第7話 水主の館

 朝、アルチェが寝ぼけまなこをこすりながら食堂に入ると、執事のグラムスに声をかけられた。


「リフィー様は急ぎの案件を先に片付けてしまいたいとのことでしたので、朝食は先にお召し上がりください」


「え……この時間からもう仕事をしてるんですか……?」


 かなり遅くまで調べごとをしていたせいで、食堂の大窓から燦々さんさんと差し込んでくる朝日が目に痛い。どこか薄ぼんやりした意識をなんとかふるい立たせながら、アルチェは彼に聞いた。


「はい。なにしろ着任したてで、先代様が亡くなった後しばらく処理が行われていなかったものが溜まっておりますので……色々と急ぎのものが多いのだと思います」


 グラムスが少しばかり困ったように微笑む。


 ——————しかも最初の数日は、私と過ごしていた時間も多かったしなぁ……とうとう不可避の期限がきたか……


「領主様も大変ですね……居候の分際で先に食事をいただくなんて申し訳ないですが、失礼してお先にいただきます」


 礼儀や義理立ても時に必要だろうが、しかし腹が減っては戦もできない。今日はアルチェも色々と動く予定があるのだ。午前中はリフィーと共に水主の館で浄水施設のことを教えてもらい、それが終わり次第レグピオン山の山守りに会いにいくつもりだった。


 昨日遺跡で助けてくれた男に気がかりなことを言われてはいたが、それでもこの事態をまず見抜かなければ、破城槌はじょうついになることさえできないだろう。


 今日の朝食は旬の野菜が沢山入ったスープに、湯気を立てる焼きたてパン。ルコ豚をカリカリにあぶったものと、カムスベリー入りのヨーグルトだった。


 エブローティノでは基本的に、食べきれない大量の料理を食卓に出すことも、贅沢な食材を多用することもない。たとえ領主といえども、この地で採れたものを華美に飾りたてることなく、粛々といただくという印象だ。


 食通の貴族であれば粗食だと口を尖らせるかもしれないが、アルチェはこのほっとする素朴な味わいの料理たちがとても好きだった。食事情はそれぞれの貴族の家の方針によって大きく異なるため、その家の一面が垣間見えて面白いと個人的に思っている。


「あの、グラムスさん。ひとつ気になってたんですけど……いつもリフィー様が水を飲んでいる、その小さなさかずきなんですが」


 アルチェはテーブルのリフィー側に置かれた、赤いつた飾りがついた銀杯を示して口を開いた。


 かなり質実剛健寄りの貴族であるらしいエブローティノの館では、調度品に重厚さはあれど、あまりきらきらしいものを見かけることがない。ただしこの杯だけは例外で、散りばめられた宝石を輝かせて、テーブルの上で妙に目立っていた。


「食事の時に必ず出てきているので、何かいわれがあるものなのかな、と思っていたんですが」


「ああ、そちらは祝福の杯と呼ばれていまして……実はその始まりについては諸説あるようなんです」


 グラムスはそう微笑んで続ける。


「初代当主様方が浄化設備を作り上げ、この水は大丈夫だということを示すために、自らお飲みになった時の杯を模しているですとか……逆に、この地に安心して住めるようになった人々から、感謝のしるしとして贈られた杯に起源があるとも言われておりまして……どちらにせよ、初心を忘れないようにという家訓を表していて、お食事の際はどなた様もご自分の祝福の杯で水を飲まれることになっております」


 ということは、エブローティノの人間はそれぞれが最低限ひとつは、このような杯を所持しているということであるらしい。


「興味深い慣習ですねぇ。ちなみにそれは、外から縁戚関係に入った方もなんですか?」


「ええ。家に入られる際に、もともとエブローティノに属していた方が、お相手に贈る習わしだそうですよ」


 そうグラムスは頷いた。


「なるほど。……ところで、リフィー様は二種類持ってらっしゃるんですね?その赤いのと、薄紫のものと」


「そうですね。これは先代の執事から聞いた話になるのですが……赤いものはリフィー様のお父様から、薄紫の方は叔父にあたる先代様から贈られたものだそうです。リフィー様がお生まれになった時に、どちらの色がいいかで揉めに揉めて、折り合いがつかなかったそうで……それで交互にお出しすることになったそうですよ」


「なんとも微笑ましい話ですね」


 この執事が、先代がリフィーを追い出したことを知っているかどうかがわからなかったので、そのひと言だけに留めておく。


「あの、気をつけるので、少し手元で見せていただいてもいいですか?」


「ええ。本来でしたら執事以外は触れないことになっているものですが、アルチェ様のご興味には、可能な限り応じるように言いつけられておりますので」


 そう笑いながら、彼は杯を取るとアルチェに差し出してくれる。気をつけて受け取ったそれを、アルチェは念入りに見つめた。重さを確かめ、じっくりとめつすがめつしてから、礼を言って杯を返す。


「普通の銀杯とは少し違うんですね」


「さすがはご慧眼でございます。こちらはイルス銀と呼ばれる素材を使っているそうです。ですので、他の銀器を磨くものとはまた別のものを使って磨く必要がございます」


 と、話し出したところに仕事を片付けたリフィーがやってきて、グラムスの解説はいったんお預けとなった。



 * * * * *



 朝食を終えたアルチェとリフィーは、水主の館を訪れていた。


 浄水設備のことが知りたい、というアルチェの要望に、仕事熱心なのか、あるいはリフィーにいいところを見せたかったのか、ルギオンが休日に二人を招いて教えてくれることになったのだ。水主はこの地において非常に重要な役割をになうため、エブローティノの館の近くに小ぶりな屋敷を与えられ、一族の人間は代々そこに住むことを許されているらしい。


