第5話 市場と女神の伝承

 晴れ渡った青空の下、市場は人々の明るい声で賑わっている。


 辺り一帯には簡易の屋台や露店がずらりと立ち並び、この辺りでとれた作物や野菜、山盛りのベリーや食べ歩きできるよう切り分けた果物、生搾りジュース、肉や川魚の燻製なども売っていた。


「結構色んなものがあるんだねぇ」


 アルチェが楽しそうにきょろきょろ見回しながら呟く。


 パンに焼き菓子、チーズなどの乳製品、瓶詰めや香辛料もあるようだ。美味しそうな匂いが漂ってきているところからして、何か軽食が食べられる店もあるらしい。


 リフィーの記憶にあった市場より、随分と規模が大きくなっていた。道をひっきりなしに人々が行き交っては楽しげに買い物をし、辺りは騒めきと活気に満ち溢れている。


「お嬢さん方、新作パンだよ。よかったら味見していって」


 夫婦でパンを、あきなっている屋台から声がかかった。


「わぁ、ふわふわだ」


 基本的にパンに目がないらしいアルチェは、速やかに試食を受け取って口をもぐもぐさせている。すごく美味しいと満足げに呟きつつ、ややあって彼女は小首をかしげ、赤い三角巾をしたおかみさんに尋ねた。


「あのぅ、このパンに使ってる粉って、昔からこの辺りで作っているものですか?これってテテ麦ですよね?」


「うん?そうねぇ……昔、っていうほどじゃないわね。ここ六、七年くらいだったかしら……うちとかこの町の他のパン屋で、テテ麦の小麦粉を使い始めたのは。ねぇ、あんた」


 彼女は空中に視線を彷徨さまよわせてから、ちょうど別の客にまん丸の大きなパンを渡し終えた亭主をつつく。


「おう、そうだな。領主様が……あ、いやもう先代様になるのか……その方がな、爵位に就かれて割とすぐの頃に〝推奨作物〟のお触れを出されたんだ。テテ麦はその品目の中にあったひとつなんだが、育ててみりゃ黒麦よりも断然育ちが良いし、味もよかったもんだから、最近じゃすっかりこのテテ麦が主流になりつつあるんだよ。まぁ黒麦も相変わらず作ってはいるけどな」


「お嬢さん、ここの黒麦を使ったものが食べたいの?それならピンクルばあちゃんのタルトがおすすめね。あたしはこの町で買えるタルトの中で、ばあちゃんのが一番好き」


 おかみさんがそう言って指し示したのは、すぐ隣にあるにこにこした小柄な老婆の店だった。ごく小さな一口大のものから、皆で切り分けるような大きなものまで、様々な可愛らしいタルトが所狭しと並んでいる。


「ここならではのものって言ったら、やっぱり黒麦粉で作ったカムスベリーのタルトだねぇ」


 彼女はそう言いながら、橙や黄色の小さな実がたくさんのっているタルトを指差した。


 そういえばまだ屋敷にいた頃、時々お茶の時間にこれが出ていたな、とリフィーはひどく懐かしくなる。


「カムスベリー?初めて見ました」


 アルチェはまじまじとタルトを見つめて呟いた。


「あら、見たことない?お嬢ちゃんたち、どこから来たの?」


「こちらは帝都から戻ってきたところで、私は隣のリヴァルト王国からです。似たような感じで、赤とか薄紫のものは見たことがあるんですけど、こういう色のものは初めて見ました」


 リフィーは赤いものは帝都で見たことがあったが、薄紫のものは一度も見たことがなかった。いかな地続きの隣国とはいえ、植生はそれなりに違うらしい。


「あらまぁ、リヴァルトから!実はうちの孫娘の一人がねぇ、こないだそちらの国にお嫁に行ったの。『あたしは一生結婚しない』なんて力いっぱい言い切ってるような子だったんだけど、留学に来ていた自分とは真逆の学者さんに惚れちゃったんですって」


 うふふ、と笑いながら老婦人は続ける。


「この地域では昔から、お祝いって言ったらカムスベリーのタルトでね。結婚式の時はとっても大きなタルトを、腕によりをかけて作ったわ。カムスベリーはそこのレグピオン山で採れるから、お友達みんなにお願いしてたくさん集めてね。テテ麦もいいけど、このベリーは黒麦の方が味が引き立つ気がするから、うちは相変わらずこのタルトだけは黒麦粉よ」


