胡蝶の夢物語⑥

『胡蝶の夢』という言葉がある。

これは中国の思想家、今で言う哲学者が考えた話であり、このような話であった。


『私は夢の中で、蝶になっていた。楽しく心ゆくままにひらひらと舞っていたし、それが私であることは全く念頭になかった。しかし、目が覚めると、私は私であった。私が夢で蝶になっていたのか、蝶が今夢を見ていて私になっているのか、いずれが本当なのか私には分からない。私なのか蝶なのか、形としては違いがあるだろうが、主体としての自分に変わりはない』


わしが今までに考えてきた、この戦場のことや戦略のこと。

それはあくまで儂の考えであり、夢物語にすぎないものだ。

しかし、この世界では、そのようなことが現実に起きているのかもしれない。


ここは想像が現実になる世界。

あり得ない話ではないだろう。


そんな『胡蝶の夢物語』。

儂の思考が現実に起こっていたとしても、起こっていなかったとしても、儂のやることに変わりはなかった。


「人生とは、一生考え続けるもの」


儂はこれからも、この『人生のロスタイム』の間、常に考え続けることだろう。

しかし、この戦場のことを考えつづけていると、他のことを考える時間がなくなってしまう。


何故なぜ神の使いは、このような戦いを始めたのか」


それを考えて、終わりにしてしまおう。


功利こうりの怪物』という思考実験がある。


もし、人の千倍の幸福を味わえる、功利の怪物がいたとするならば、儂等わしらは、その怪物に全てを捧げるべきなのだろうか?

という思考実験。


規則の最後にこんな一文がある。


「世界大会に優勝すると現実世界で全知全能の力を手にする」


神の使いが始めたこの戦いの目的は、儂等参加者をささげて、ありとあらゆる幸福を享受きょうじゅすることのできる『功利の怪物』を作ることが目的なのだろうか?


そもそも、『功利の怪物』という思考実験自体、そのような功利主義に対する反論であった。


功利主義の理念は最大多数の最大幸福。

最も多くの人間によって、平均的に最も高く幸福であるべきであるという理念。

しかし、もし一人で、平均が最も高い状態の幸福を実現できるのならば、大多数はその人物にくさなければならない。


もしかしたら、神の使い自体が『功利の怪物』なのかもしれない。

この戦場自体が見世物であり、神の使いは、この戦場を観ることによって、莫大ばくだいな幸福を手にすることができる。


功利主義者は、こんな戦いをどのように見ているのだろうか。

たった一人の為に参加者達を捧げる戦い。

儂はまだ答えを出すことができない。


この戦場について考え終わったが、まだ『人生のロスタイム』は終わらなかった。

儂は、それからもいつまでも考え続けていった。

今度は、この戦場とは関係ない、考えても考えて尽くせない思考達を。


「人生とは、一生考え続けるもの」


人間の思考に終わりなんてものはない。

思考より先に、人生が先に終わるのが人間なのだから。

例えこの世界で何十年何百年時が経ったとしても、儂の思考は終わらない。

そして、この戦場の終わりも突然やってきた。


『参加者が二人死亡しました。おめでとうございます、優勝者が確定しました』

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