「この辺りは、浄水管理局の区分で北一区になるんですね」


 今三人は、方々に張り巡らされた水路や濾過器の所在地を示す、非常に大きな地図を前に話をしていた。


「そうそう。エブローテの一番端にあたる北一区は、この水主の館とエブローティノの館だけでね。そこから下って北二区、三区、東西区、南区と続くんだ……この辺りはおおむね町で、その周辺は農地になっていることが多いから、水路はその辺りまでしっかり伸びている。あと町のこの辺りは拡張が行われているから、今試験運用をしてる真っ最中だよ」


 ルギオンは地図を指し示しながらそう教えてくれる。


「へぇ……中央部に一度集めて再分配する形かと思ったら、それだけじゃなくて各所にもそれぞれに濾過器があるんですね」


 アルチェが呟くと、彼は眼鏡を押し上げながら真剣な顔で頷いた。


「なにしろここは死の鉱脈筋に近いからね。万が一の間違いがあってはいけないから、その辺りは代々ものすごく慎重にやっているんだ。その分どうしても経費が余計にかかってしまうけれど、それでもジャルト鉱の中毒には代えられないしね」


「……ジャルト鉱って、人が摂取するとどうなるんです?」


「ごくわずかだけなら、多少の気分の高揚とか、そういう感じみたいだけど」


 僕も実際に目にしたわけじゃないから、父から聞いた話なんだけどね、と言いながら、ルギオンは続ける。


「量が多かったり常用となると、幻覚が見えたり、錯乱したりするようになるらしい。行き着く先は精神に異常をきたして廃人になるか、身体が耐えられなくなって死亡するかの二択だって」


「うわぁ……嫌な二択ですね」


「大昔の大帝国フィスカが滅亡したのも、このジャルト鉱を元に作った麻薬が原因なんて言われてるくらいだし……なんにせよ、間違っても領内の人をそんな危険にさらすわけにはいかないから、常により良い新型の設計をこうして考えているんだ。まぁこれはまだあくまでも、僕のイメージ案に過ぎないけどね」


 言いながら、彼は濾過器らしい構造物が描かれている紙を二人に見せた。


「今のものは構造上あまり融通が利かないんだけど、こういう風に色々組み込めるようにして……例えばだけど、そこで育てている作物に適した水にそれぞれ調整するとかできたらいいな、とか」


「なるほど、毒性の除去だけでなく付加価値もつけられるようにということですか。もし成功すれば、エブローテの発展に一役も二役も買いそうですね」


「そんなことを考えていたのか……昔から思いもよらないことを考え出すと思っていたが、やっぱりルギオンはすごいな!」


 リフィーが心底感心したように褒めると、ルギオンは嬉しそうに笑う。


「君が治めるエブローテを、少しでも豊かにする手伝いがしたいだけだよ」


 それから小一時間ほど、彼の熱の入った講義は続いた。


 一旦小休止になり、アルチェが手洗いを借りてから部屋の前まで戻ってくると、何やら講義の時よりも熱のこもった声が聞こえてくる。


 耳を澄ましてみれば、これは決して水主としての義務ゆえではない、リフィーのことをずっと支えることこそが自分の望み、というようなことをルギオンが切々と語っていた。


 ——————あ、今部屋に入ったら、確実にお邪魔虫になるな……


 アルチェはそろりと引き返そうとしたが、間の悪いことに足元の床がギシィ、と大きくきしんだ。


 顔を真っ赤にしたリフィーがばっとこちらを見る。


「あ、すみませんどうぞ続けてください。私は壁です、壁。お気になさらず。ルギオンさん、ちょっとその辺りを見学させていただきますね」


 アルチェは急ぎ部屋から遠ざかり、館の中を見学することにした。家主の返答を聞いていないが、彼にしてみれば今邪魔されないことの方がよほど大切だろう。


 ——————とは言っても、人様の家の部屋を勝手に見て回るのもなぁ……


 そんなことを思いながら歩いていると、前方に扉が半開きになっている部屋があった。中をそっと覗いてみれば、どうやら倉庫のようだ。もしかしたらあの大きな地図やなんかを、ここから出してきて閉め忘れたのかもしれない。


 その部屋は普通の部屋とは少し違っていて、扉を開けてすぐのところに階段があり、棚やら木箱やら荷物が並んでいる辺りはかなり低くなっている。そして床は石造りだった。


 ——————ここって……もとは貯水槽かなにかかも……


 うろうろ中を見て回るうちに、壁際でよく水回りに彫られている水の女神の紋章を見つけてアルチェはそう確信する。エブローティノの館と同様にかなり年季の入っている建物であるし、恐らく古い時代につくったものを倉庫に転用したのだろう。


「……」


 暇を持て余しているため、棚を順々に見ていく。並んでいるのは、工具類や縄などといったなんの変哲もない日用品だ。


 かごに油缶、使いかけの塗料の瓶がいくつか、横に小ぶりの板材が何枚か積まれ、その隣に何やら古めかしい鍵束があった。すっかりさびに覆われて、もはや使えるのか、そもそも使う先のじょうが残っているのかも疑わしく感じるような、古い型の鍵だ。


 なんの気なしに持ち上げてみると、ずしりとした重みと共に手に赤錆が移る。


 アルチェの目に留まったのは、そのうちの短い一本だ。


 ——————これって……


 鍵に彫り込まれた見覚えのあるその紋様に、背にじわりと嫌な汗が滲む。ややあって、そっと鍵束を棚に戻したアルチェは、唇を引き結んで倉庫を後にしたのだった。

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