 そんな自慢のタルトと隣の店のふわふわパンを買い求めた後、二人はまた雑踏の中を歩き始める。


「ねぇリフィー、さっきのおばあちゃんが言ってたレグピオン山って、もしかしてジャルト鉱の鉱脈があるって言ってた山?」


「ああ、そうだよ。山の中腹あたりに大きな洞窟があるんだが、入り口のあたりからジャルト鉱がわんさか生えてて危ないんだ。念のため、山には代々山守りもいる。地元の人間はわかっているから、洞窟内に立ち入るようなことはまずしないが……もしあの山に登るようなことがあっても、洞窟には入らないようにな」


「そっか……うん、危ないことはしないよ」


 妙な間をあけてからそう頷いたアルチェが、ふいに大きく息を吸い込んだ。


「なんかすごく良い匂いがする」


 真似して息を吸い込めば、確かに香ばしさとまろやかさが織り混ざったような香りがした。


「ああ、焼きチーズかな。この町からもう少し西の方に行くと牧草地帯があって、牧畜なんかも割と盛んでね。そちらで良い乳製品ができるんだ」


 果たしてしばらく進むと、網の上で串に刺したチーズをあぶっている店があった。何か香辛料が練り込まれているようで、非常に食欲をそそる香りが辺りに立ち込めている。


 隣を見れば、なんて美味しそう……という顔をしてアルチェが焼き目のついたチーズを見つめていた。


「せっかくだ、食べてみよう」


「え、でもさっきパンとタルトを買ってもらったばっかりだし……」


「遠慮しなくていい。土地の物を食べるのも、いい勉強になるからな。おやじさん、二つお願い」


「まいど!」


 嬉しそうな顔をして串を受け取ったアルチェが、早速チーズにかぶりつく。焼き色のついた濃い黄色のチーズはとろりと後を引き、香辛料の香りがふわっと広がった。


「すごい伸びる……そしてうまぁ……!リフィー、これめちゃくちゃ美味しいよ!」


 味が好みだったらしい彼女は、目を輝かせながらチーズを堪能している。


「だろぉ?これはな、香辛料の商人をやってる叔父貴に協力してもらって、このチーズと最高に相性がいい特製調味料を一緒に考えたんだ。二人で百回以上作り直して、やっと完成したんだぜ?」


 髭もじゃの店主が、得意げに笑ってそう言った。


「……本当だ、これは旨いな!味付けが絶妙だ……これまで食べたことのない味だが、どうにも癖になる」


 口から鼻に抜けていく香辛料の辛味を楽しみながら、リフィーも頷く。


「ああ、パラックははじめてかい?この調味料の主軸にしてるパラックっていう香辛料はさ、少し前からこの辺りで作られるようになった新しい品種なんだ」


「それも推奨作物とやらのひとつ?」


「そうらしいな。俺は三年前に移住してきて、その頃にはすでに流通にのり始めてたんだけど……いやぁ、領民の暮らしを豊かにすることをどんどん考えてくださる、いい領主様だったのになぁ……俺が前いたとこの領主様とは、えらい違いだったよ」


 彼は少ししんみりした様子で呟いて付け足した。


「新しい領主様も、そういうお方だとありがたいんだが……」


 ちら、と視線を寄越したアルチェと、思わず笑い合う。長くこの地を離れていたリフィーはあまり顔も知られていないし、今も領主というよりは女騎士寄りの格好をしているため、その新しい領主本人だとは思いもよらないのだろう。


「ただまぁ、先代様があんなことになっちまったからなぁ。次の領主様はもしかしたら、用心して大人しくなさるかもしれねぇな」


「そうそう、いらっしゃるのは縁もゆかりもない方じゃなくて、先々代のテルフィゾイ様のお子らしいし、この地のことはある程度わかってらっしゃるだろ」


 と、近隣の店の人や客が話に入ってくる。


「あの、用心して大人しくするってどういうことです?先代の領主様って、事故で亡くなられたんじゃないんですか?」


 アルチェが怪訝けげんな顔をして聞いた。リフィーは彼らが口にしていることの意味がわかっていたが、変に心配させたくなったため、そのあたりのことはアルチェには伏せていたのだ。


