第六話 仲直り

 で、今はと言うと。


「はぁー……あたし、明日が来ない予感がして怖くなっちゃうよ。だってさ、このこーひーっての、すっごく美味しいんだもん」


 ほにゃあん、ととろけそうな顔をしたシーノが、もう何杯目かの珈琲を堪能している真っ最中だった。


「何を大袈裟なこと言ってやがる」


 一方、銀次郎はと言うと、けっ、と吐き捨てながらも満更でもない顔である。


「ま、お気に召したんなら光栄の至り、ってな?」


 不器用なウインクを一つしてから――銀次郎は気まずそうに頭をいた。


「今日のところはお前さんからは銭は貰えねえ。んな無作法なことしたら、あいつにこっぴどく怒られちまうからな。ささ、好きなだけ飲んでくれ」

「そんな嬉しいこと言ってくれるから、あたし、死んじゃうかも、って言ってるんだけど」


 そう言いながらもまた一口。


 ほにゃあん。


 幸せそうな笑顔に思わず釣られそうになってしまい、銀次郎はわざとらしく咳払いして顔をしかめた。


「で、だな?」


 そう。


 あれから少し時間はかかったが、お互いの間にあった誤解をすっかり解くことができた。それは互いの良さを知り得たからではなくむしろその逆で、互いの弱いところ、嫌なところを曝け出してしまったからかもしれなかった。


 そして、


「もう一ぺん確認してえんだが――」


 つまらないいさかいのそもそもの原因は、銀次郎の理解をはるかに越えたところにあったのだ。


「俺とこの店は、元いた場所とはまったく別の世界に存在する、この『ぐれいるふぉーく』って国に飛ばされちまったんだ、って言うんだな、シーノ?」


 言われたシーノはうなずく前に少し躊躇ためらった。


「多分、だけどね」

「何だ? 頼りねえな」

「最初にギンジローが尋ねた質問……覚えてる?」

「ん?」

「あたしに、あんた学生か? って聞いたでしょ」


 確かに。言われてみればそんなことを尋ねた気もする。

 シーノは続けて言った。


「この国で学生と言えば、魔法学校に通うお坊ちゃん、お嬢ちゃんしかいないの。だからあたし、凄くびっくりしちゃった。どう間違ったって、あたしは魔法使いになんて見えっこないんだから」

「それと、俺がここに飛ばされてきたことと何の関係があるって言うんだね?」

「関係はないんだけど」


 こく、と手の中のカップの中身で口を潤す。


「前に風の噂で聞いたことがあるんだよ。別の世界の人間をこの世界に招き入れる、そんな魔法があるんだってさ。でもね……うーん……」

「でも、何だってんだ?」


 シーノはカウンターの向こう側で厳めしい顔をして片眉を跳ね上げた銀次郎をしばし見つめ、堪え切れずに、ぷっ、と吹き出した。


「何だ、人の面ぁ見て笑いやがって!?」

「あ、や、ごめんごめん!」


 そう詫びながらもくつくつと笑い出した。


「だってさ。その召喚魔法ってのは、勇者とか英雄になれる人を呼び出すためにあるんだ、って聞いたんだもん。この世界に危機訪れた時、招かれしその者、等しく皆を救うであろう――ギンジローには悪いけど、ちょっとそうは見えないもんね」

「な――っ! こ、このっ――!」


 一瞬、呆けた顔付きになる銀次郎だったが、顔を赤くしていきなり拳を振り上げると、シーノは、いやあん、と笑い転げながら頭をかばう素振りを見せた。だが、どちらもそれが冗談だと分かるくらいにはもう気心が知れている。その証拠に、すぐにも銀次郎はすぐにも拳を引っ込め、天を仰いで笑い立てた。


「はっは。違えねえか。俺みてぇな老いぼれじゃあ、勇者だの英雄だのは務まらねえものな。第一、頼まれたって、こっちからお断りだ」

「でしょ?」


 シーノは、うんうん、と同意する。


「それに、無理だよ。ギンジローは優しいもん。きっと、悪い方も助けちゃったりしてさー」

「ば、馬鹿言え。そりゃあ買い被りってモンだ」

「どうかなー?」


 再びむっつりと顔を顰めた銀次郎の様子を上目遣いで見つめながら、シーノは自然と浮かび上がってくる表情をカップでそっと隠してしまった。


「ふうむ」


 少し間を置いて落ち着きを取り戻した頃、銀次郎は顎を掻きつつ今仕入れたばかりで頭の中に溢れ返っている情報を自分なりに整理することにする。



 まず、ここは日本ではないのだ、ということ。

 場所どころか、世界の理そのものが違うらしい。



 どうやったら戻れるものか――初めこそその方法に頭をひねっていた銀次郎だったが、よくよく考えてみると自分には戻らなければならない理由が何一つないことに、じき気付いてしまった。


