第9話 レグピオン山と山守り
日の出と共に起き出したアルチェは、今日は朝も早くから館を出て駆け回っていた。
というのも、隣国からこの辺りの農業を学びにきた学生ということにして、農作業している人に片端から声をかけては、育てている作物のことやどこから水を取っているのかなどを教えてもらっていたからだ。
「導入試験中の作物の畑かい?それならあの辺りだよ」
「ありがとうございます。ちょっと行ってみます!」
エブローティノの館に滞在しているということが信用に繋がり、人々は協力的に情報を提供してくれた。アルチェは調査と称して荷車に瓶を大量に積み込み、時折彼らの作業を手伝ったり、収穫したての野菜をご馳走になって歓談したりしつつ、着々と各所の水を採取していった。
目星をつけていた場所を一通りまわり終えて館に戻ってきたアルチェは、大量の瓶をせっせと部屋に運び込む。客間は採取場所を貼り付けられた瓶で溢れ、足の踏み場さえなくなりそうな有様だった。事情を知らない人間が見れば、まるで気が触れた人の部屋に見えるかもしれない。
アルチェは真剣な
朝食のために途中で一度中断したが、アルチェはリフィーが驚くほどの勢いで食事を掻き込むと、すぐに部屋に戻って作業を再開する。
「……ああ、もう行かないと」
延々と作業を繰り返す中で、ふと時計に目をやったアルチェは、慌てて立ち上がって部屋から出た。
館を出てしばらく行ったところで、リフィーとルギオンが並んで何かを話しているのを見かける。遠目でもリフィーはどこか沈んだ様子をしていて、どうやらルギオンがそれを慰めているようだった。
先代がグラムスたち使用人に、リフィーについてどう言付けていたのかを彼女はまだ知らない。味方がいるのか確信がもてないこの環境下で、仮にも身内にあのようにナイフを向けられれば、弱音のひとつやふたつ吐きたくもなるだろう。
「……」
アルチェは二人の姿をしばし黙って見つめてから、声をかけることなくレグピオン山に向かった。
* * * * *
「本当に気をつけてくださいよ」
「大丈夫です。触ってませんから。しかしゴーグルが邪魔で見にくいですね……」
「駄目ですよ!外すのは!失明でもしたらどうするんです!」
慌てて止めたヴァスティンの声が、洞窟の中で大きく反響する。
初めから、少し変わった少女だなとは思っていた。黒髪に一筋だけ橙色が混じっているというのもそうだが、それ以上に洞窟を熱心に見たがる人など初めてだったからだ。
しかも彼女は、中に入るなり黒紫色のジャルト鉱石を虫眼鏡で拡大したり、洞窟の床やら壁やらに張りついてぎりぎりまで接近して観察をし始めた。しかもどこか楽しそうに、である。
大きなカンテラを持って周囲を照らす役を請け負っていたヴァスティンは、驚きを通り越してすっかり呆れてしまった。ここまでするか、と。
「どうせ見て回るのなら、町の菓子屋とか服屋とかの方が嬉しいんじゃないんですか。女の子というのは」
先ほどから何やら熱心に手帳に書きつけているアルチェに、思わずヴァスティンはぼそりと言う。偏見なのかもしれないが、少なくとも自分が知る同じ年頃の少女は、毒の結晶よりもそういうものを好んでいた。
「それはその子の趣味嗜好によりますよ。私も別にお菓子や素敵な服が嫌いなわけではないですが……こちらの方が圧倒的に興味深いです。よし、先へ行きましょう」
彼女はあっけらかんとそう返すと、さらに奥へと歩みを進めていく。
平坦とは言いかねる足元に気を配りながら、二人はしばらくの間、無言で歩き続けた。
「ヴァスティンさん、これまで洞窟の一番奥に行ったことってあります?」
ふいにアルチェが口を開く。
「いいえ。子どもの時に先代に連れられて、入口の辺りに一度入ったきりです。内部がどれだけ危険かを説明されて、山守り見習いと言えども決して入らないようにと釘を刺されました」
「……なるほど」
彼女は頷くと、周りの壁や天井の結晶を指差してみせた。
「わかります?鉱石の色が、かなり薄くなってきているんですよ」
「……言われてみれば」
明瞭とは言いかねるカンテラの明かりではあったが、よく見れば確かに入口あたりのどぎつい黒紫色より色がだいぶ柔らかい。
「でもなぜ……もしかしてこの辺りのものは、別の鉱物なんですか?」
「いえ、これもジャルト鉱です。ただ、見たかぎり奥の方ほど白化が進んでいるようですね」