「ああ、ロティナリー女神がお怒りのせいで、先代様が亡くなってしまったんじゃないかって、一部の爺さん婆さん連中なんかが言ってるんだがね。まぁ色々と革新的なことをなさったからなぁ、ディフィゾイ様は」


 ロティナリーというのは、エブローテ近郊で古くから知られている神の一人だ。信仰、というほど大層なものではないかもしれないが、この地域の伝承に度々登場する土着の女神である。


「どうして女神様がそれで怒るんです?領地が栄えてそこに住む人が豊かになるなら、喜びそうなものじゃないですか」


「そうだなぁ、なんというか……人間にも色々な気質の奴がいるだろ?人の幸せを喜べる奴とか、喜べない奴とか、特別扱いされたい奴とか……変化を好むとか、好まないとかな。神だって色々なんだろうよ。それで、ここの女神様はちょいとばかし嫉妬しっと深いって話なんだな」


「嫉妬深い」


 なんとも言い難い顔で、アルチェが呟く。


「それが本当かどうかなんて、あたしたちも知らないよ?でも、作物が育ちにくいこの土地に、黒麦だとかそういったものをお伝えくださったのがそのロティナリー女神様で、そうじゃないものを作ったり、昔ながらの伝統を壊したりするようなことをすると……癇癪かんしゃくを起こされて、それが災いになる、なんて言い伝えもあってねぇ」


 隣の屋台で木彫りの置物を見ていた中年の女性が、そうアルチェに教えた。


「現に、新しいことをしようとした領主様やそのご家族が、急に事故に遭われたり、ご病気になられたり、亡くなられたりなんてことが、実際に何度もあったらしいんだわ」


 木彫り屋の店主が頷きながら補足する。


「あの山の物騒な洞窟も、大昔に女神を怒らせたせいであんなことになった、なんていわれもあるくらいだしなぁ」


「まぁそれは眉唾だろ。鉱脈なんてものは、元々の土地柄的なものだろうしよ」


「ありがたいことに、儂らの暮らし向きはずいぶんと良くなってきたけれど……ディフィゾイ様も娘御のオルーナ様もお亡くなりになってしまったし、奥様と御子息のテルゾイ様もご病気だしで……なんとも心配なことだよねぇ」


 うれうようなため息と共に呟かれたその言葉で世間話は終わり、再び市場の賑わいの中に人々は戻っていく。


 リフィーたちも歩き出したものの、アルチェは先ほどから何事かを考え込むように視線を石畳に落としていて、二人の間にはなんとも言い難い沈黙が立ち込めていた。


「……ねぇリフィー、先代領主様の死因って聞いても大丈夫?」


 ふいに顔を上げた彼女に問われ、リフィーは口を開く。


「水死だったらしい。山の中の泉に浮いているところを、見回りをしていた山守りに発見されたが、引き上げた時にはもう手遅れだったそうだ。執事のグラムスに聞いたんだが、どうも叔父はこのところ体調が良くなかったみたいだな。外傷なんかは特になかったらしいから、たまたま泉のそばにいた時に体調が急変して落ちたか、足を滑らせたかということではないかという話だった。周りを不安にさせないよう、体調不良を本人は隠していたようだがね」


「その山って……もしかしなくてもレグピオン山?」


 アルチェは言いながら眉根を寄せた。


「そうだ。そもそも女神ロティナリーは、レグピオンに住まっていると言われている。それでまぁ、その山の泉に落ちて亡くなったりしたものだから……体調が悪かったことを知らない人たちからすると、彼女の祟りじゃないかと疑いたくなるみたいでな。泉もそこまで深いものじゃない。普通なら溺れるような危険なものではないから……余計に〝女神の怒りに触れて泉に引きり込まれたのでは?〟なんて、一部の人に言われてるらしい」


「領主様がお供もつけずに、一人で山に入ってたの?」


 領主ならずとも、貴族であれば外出時には誰かしら供をつけることが一般的であるため、アルチェの疑問はもっともだった。もし誰か連れていれば、泉で溺死するような事態にもならなかったに違いない。


「ああ、普段護衛に連れている者は、その時は連れていかなかったみたいでな。その従僕は先代の遺体が館に運び込まれて初めて、出かけていたことを知ったらしい。そんなわけで、彼がなぜ体調不良をおしてまで山に行ったのかは、結局わからずじまいなんだ」


 リフィーはどこか釈然としない気持ちを抱えたまま、そうため息をついた。

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