ep.19 Ταξίδι της Πανδώρας


元始の災厄。


人類へ災厄を齎すための災厄。


災厄そのもの。


希望の流す血を浴び続け、狂気に陥ったもの。



「どうしよう!話できると思う!?」

「降りるか?」

「エルピスこわいよー!」

「いい、わたしだけ降りる」

「は?」


強く抱え直そうとした腕が空を切る。


彩花はパンドラへ真っ逆さま。


タナトスが掴むより早く、パンドラが手を伸ばす。


「彩花!!」


彩花はいやに粘度の高く温かい赤い液体に飲み込まれた。


エキドナを飲み込んだパンドラは、怪物たちを生み出していく。


神々は怪物たちを退治するのに精いっぱいだった。


それは希望を奪われてはいけないタナトスも同じで。









「彩花!!」



それはタナトスでもあり、エルピスでも、他の神々の叫びでもあった。

そしてタナトスではなく、エルピスでも、他の神々の叫びでもなかった。



パンドラそのものから発せられた悲痛な叫びだった。


真っ赤な液体の中の空洞で、彩花はパンドラに出会う。


「……わたしを殺す気はないのね」

「……ねえ、私にエルピスをちょうだい……くれるって言ったわ、あなた」

「あの時わたしを助けてくれたのは、パンドラだったのね」


病の災厄を抱きしめて、生死の境をさまよった時。

あの時も、この美しい人を見た。

まだやるべきことがある、と背中を押してくれたのだ。


「助けたわけじゃないわ……あなたが死ぬと困るってだけ……」

「……あなたがいるのに、どうしてわたしが生まれたのかな」

「……私は……生きてるわけじゃないもの……とっくに役目を終えて、パンドラとしてのを剥奪された……残ったのはいつかもらった不死性だけ」


パンドラは自嘲するように笑う。

よくわからず首を傾げていると、空洞の中に椅子が現れた。


「座りなさい」

「……ありがとう」


表で暴れているような凶暴さが、このパンドラからは全く見られなかった。

相席を許し、テーブルまで出してくれている。


「あのね、パンドラ……あなた、災厄になってしまったんだって」

「……そう」

「もしあなたが齎すとしたら、それはどんな恵みかしら」


パンドラは興味なさそうにため息を吐く。


「さあね、私は災厄としてしか生まれていないもの」

「わたしはそうは思わないわ」

「……どうして?」


真横を向いていたパンドラの体が、ほんの少しだけ彩花の方を向く。


「だって、過ぎた恵みが災厄になるんでしょう?」

「私は恵みになるようなものは何も持っていないわ……神々からすべてを与えられたけれど、それは誰かに与えるものじゃない、災厄に至るための贈り物」

「でも、仕組み的に恵みじゃないものが災厄にはなれないでしょう?」

「…………」


さらにもう少しだけ彩花の方に向き、語る。


「私は待っていただけ……私の一部が、彩花がすべてを引き連れてやってくるのを……私の愛したエルピスを連れて戻ってくるのを……ただ、やっぱりとしての自我はないに等しく、エルピスは元の形に戻らなかった」