 強いて言えば、足しげく通ってくれた学生たちのことが気にならないと言ったら噓になるだろう。とは言え、あくまでそれは良くも悪くも店と客との間に生まれた乾いた関係でしかない。もちろん彼らに対してはそれなりに情が沸いていたし、向こうにしたって同じだと思う。いや、思いたかった。


 それでも、いざ失くなってしまえばまた別の居心地の良い場所を探すだけだろう、と思う。それを銀次郎は冷たいとも悲しいとも思わなかった。至って自然な考え方だと思う。



 ならば――いっそ戻れなくても良い。

 そう思ったのだ。



 そして次に、この店にいくつか腑に落ちない点があることに思いを馳せる。その最たることとは、電気、ガス、水道――何故かそのいずれもが、元いた場所と全く同じように使えているということ、その事実であった。


 どういう理屈かはさっぱり分からない。案外、店の下の地面をずんずんと掘り進んでいったとしたら元の世界まで通じているんじゃなかろうか、などという突拍子もない考えまで浮かんだくらいだ。


 しかし、銀次郎はそのことについてもさっぱりと思い悩むことを止めてしまった。その理由はと言うと、少なくともこの先も、この世界で店を続けようと思うなら不自由はしなさそうだ、という考えからだった。



 それと――。

 ロハで使えるってのに、文句言う馬鹿はいねえな。


 そんな、ちょっぴり小狡いことを思ったからだ。



 そうして最後に、目の前で何とも幸せそうな顔付きをして自分の淹れた珈琲にすっかり夢中になっているシーノと名乗る若い女に改めて目を向けた。


「ん? どうしたの?」

「何でもねえよ」


 一〇年前に先立った妻にもたびたび揶揄からかわれたものだが、とかく銀次郎は女性を見る目がないらしい。もちろんそこまで悪い意味で、ではない。



 さて、年の頃はどうだろう。若いと言っても二〇歳は越えているのだろうか。正直、自分の見立てにちっとも自信は沸かなかったが、少なくとも銀次郎がとうに失ってしまった輝きに満ち、惜しげもなくさらされた健康的な薄褐色の肌はわずかに店内に差し込む光さえ弾くかのように艶々としている。背丈は銀次郎より頭一つは大きかったが、それは彼自身が小柄なせいでもあるだろう。


 それから上の方へと視線を動かすと、見たことのない燃え盛る炎のごとき赤色をした髪が肩口までうねるように流れ、ころころと時を刻む毎に変化するシーノの感情豊かな顔立ちを一層華やかに見せていた。ただ、あまり櫛を使う習慣はないようで、少し身なりに気を配ってやるだけでもその魅力はいや増しそうだ。それがちょっぴり惜しく思えてしまう。



 だが――。



 やはり、やたらと露出度の高いシーノのいで立ちは、元より女性の扱い方を不得手とする銀次郎の気持ちを妙に落ち着かなくさせていた。


「お、おい、シーノ?」

「ん?」

「あの、何だ……」


 白髪頭を掻く。


「こっちの連中は皆、お前さんのようなそのう……やけに涼しそうな恰好をしてるのかね?」

「またその話?」


 シーノはまたもぶり返された話題にもう動じることはなかった。一応、付き合い程度に自分の身なりを見渡してから答える。


「ま、盗賊だからね、あたし。こういうのももちろんいっぱいいるよ? でも、盗賊を生業としている連中以外は、ギンジローとそんなに変わらないって。ああでも、そうだなあ――」


 そう言いながら、今度はシーノの方が銀次郎と名乗る男の姿をまじまじと検分し始めた。



 この別世界からやって来た男は一体幾つなのだろうか。もちろん、白髪の男はそこまで珍しくはなかったし、今まで幾人にも会ったことがある。しかし銀次郎の風貌には、今まで目にした他の誰よりも深い年輪が幾重にも刻まれていた。とは言うものの、いくら何でも五〇歳も行けばいいところだろう。それ以上ともなるとそれこそ生ける伝説級の存在になってしまう。


 背はシーノより低いものの、ひとたび口を開けば周囲の空気までが震えるほど良く響くバリトンの声が飛び出し、小柄なその身体が一回りも二回りも大きくなったようにすら錯覚する。見た目こそ地味だが、その身なりは街で見かける誰よりもこざっぱりとしていて、何よりセンスが感じ取れた。そして、ただそこにいるだけで言葉では言い表しにくい独特の存在感を漂わせる男でもある。それは、ピンと伸びた背筋のせいでもあるのだろう。



「何でえ、俺のことじろじろ見やがって」


 お互い様である。

 苦笑するしかない。



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