第三十三話 異国の友

「こりゃあ、参ったねぇ……」


 数分後――。


 苦労してもろくなった縦穴をい上り、下向きにひっくり返った仏壇の観音開きの扉を開けた銀次郎は、なんとか這い出すと眼下に見える景色にぽつりとそう呟くしかなかった。


「ぷう?」


 背中におんぶ紐の要領で結わえつけられたシオンが不思議そうに尋ねてくる。


「……そうだ」


 銀次郎はうなずいた。


「間違いようがねぇ。ここは……俺の元いた世界だぜ、シオン」



 うっすらと鼻先を漂う墨田川の匂い。年老いていささにぶくなった銀次郎の嗅覚でもそれと分かる、長年ぎなれた懐かしい匂いだ。まだ空気は冷たく、あちらの世界に行ってからさほど時が経ってないことが分かる。遠くからは川沿いに連なる首都高を駆けていく車の排気音が響き。正面に顔を向ければ、そこにそびえ立つのは日本一の電波塔、東京スカイツリーだ。



 だが――。



「……酷えな、隣近所は大丈夫だったらしいが」


 どういう訳だか足元に視線を戻すと、銀次郎の店のあった場所だけが瓦礫の山となり、すっかり崩れてしまっているではないか。塀ひとつ隔てた裏の空き家は傷ひとつない。銀次郎の家よりもさびれ、築年数も古く、割れ欠けの目立つ青いポリカ波板張りのボロ家だと言うのにだ。表側に建つ新築一軒家はもちろんのこと、向こう正面の家々にも被災の影も形も残ってはいなかった。


「……なんかおっ立ててやがんな。なんだありゃ?」

「ぷぅ!」


 シオンの合いの手と共に、銀次郎は慎重な足取りで瓦礫がれきの山を降りていくと、すっかり倒壊した自分の家の敷地の前に立ててある木板の看板の正面に回って見てみる。




『敷地内立入禁止


 二〇XX年一月十五日早朝に起きた局地的な地震発生の影響により、当敷地内の建物が全壊したため一時封鎖しております。関係者以外の方は危険ですから立ち入らないで下さい。

 なお、無断で立ち入った場合、軽犯罪法により処罰の対象となります。


 管理課』




「……」

「ぷぅ?」

「……いいや、なんでもねえ」


 銀次郎はそう言って、ふい、と看板から視線を反らしてしまった。






 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆






「オキャクサーン! シバラクネー!」

「お? お、おう、元気だったかね?」


 数分後、銀次郎は行きつけの輸入雑貨店にいた。


「オー! ゲンキネー! イツモノー? アルヨー?」


 ここの店主はいつも笑顔を絶やさない陽気なアジア人なのだが、残念なことにカタコトの日本語しか話せなかった。それだけに、年老いた自分のことを覚えているような口ぶりに驚いた。


「あんたぁ、おいらのこと、覚えてんのか?」

「モチロンヨー! カフィノマスターネ!」


 たちまち銀次郎は目を丸くする。


「……驚れぇた。ちゃんと分かってやがったのか。俺ぁてっきり――」

「アースクェイク、シンパイシタ……。イッパイ、ユレマシタカラネ」

「………………ありがとな。嘘でも嬉しいや」

「ウソ、ナイヨ! シンパイ、ホントダカラ!」

「わ、悪かった、悪かったって! そんなに怒りなさんな!」


 そこではじめて銀次郎は、童顔のアジア人店主が本気で怒っている顔を見たのだった。かなり乱暴な抗議と歓迎の入り混じった扱いを受けたが、生来せいらいの人の良さからかまた笑顔に戻った。


「あんた、国はどこだい?」

「ベトナムネ。イイクニヨ」

「へぇー! 今度、連れてってくれるかね?」

「モチロン。ティケット、マスターオゴリ!」

「馬鹿言え! そんなぜにゃぁ、ありゃしねえ!」


 そんなたあいもない軽口を交わして、ふたりして大笑いする。そのうち、銀次郎の下げていた竹編みのバスケットは一杯になっていた。中身は五種類の珈琲豆が入り混じっている。それはいつものことだったが――店主はバスケットの中を見るなり少し不安そうに表情を曇らせた。


「……イツモヨリオオイヨ? ドウシテ?」

「気づかれちまったか。実はな――」


 銀次郎が耳元でごにょごにょと囁くと、店主の目が丸くなり、大喜びで手を叩きはじめた。


「スゴイ! イッツ・ア・ファンタスティック!!」

「おいおいおい、こりゃ秘密の話だぞ? いいな?」

「ヒミツ、マモリマス! ゼッタイ! オット――」



 と、突然ベトナム人店主は何かを思い出したようだった。


 今度は逆に銀次郎の耳元でなにごとか囁いた。

 すると、たちまち銀次郎の表情が険しくなる。



「……なんだって? 俺ぁのところに二人来たってえのか?」

「ハイ。キュート、ヤングノオンナノコ、スマイル、ウソツキノオトコノヒト」

「なんでぇ、その『スマイル、ウソツキ』ってのは?」

「カオ、ワラッテル。デモ、アレ、ウソ。ワタシ、ワカル」

「――?」


 ――よく分からない。


 ただ、ベトナム人店主の顔は至って真剣そのものだった。

 もう一度、辛抱強く繰り返す。


「ワタシ、ワカル。カオ、ワラッテル。ケド、アレ、ウソ。アノヒト、コワイヒトダカラ――」

「……分かった。用心するぜ。……そいつは、さっきの『オンナノコ』ってえののれか?」

「ツレ、チガウ。オンナノコ、マスターノムスメイッテタ」

「俺の娘ならもういねえんだ。そいつも嘘っぱちだろうぜ」

「チガウ! ……アノコ、ウソ、ナイヨ。ワタシ、ワカル」

「……分かった。おめぇさんがそう言うんなら信じるとしようか」



 どう考えてもあり得ないことだったが、とっくに死んだはずの一人娘の芳美よしみが訪ねて来たとでも言うのだろうか。異世界に店ごと転移する、という現実には到底あり得ないことをすでに経験済みの銀次郎ではあったが、それでも信じることは難しかった。だが、うなずいてみせる。



「そいつらぁ、いつ来た?」

「キノウ。マタクル、イッテタ。キョウネ」

「ここにも来たのか?」

「オンナノコダケ」


 ベトナム人店主はうなずき、その表情を怖いものに変えて続ける。


「コワイヒト、マスターイエマエ、タッテタ。ワタシ、サンポ、ミタ。ダカラ、コエ、カケタ」

「おいおいおい……。危ねえことしなさんな、これモンだったらどうすんだ?」


 銀次郎は自分の左頬に、すっ、と人さし指を滑らせる。

 すると、ベトナム人店主は笑った。


「オー! ヤクザ、マイフレンド! アノヒト、チガウ。モットコワイダカラ」


 ケラケラと笑うベトナム人店主。予想外の答えに目を丸くしたのは、むしろ銀次郎の方だった。しかし、その手の話に首を突っ込めば互いに面倒になる。なので聞かなかったフリをした。


「ドウスル、マスター? ヘルプ、ホシイ?」


 店主からつり銭とレシートを受け取った銀次郎に、ベトナム人店主は尋ねる。すると銀次郎は、うつらうつらしているシオンの鼻先をつつきながら、とぼけた顔でこう言うのだった。


大丈夫でえじょうぶさ。会ったところで、取って喰われる訳じゃあるめえよ。まあ、待ってみるさね」



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