第五話 猜疑心

 ふーっ、ふーっ。

 んく。

 んく。



 今度は入念に息を吹きかけ、流行る気持ちを抑えつつ、若い女はさっきよりも幸せそうな顔付きで手の中の一杯に夢中になっている。しばらくその様子をカウンター越しに頬杖をついて眺めていた男だったが、やがて頃合いを見計らって、女の方へ右手をすっと差し出した。


「さっき俺は、じじいと呼ぶな、と言ったよな? じゃあ、嬢ちゃんも俺の名前が分からんと困るだろう。


 ――俺の名前は、銀次郎。


 八十海やそがい銀次郎ってんだ。これからも贔屓にな?」

「あ、あたしは!」


 女は慌てて名残惜しそうに抱えていたカップをカウンターに置くと、ごしごしと革製のホットパンツの脇で手を拭いてから、差し出された皺だらけの手をきゅっと両手で握り締めた。


「あたしの名前は、シーノ。シーノ=メランディって言うの! 人呼んで《熱風》のシーノ! なんて……ほら、あたしの髪、燃え盛る炎みたく真っ赤でしょ? それにずば抜けて素早いモンだから、いつの間にやらそんな通り名が付いちゃったんだよ」

「ははは。そりゃ似合いだな」


 途中までは良かったのだが、最後の方はちんぷんかんぷんだ。しかしそれでも、自分の皺だらけの手をいたわりつつもきゅっと握り締めるシーノの気持ちがじんわりと伝わってきて実に心地良かった。


「よし。じゃあ本格的に店を開けるとするか」


 そう言って、年甲斐もなく弾むような足取りで正面の扉に向かい、からん、と開いて――。




 どどどどどどどどどどどどどどどどどどどど!!




 刹那、目と鼻の先を、ほこりを舞い上げながら二頭立ての馬車が通り過ぎた。


 いや――馬車ではない。引いているのは、トカゲの親分みたいな瑠璃色の鱗がびっちりと生えた、まるで見たことのない生き物だった。


 ばたんっ!


 普段は客がそんなことをしようものなら問答無用で摘み出すような乱暴な勢いで銀次郎は扉を閉めた。



 おほん。

 咳払いを一つ。



「えーっとだな。おい、嬢――いや、シーノ、って言ったっけか?」

「そだよ。何?」

「うおっ!」


 皺だらけの自分の顔のすぐ隣から肩越しにシーノの顔が、ひょこり、と覗いて余計に動悸が激しくなった。年寄りの身にはいろんな意味で刺激が強い。冗談抜きで心臓が止まりそうだ。


「な、何だい、お、脅かすんじゃねえ」

「ごめんごめん」


 てへ、とすぐ隣の顔が笑った。互いに顔を向け合ったそれこそ接吻キスでもしかねない距離感である。一方、シーノはそんなことはお構いなしの様子だった。


「どしたの?」

「ど、どうしたもこうしたもだな!」


 ガラにもなく頬を染めながら、銀次郎は言った。


「今の見たか!? 何だぁありゃあ!? トカゲみたいなけったいな生きモンが今通ってった馬車引いてやがったんだぞ!? ありゃあ一体――!?」

「と、とかげ……?」


 またもや知らないらしい。


 シーノが身を引き、銀次郎の脇をすり抜けて扉の外に出た。それから外を見まわし、ゆっくり閉じる。


「あれ、竜車りゅうしゃでしょ? ちっとも不思議じゃないわ。もしかして、あれが珍しいって言ってるの? え、ギンジローって一体どこから来たのよ? あたしをからかってるのよね?」

「からかうもんか!」


 妙に落ち着き払っているシーノの態度に、再び銀次郎の中の猜疑心がむくむくと頭をもたげた。だが、今度はそれを追い払おうとはせず、むしろ身を任せるようにして銀次郎は感情の波打つままに声を荒げていた。


「あんなモンを目にして驚かねえ奴がいるもんか! こんな老いぼれを掴まえて、担いで手ぇ叩いて喜んでいやがるのはお前さんの方じゃねえのか!?」


 違う、きっと違う――。


 心の中ではそう信じたいと願う自分がいたのにも関わらず、ひとたびそうしてしまったらもう歯止めが効かなかった。


「ははあん。分かったぞ」


 今度は遠慮の欠片もない視線で、シーノの頭のてっぺんから爪先まで容赦なく嘗め回すように眺めた。


「そんなズベ公みてえな恰好してやがんのも、俺を担ぐためだったってのか? スマホも知らねえ、インターネットってのも知らねえ。んな馬鹿な話があるもんか!」


 ず、ずべこう……?

 と困惑のつぶやきが聴こえたが丸ごと無視して、遂に銀次郎はこう叫んでしまっていた。


「旨い旨いって俺の珈琲飲んでたのも嘘っぱちなんだろ!? この年寄りを小馬鹿にして――!!」

「やめて!!!」


 はっ、と我に返った時には遅かった。

 シーノの瞳には――大粒の涙が浮かんでいた。


「ねえ……やめてよ、お願いだからっ……!」


 震える声でシーノは言った。


「あ……」


 銀次郎は言葉を失う。

 シーノは泣きながら微かな呟きを漏らした。


「あたし、こんなだから、何言われたっていいよ。でもね? あたしがあなたの淹れてくれたこーひーっていうの、美味しいと思ったのは、絶対に! 絶対に嘘じゃないから!」


 シーノは自分より頭一つ小さな老人の肩をぎゅっと握り締めて、震える声を張り上げた。


「やだよ……あたし、初めて素敵な気持ちになれたのに! 世の中に、こんなに心のこもった素敵な飲み物があるって知ったのに! その気持ちが嘘だって……そんな酷いこと……言わないでよ……!」


 あとは声にならなかった。


 銀次郎は、自分の肩に載せられた燃えるような赤い髪に手を伸ばし、毛先が触れた途端、針先で突かれでもしたかのように慌てて引っ込めたが、もう一度恐る恐る触れ、


 それから――優しく撫でた。


「………………悪かった」


 自分でも驚くほど、かすれた声だった。

 それからたっぷりと時間をかけて、次の言葉を吐き出した。


「まったく嫌なモンだな、歳を喰うってのは。時間をかけて、いろんな事を覚えて……挙句あげくに人を信じるって一番大事なことを忘れちまう。御免な、嬢ちゃん」


 シーノは何度も何度も首を振り、そのたび火傷しそうなほど熱を帯びた涙が銀次郎の肩を濡らした。


「うう……! ううううう………………っ!!」


 しばらくの間、二人はそうして抱き合うようにしてその場に立ち尽くしていた。



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