第8話 一悶着

 水主の館を出た後でリフィーと別れ、アルチェは町で焼きチーズを食べてから、レグピオン山へ向かっていた。


 天気はよく、歩くにはもってこいの日和ひよりだ。草木の青々とした香りが鼻をくすぐり、茂った緑が目に優しい。可憐な野花が風に揺れては、いまだ騒ついているアルチェの気持ちをなだめてくれるようだった。


 町の人に聞いた通りに、ふもとから山道に入って割とすぐのあたりで、丸太造りのどっしりとした小屋が見えてくる。


 見回りに出ている可能性もあったが、運よく小屋の側で作業をしている人がいた。恐らく彼が山守りなのだろう。


「あの、すみません。あなたが山守りさんでしょうか」


「……ああ、そうだが」


 振り返った淡い茶色の髪をした男は、思いのほか若かった。アルチェよりも何歳か年上というくらいだろう。どこか朴訥ぼくとつとした雰囲気をしている。


「私はアルチェ・ヴィンスカーと申します。隣のリヴァルト王国から遊学に来ていまして、今はエブローティノのお屋敷でお世話になっている者です。実はお願いがありまして」


「エブローティノの……俺は山守りのヴァスティン・ユーレスです。お願いとは?」


「ジャルト鉱が生えているという、洞窟に入りたいんです。それでもし、防毒用の装備をお持ちでしたら貸していただけないかと……」


 アルチェの言葉にヴァスティンは眉根を寄せ、そして首を振る。


「今日は絶対に駄目です。洞窟に近づくことはもちろん、これ以上山に入ることさえお勧めしません」


 そう言い切られた。


「……なぜです?」


「今日は新月、入らずの日です。うかつに洞窟に入れば死にますよ」


 いきなり物騒なことである。怪訝けげんな顔になったアルチェに、彼は説明してくれた。


「新月の夜は特に、ジャルト鉱が急成長します。それに伴って一帯には毒煙が広がり、あの辺りは常とは比べものにならないほど危険になるそうです」


「えぇ?そうなんですか?……初めて聞きました……」


「身に危険が及ぶので、この日は山守りでさえ山に入らないことになっているんです。先代の山守りから、たとえ昼日中であってもくれぐれも人を山に入れないようにと言いつかっています。……一応、止むを得ない場合に洞窟内に入るための装備はありますが、さすがに新月の日の濃度には耐えられないそうです。だから、今日は駄目です」


「そうですか……では、明日なら?領主様から、興味がある場所は全て見て回っていいと許可は得ています」


 そう食い下がったアルチェを、ヴァスティンは不思議そうに見つめた。


「……そんなに見たいものですか?宝石ではなく、毒の結晶ですよ?」


「ええ、見たいです。見て、どうしても調べなくてはならないことがあります」


 アルチェがきっぱり言い切ると、彼はややあってから頷いた。


「明日であれば。ただし、俺の同行は必須です。中では必ず指示に従ってください」


「わかりました。どうぞよろしくお願いします、ヴァスティンさん。では、また明日」



 * * * * *



 山守りとの約束を取り付け、日暮れ前にエブローティノの館に戻ってきたら、何やら中が騒がしくなっていた。


 嫌な予感がしたアルチェは思わず小走りで、使用人たちが遠巻きにしている部屋に踏み込む。


 真っ先に目に入ったのは、床を転がってきた大ぶりのナイフだ。グラムスがひどく慌てた様子でそれを拾い、そして部屋の中央では、見たことのない女がリフィーに組み敷かれていた。


「グラムス!それを返しなさい!」


 女が金切り声を上げる。


「いけません!一体どうなさったというのですか、奥様!」


 ——————ああ、この人がニレナ様なのか……


 恐らく、もとはかなり美しい人だったのだろうと思う。しかし今はひどくやつれた様子をしている先代の妻は、どうやらナイフを手にリフィーに切りかかったらしかった。


 なにしろ武勇の誉れ高い女騎士だ。リフィーはもちろん彼女のことを簡単に取り押さえたようだが、その表情はかなり困惑している。


「だってこんなに次々に災いが降りかかるなんておかしいじゃない!女神の祟りだなんて、そんな不確かなことがあるはずはないし……あなたが誰かにディフィーを襲わせたんでしょう!」


「いや、なぜ私がそんなことをする必要が……」


 娘と夫を立て続けに亡くしたせいか、己や息子にまとわりつく病のせいか、ひどく情緒不安定になっているらしい彼女は、泣きそうな顔をして叫んだ。


「だってあなたはきっとあの人を恨んでいるでしょう!?本当であれば次の領主は自分だったのに、追い出されてしまったから!でもあの人はなにも、私利私欲のために爵位に就いたわけじゃないわ……!」


 しんとした空間に、ニレナの声だけが響いている。


「エブローティノの人間として、ただただこの地に住まう人々の幸せを考えただけよ!それだけなのよ!」


 一体どうしたものか、という顔をしているリフィーにひとつ頷いて、アルチェは二人に近づいた。


「お初にお目にかかります、先代エブローティノ子爵夫人様」


 一旦組み敷かれる形から解放された彼女に——————だたし念のためリフィーが腕を掴んだままだが——————リヴァルト貴族の正式な拝礼をして視線を引いた。正確にはアルチェ自身は貴族ではないのだが、今はとにかくニレナが頭をいっぱいにしていることから気を逸らして、落ち着いてもらうことが肝要だ。細かなことはひとまず脇に置いておいていいだろう。


