わず振り向く……長い睫毛に彩られた琥珀色の綺麗な瞳が、目の前にあった。
彼女は――羞恥か興奮か、顔を赤く染め上げた可憐な少女、春咲朱里は。
桜色の唇を動かして、まるで喉から押し出すようにその言葉を紡ぐ。
「あの……っ! 私達、昔会ったことがあるの! メグルくんは、その……憶えて、る?」
ざあっと、何かを攫うように風が吹く。桜の花びらが空に昇り、雲間から差し込んだ陽光が彼女を照らした。それはまるで、桜吹雪が俺たちを包んでいるようで。幻想的でロマンチックな光景が自然と俺の心を奪う。
そんな桜色の春の中心で、はためく綺麗な赤髪に彩られた春咲朱里の顔を真近で見つめながら、いや、確かに見蕩れながら……俺は、ぽろりと言葉を零す。
偽らざる、心の底から出た本音を。
「……えーと、多分人違いです……」
時が止まった。
目の前にはぽかんとした春咲の顔。
正直、めっちゃ気まずかった。いやまあ、俺だって「転校生は幼馴染!?」みたいな展開に人並みの憧れもあったし。だが真実は残酷というか……俺の記憶のどこを探しても、赤毛の女の子の影など何処にも無くて。
「だって俺、春咲さんのこと知らないし……あー、多分誰かと間違えてると思うんだけど。ほ、ほら、俺って結構無個性だし、その人が俺に似てるなら間違えちゃっても仕方ないっていうか……」
いやマジで、俺は春咲朱里なんて知らない。絶対に初対面である。忘れてるだけとか一目会っただけとか、そういうのも無いと何となく分かる。だって。
「い、いやその、ホントに会ったことあって! ほ、ほら居なかった? 昔仲良かった友達とか……」
「居なかった」
「へ?」
なおも食い下がる春咲に対し、俺は語ることにした。思い出すだけで瞳がドロドロと濁りだす、俺の悲しい
「居なかった。俺、友達とか出来たことないし」
「えと、その……凄い昔の、ホントにちょっとの期間だったから憶えてないんだと……あれ? 今なんて」
そう、これこそが理由。春咲朱里と幼馴染でないことの何よりの証明。つまり。
「俺は今まで一人も友達が出来たことがない。大昔も幼少期も、ちょっとの間の友達すら居なかった。俺の人生に『友人』も『恋人』も存在しない、ましてや『幼馴染』なんてどこ捲ったって居ないんだ。たとえ数時間だけだとしても、俺が深く関わった人を忘れるわけない。だって……今までそんな人、1人も居なかったんだから……」
「……え、えーと……」
春咲が困ったような顔で俺を慰めようとしている。やめて、優しくしないで。絆されちゃうから。おい来るな、それ以上近づくと友達扱いするぞ(脅迫)。
そう。もう薄々お気づきだろう。人間関係は絡まる糸なんて言ったが、俺にその糸が絡まったことは1度もない。撫ぜるように接触したことはあるものの、絡まるどころか空回りして、全てはそのまま去っていった。
……ええそうですよ。俺の信条なんて、恋人どころか友達さえ居ない、寂しい奴の負け惜しみですよ! 今までの孤独な日々を肯定するための苦し紛れの人生哲学モドキですよぉ!!
……いやまあ、積極的に友人を作ろうとしなかったシャイで繊細な過去の俺も悪いのだろう。でもこう……ここまで拗らせちゃう前にもうちょいなんとか出来ませんでしたか神様?
ほとんどいじけた子供みたいになった俺に対し、それでも春咲は声をかけてくる。
「で、でも私達がその、『幼馴染』なのはホントなの。お願いだから信じて欲しいな……っ」
「いや、だから有り得ないって……俺みたいなアリンコと春咲みたいなキラキラ系が幼馴染なんて……」
完全にうじうじモードとなり果て、地面にしゃがみこんでアリを眺めていた俺の手が、春咲の手に掴まれる。
「え――」
細い指と柔らかく熱い手のひら、女の子のそれはしかし、その儚さと真逆の力強さで俺を引っ張り上げた。
立ち上がった、否、立ち上がらせられた俺の手を両手でぎゅうっと掴みながら、彼女は言う。
「お願い。信じて」
なんだかその表情に、とても切羽詰まったものを感じてしまって……けれどその何百倍もの衝撃を、俺は手から伝わる柔らかい感触に受けた。受けてしまった。
触れられた部分が、熱い。
違う誰かの体温。女の子の感触。微かに伝わる、少し早い彼女の鼓動。それが気恥ずかしくて、それ以外の何かさえ抱いて……心の柔らかい部分を思いっきりボディーブローされたみたいで、俺の頭はもうパニック状態だった。
「信じて、くれる?」
潤んだ瞳の追撃。その破壊力に、我知らずといった具合でこくりと頷く。
今自分が何をしたのかも分からぬままの俺がようやく思考力を取り戻したのは、手から春咲の熱が離れてからだった。
「うん、ありがとう」
そこでようやく、俺は「春咲と会ったことがある」ことを、少なくとも彼女視点では認めた形になることに気がついた。またひとつ、関係の糸が繋がれるさまを幻視する。
いや、なんで頷いたんだ俺。チョロすぎかよ。
呆然と虚空を見つめたままの俺に、春咲はどこかわざとらしく笑いながら、
「……あー、それじゃ、また学校で!」
と言ってパタパタと小走りで立ち去っていった。そんな春咲の姿を、俺はまだほとんど忘我の状態で見送り。
彼女が見えなくなってから、自分の手のひらを見つめる。じぃんとした熱の残る、謎の震えを発する手のひらは、まるで自分のものでは無いみたいで。
「……いや。もしこんなことがあったなら、絶対憶えてると思うけどな……」
未だ引かぬ熱を照れくさく思いながら、呟く。
どれだけ過去の記憶を洗おうと、春咲朱里という少女の姿は確認出来ない。それでも自分から頷いてしまったからか、「糸」が繋がってしまったからか……彼女が幼馴染ということを認めてしまいそうな自分が居た。
「やっぱり、俺が忘れてるだけなのか……?」
もしかしたら俺には友達が居たのだろうか。幼馴染なんてステキな響きの関係を築いていたのだろうか。……けれどやはり思うのだ。それが本当なら、俺が忘れるハズが無いと。毎日ひとり寂しく読書とゲームという平坦な人生にそんな山場があれば、忘れたくても忘れられないハズだ、と。
何となく仰いだ空は、いつの間にか晴れ間が覗いていた。ぱらぱらと舞う桜の花弁を眺めながら、俺は結論を口にする。
「やっぱ、初対面としか思えないけど……春咲と幼馴染って、なんか、良いな」
……信条もクソも無いことを口にした俺は、何だか凄く情けない奴だった。
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