彼女は首を振って言う。
「白化?」
「まぁ風化というか……無毒化が進んでいるということです。成長状態になく非活性化していて、内部の毒素を放出している過程にあるものですね……ああ、ここが一番奥ですか」
最奥部のジャルト鉱は、まるで塩のように真っ白になっていた。構造も
「ここまでくると、さすがにもう毒はないはずです。いくつか持って戻ります」
「それでも素手はやめてくださいね」
彼女の行動に危なっかしさを感じていたヴァスティンが思わず念押しすると、アルチェは笑いながら頷く。
「わかっていますよ。ちゃんと手袋で
白い結晶を拾った後、奥の壁面の前にかがみ込んで何かを見ているアルチェの背に、ヴァスティンは思わず聞いた。
「これって……どういうことなんでしょう。鉱脈が枯れてきているということなんでしょうか?……でも、入り口の辺りは、別に白化してませんでしたよね……」
「……少なくとも今この洞窟は、ジャルト鉱が成長できる環境ではないということです。……とりあえず、戻りましょうか」
アルチェは向こうを向いたままそう答えると、ヴァスティンを促して元来た道を引き返し始めた。
* * * * *
さすがに緊張状態が長く続いて疲れたため、小屋に戻ってきたヴァスティンはアルチェを誘ってお茶でひと息つくことにした。
町のことや、この山にある泉のことなどの他愛ない話をした後、彼女がふいに言う。
「先代の山守りさん、ノゥスさんでしたっけ……いい方でしたか?」
「……そうですね。
ヴァスティンが茶のおかわりを
「概ね、以外の部分はどうでした?」
そう追求された。見れば、橙色の双眸が強い光を宿してこちらを見つめている。
「不快に思われたら申し訳ありません。踏み込みすぎていることは承知しています。ただ、もしかしてノゥスさんは、時折錯乱されたりはしませんでしたか?それから亡くなる時に、呼吸の方に問題が出たのでは?」
ヴァスティンは思わず目を見開いてアルチェを見た。
「そう、そうなんです。どうしてわかったんです?普段は静かで穏やかな人だったんですが……時々発作的に、おかしなことを口走ったり、人が変わったように荒々しくなることがあって……そういう時は無理やり止めようとしても無駄で、こちらも怪我をしかねなかったんで……ただ治まるまで待つしかなかったんです」
口数こそ多くはなかったが、日頃は優しい人だっただけに、その落差がひどく恐ろしかったことを今でも覚えている。
「それは、入らずの日が過ぎた後などに多かったのではありません?」
「え……?……ああ……言われてみれば、昔はそうだったかもしれない……実はその、最後の方は割と頻繁におかしくなっていたので……」
アルチェはしばらく黙った後、言いづらそうに告げた。
「発作的に錯乱症状が出ていたのも、亡くなったのも、恐らくジャルト中毒が原因だと思います。急性にしろ慢性にしろ、呼吸器の不全が高確率で起こりやすいそうなので……ノゥスさんは恐らく、ジャルト鉱石と接触しすぎたのだと」
なんとも言い難い沈黙が、二人の間に満ちた。
「それって……そういうことですよね……いくら防毒装備を身につけていても、新月のたびに定期的に接していれば……何かの拍子に毒を吸収してしまってもおかしくはないと……。……実は、誰にも言っていなかったんですけど、防毒用品の一式を置いているところに……使用用途を全く教えられていない道具がいくつかあって……これは何に使うものだったのだろうと、不思議には思っていたんです。……でも、どうしてそんなことを」
「ノゥスさんを初め、山守りの方々が代々自発的にしていた、というのはまず考えられません。あれは間違っても、一般の人間に用意できるような代物ではありませんから。それを与えて指示した存在が必ずあるはずです。実は私は今、その背後にあるものを探っているところなんです」
声を潜めて彼女は続ける。
「ノゥスさんは、初めからあなたにはそれを継がせないと決断していらっしゃったんでしょう。英断だと思います。今日はこれで失礼しますが、事態がはっきりしたらまたお知らせに来ます。それまでは危険が及ぶのを避けるために、このことは絶対に他言無用でお願いします」
アルチェはヴァスティンにそう約束させると、町へと帰っていった。
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