「……どなた?」


 見知らぬ第三者、しかも階級持ちらしい人間の出現で、頭にのぼっていた血が少し下がったらしい。アルチェは少しでも冷静さが伝染するように、殊更ことさら静かにゆっくりはっきりと言葉を紡いだ。


「わたくしはアルチェ・ヴィンスカーと申します。リヴァルト王国より遊学のために貴国に参りました。現領主様のご厚意で、今はこちらのお屋敷に滞在させていただいております。ご病気とのことで、ご挨拶を控えさせていただいておりました」


「あら……そうだったのね。どうかしら、この地は。何かお役に立てそうなことが、少しでもあればいいですけれど」


 錯乱状態から一転、子爵夫人らしい物言いをし始めたニレナに、アルチェはにっこりと笑いかける。


「それはもう!本日は水主様から、素晴らしい浄水の設備についてご教授いただきまして……手段の少ない古い時代に、よくぞあのようなものを作り出したものだと感心しきりでございました。そして何より驚いたのが、ここ十年ほどのこの地の成長の素晴らしさです。人々は、先代様のおかげでこうして豊かに暮らせるのだと喜んでいました。わたくしもかくありたいものだと」


「わかってくださる?あの人はいつも領民のことに心を砕いていたの」


 ニレナはにこりと微笑んだ。


 先ほどまでの鬼気迫る形相はすっかりなりを潜め、落ち着きを取り戻してきたようだ。ひとしきり先代の偉業を褒め讃えた上で、アルチェは話を元に戻す。


「それでですね、ご家庭のことに、このような門外漢が口を出すのもいかがなものかとも思ったのですが……先ほど仰っていたことで、ひとつ気になることがございまして……というのも、リフィー様は家を出られた後に、帝国騎士団にて素晴らしい武勲をたてられまして、上等騎士として叙勲を受けていらっしゃるのです。ですから、領主の座に未練は欠片もございませんでした。放棄していた継承権が戻ったことは、彼女にとっても青天の霹靂へきれきだったんです。そんな方が、あなた様の夫やお子様方に危害を加えようとするとは、到底思えなかったものですから」


「……あの帝国騎士団の中で、上等騎士にまで……?」


 驚いたような顔をしてニレナがリフィーを見る。


「まぁ、運が良かったんですよ。配属された先の隊長が有能な方だったので」


「そうだとしても、なかなかできることではないわ」


 ニレナが素直に褒め、二人の間にある空気がやわらいだところで、アルチェはすかさず言った。


「ところでニレナ様、先ほどから気になっていたのですが、少しお顔の色が優れませんね。もしや体調がよろしくないのではありませんか?」


「ええまぁ……でもこのところ、体調が良い日なんてまずありませんしね」


 と彼女は苦笑する。


「これ以上無理をして、お身体に障るといけません。一度お部屋にお戻りになって、少しお休みになってください。グラムスさん、ニレナ様のお部屋はどちらに?」


 アルチェはそう言って、すっかり大人しくなった彼女をグラムスと共に速やかに部屋まで送り届ける。彼から指示を受けたのか、すぐにメイドが沈静効果のある香草茶を運んできた。


 一通りの世話をして、ニレナが横になるのを見届けてから、アルチェは部屋を出る。


 遅れて出てきたグラムスと、しばし無言で廊下を歩いた。彼は少し迷うような素振りをした後、そっと切り出してくる。


「アルチェ様、先ほど奥様が仰られたことは……本当なのでしょうか。先代様が、リフィー様を追い出したというのは」


 やはり知らなかったらしい。


「……私も、その辺りの事情を詳しく知っているわけではありません……ただ少なくとも、直系継承であるはずのこの家で……遠方の伯爵家との婚姻か、教導会で生涯を祈りに捧げるかの二択を、当時後見人であった先代様に迫られて……リフィー様が騎士として生きていく道を選んだというのは、間違いないようです」


「……あの方が、そのようなことを……」


 衝撃を受けたような顔をしているところからすると、やはりディフィゾイという男はかなり信用がある人間だったのだろう。少なくとも妻や使用人たちからは信頼を得ていたようであるし、町で話を聞いた限りでも彼の評判は悪くなかった。


「先代様は、リフィー様のことを悪く仰ったりはしていなかったんですね?」


「そのようなことはひと言だって……むしろわたくしは先代様に、もし自分に万が一何かがあってリフィー様がお戻りになることがあれば、その時はあの方のことをくれぐれもよろしく頼むと言いつかっていたくらいです。少し根を詰めやすいところがあるから、気をつけてやってほしいと……まさかお二人の間でそのようなことがあったなど、まったく思いもよらず……」


 グラムスは幾度も首を振りつつ、そう呟く。


「ではグラムスさんは初めから、ニレナ様やテルゾイ様だけでなく……リフィー様も守り支えるものだと思って下さっていたんですね。……彼らの間に遺恨があったとしても、それは変わりませんか?あの人を守るために、手を貸してくださいますか?」


「当たり前です。リフィー様にしてみれば、わたくしは自分に不条理を課した叔父の手先に見えるかもしれませんが……それでもわたくしの意思に、変わりはありません」


 彼のその真っ直ぐな視線と言葉に、嘘はなさそうだった。


「では、ふたつお願いがあります。ひとつは、エブローティノの方々のために、心苦しいかもしれませんがをお願いしたいんです。そしてもうひとつ、瓶をありったけ貸してください。数がなければ、瓶の形をしていなくても、水を入れられればそれで構わないので」


 アルチェはグラムスにそう頼むと、身を寄せ合ってその詳細を説明し始めたのだった。

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