第四十三話 忘れじこの想い
「パパ――あたしのパパがね? ………………再婚したいんだって。だからよ。これで満足?」
そう
今にも消え入りそうな小さく震えた声で、
そっと
「………………そうか」
と同じく小さな声で呟くと、ふっ、とまるでその言葉がきっかけとなって全身から力が抜けてしまったかのように、カウンターの裏に置いてあった折り畳み式の簡易椅子に腰を下ろした。
シオンは――どうしていいか分からずに、気がついた時には居間の上がり口に座り込んでしまった香織子の隣に身を寄せて座ると、優しく、優しくその長い黒髪を
「……っ」
しばらくの沈黙のあと、香織子は再び気だるげにのろのろと口を開く。
「もう……五年。でも……あたしにとっては
「結局の話、だ」
銀次郎は言葉に詰まった香織子の代わりに、普段よりいくつか落とした照明を灯りを反射して鈍い光を放つ、ステンレス製の狭い洗い場の一点を見つめたまま、そっと口を開いた。
「――人間ってなぁ、弱ぇ生きモンなんだよ。ひとりぽっちじゃあ寂しくてたまらねえんだ。一緒にいた
「でも……パパにはあたしがいるじゃない」
不満げに口を
「……そうだよ。銀じいだって、おばあちゃんが亡くなってから一〇年経っても、ずっとひとりでいたじゃない。パパだってそうするべきなんじゃないの? あたし、分かんないよ……!」
「……ばぁか」
銀次郎もまた、顔を両手で覆い、ぽと、ぽと、と涙の粒を
「こんな死に損ないの爺さんが、
「……いつもはすぐ憎まれ口きくくせに」
――ぺちん!
平手で叩かれた膝小僧に、
「男なんてなぁな? いくつんなったって中身はすっかり
「……なによ、
「なんでもこの世界の神様で、えらくへそ曲がりの
たちまち香織子は噴き出した。
「……ぷっ。それ、まるで銀じいじゃない。どう思う、シオン?」
「そーだそーだ! ギンジローそのまんまだ! あははは!」
そこまで笑われるとは思ってもみなかった銀次郎は、白い頭をぽりぽりと
ひとしきり笑ったあと、香織子は目元を手の甲で
「あたしだって、本当は分かってるんだ――パパが心配してるのは、あたしのことなんだって。中学校に上がったばかりの時にママが死んじゃって。ずっと、ずっと寂しいだろうなって――」
銀次郎とシオンは、何も言わず、声を震わせる香織子の背中を優しくさする。
「でも、本当に寂しかったのはパパなんだ! そんなこと、知ってるに決まってるじゃない。 あたしはパパの娘なんだし、パパとママの娘なんだし。分かってるよ、分かってる、けどっ!」
どうしようもなく震える声を、香織子は止めることができない。
「パパの中から……みんなの中から……そして、あたしの中から……! ちょっとずつ、ほんの少しずつ……ママが……大好きだったあたしのママが、消えていっちゃいそうで……っ!!」
「消えやしねえさ」
「でも……だって……!」
「消えねえ」
銀次郎はきっぱりと言い切り、
「俺が覚えてる。そんでもって、おめえが、おめえさんのパパが覚えてる。そう簡単に忘れられるモンならとっくにそうしてるだろうさ。でもな、そりゃあできねえ。そういう風にできてんだ、心ってのはな。こちとら伊達に七〇まで歳
香織子は――やがて頷いた。
それから少し照れ臭そうにこう尋ねる。
「……ねえ、銀じい? ママのこと、好きだった?」
「馬鹿言え。好きだなんてモンじゃねえ。……ああ、
「まったく……サルトゥスなんだから!」
「けっ。
「あたしもおんなじ! 大嫌いで、大、大、大好きだった!!」
「へへ――」
「ふふ――」
そっと頭を寄せ合い笑うふたりを、愛しそうに後ろからシオンが、ぎゅっ、と抱きかかえた。
「あたしはね! ギンジローとおねえちゃんが大、大、大好きだよっ!」
「嫌ぇなとこはねえのか、シオン?」
「うーん……」
ぽりぽり、と薄紫色の頭を掻きながら、シオンはやがて困ったような笑顔でこうこたえた。
「ご、ごめんね……シオン、思いつかなくって……」
「はははっ! 謝るこたぁねえ! 嫌いなところが見つからなくって謝る馬鹿ぁいねえわな!」
「はい! はーい! ……あたしは銀じいの、すぐ『馬鹿』って口に出すところが嫌」
「おっ……と……。そ、そいつぁ……どうにも……ええと……」
たちまち勢いを失って目を白黒させながらよれよれのハンカチで額の汗を拭う銀次郎の姿を見て、香織子とシオンは揃って、ぷ、と噴き出してしまった。あまりに滑稽で涙が出てくる。
「もう! 冗談だってば!」
別の意味での暖かな涙を拭い取りながら、香織子はフォローのつもりでこう付け加えた。
「でも、ママは結構、そういうところ気にしてたわよ? やっぱり
「……小学校じゃあ、さんざ馬鹿にされて悔しかった、って言ってたっけな」
銀次郎の住まい兼喫茶店のあった下町は、かつてたくさんの料理屋・待合茶屋・置屋が建ち並んでいた
しかし、銀次郎の娘、芳美が小さい頃はまだかつての風潮が色濃く残っていた。同級生で子どもとは言え、年寄り連中が話すかつてのこの町のことを盗み聴いている。おかげで手
銀次郎は銀次郎なりに、花柳界の華やかなりし住人たちは気前の良い上客であり、また、この下町
しかし――しかし、である。
「やっぱし……嫌ぇだったんだろうな、芳美の奴は。この店のことを、腹の底から憎んでた」
「うーん……?」
「なんでえ?
「あのね? あたし、一度だけ、ママから聞いたことがあるの――」
香織子は何かを思い出すように、店の中をゆっくりと見回してから、こう告げる。
「あたしの本当の気持ちはね、あの店の中のどこかにこっそりと隠してあるのよ。ああ、いつかそれを見つけた時の、銀じいが
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