あんなちいさなこどもみたいな姿で。


「彩花は、やさしいひとなのでしょうね……私と違って」

「やさしくない人はわたしに椅子なんて出してくれないと思うわ」

「……私の旅を語って聞かせてやりたいわ」

「聞かせてくれるの?」


今度は完全に彩花と向き合って、美しい顔を顰めた。


「簡易的に、ならね」

「あなたの旅の思い出はあなたのものだから」







私は、パンドラに限りなく近い場所で生まれた。

そして、なにもかもがパンドラに限りなく近かった。


ヘビと友達になり、箱を開け、エルピスと神話世界へ旅に出る。


はじめての災厄は、プロメテウスを飲み込んだ災厄だった。

私の悪辣さを正しく写し取って、災厄らしく。

森が燃え、家が燃え、人が燃え。


説得なんてものじゃなかった。

私も燃えたし、エルピスも燃えた。

七日七晩にもなった喧嘩の末に、なんとか恵みに戻した。


全身を覆う火傷に苦しみながら出会ったのが、デメテルの災厄。

彼女の従えていたニュンペーの手当てで、私は不死性を得た。

デメテルの巨樹は枯れかけ、大地は荒れ、人々は飢餓に苦しむ。

痩せ細りながらも死ねない私の説得で、彼女は恵みに戻った。


そうして次に出てきたのがヘパイストスの災厄。

誰もが不要に武器を携え、ただ理由もなく振るった。

私はふたりの恵みの協力の元災厄と決闘し、勝利を手にした。

その時、これからの旅のためにとヘパイストスから武器をもらったわ。


アプロディテの災厄は一番楽だったわ。

誰が美を得ようとも、それによって諍いが起きても。

だって、私には神々から贈られた美貌があったんですもの。

武器を使うまでもなく恵みに戻った。


ゼウスの災厄で、私は初めて武器を使った。

何度死んだかわからないけど、恵みには戻した。

自分の作ったもので自分が苦しめられてちゃ詮無いわよね。


ヘスティアの災厄は苛立った。

彼女の災厄が何を司るかって、怠惰よ、怠惰。

人々を奮い起こして竈に火をくべさせて、やっと恵みに戻ったの。


ヘルメスの災厄。

知ることを良しとし、あらゆるものを際限なく知ろうとした。

禁忌、秘密、秘匿……そんなものまで、なんでも、ね。

もちろん、あらゆる恵みを総動員して恵みに戻したけど。

私はここで、旅の終わりを予知した。

まさか、ありえない。そう思って、旅をつづけた。


マルスの災厄……思い出したくもないわね。

誰もが争い、戦い、殺し合い。

自分のやってることもそう変わらないんじゃないかと思ったり。

でも、私には大義名分があったから恵みに戻せたわ。


ハデスの災厄は、結局変わらない。

人はいつか死ぬものだし、死んでしまったものはかえらない。

まあ、人々の嘆きが鬱陶しくて恵みには戻したけど。


オルペウスの災厄は……ね。

人々は災厄によって、禁じられたあらゆることをしでかしたわ。

後片付けがとんでもなく大変だったけど、恵みに戻った本人にやらせた。


アポロンの災厄と来たら……。

陽が沈まずにいるから河も海も煮えたぎってて。

岩壁でできた屋根で今みたいに空を覆ったのよ。

恵みに戻した後も、しばらく水はお湯だったわ。最悪でしょ。


そう思っていると、今度はニュクスの災厄が来たの。

そうそう、今度は明けない夜が来たわけよ。

もちろん、その前にアポロンの災厄を恵みに戻していたからね。

しばらく涼んだ後に恵みに戻したけど、悔しがってた。


あれを災厄と呼んでいいのかわからないけど……カオスの災厄。

あらゆる有限を無限に変え、なにもかも尽きることがなくなった。

人々は喜んだわ。だって、食べるも飲むもなにもかもが無限なんだもの。

恵みに戻した後、いちばん罵られたわ。救ったはずの人々にね。

私は間違ってないと思う。悲しみや怒り、憎しみだって無限にされるんだもの。


モイラの災厄。またはアトロポスの災厄ね。

あらゆる不運をふりまいて、運命の糸を断ち切り放題。

本人ではないというのに、恵みに戻った後、解放されたアトロポスはクロートーとラケシスにとんでもなく怒られていたわ。


それから、レーテーの災厄。

人々はあらゆるものを忘却し、抜け殻のように生きていた。

ムネーモシュネーに協力を仰ぎ、死闘の末恵みに戻した。

ええ、これも後片付けが本当に大変だったわ。

私は役目を忘れたし、エルピスは私を忘れたし。


……そして、メラムプスの災厄とオネイロスの災厄が同時に来た。

人々は自分たちの未来すべてを予知し、絶望した。

レーテーがいなければ、もしくは順序が逆だったのなら。

人々はどうなっていたでしょうね。


私は再び旅の終わりを予知し、実感していた。

予知の内容はどちらも、私がエルピスを愛し、殺すものだった。

初めの予知では愛を否定した。そんなわけない、と。

だって、エルピスは皮肉屋だったし、私のことをいつもこんな顔(半目で呆れたようにむくれている)で見てきたし。

でも、旅を続けるうちに、私は確かにエルピスを愛してしまった。


だから、次の予知では殺すことを否定した。

こんなに愛しているのだから、予知の方が間違っていたんでしょう、と。

でも予知は変わらず。

旅は終わるしエルピスとはその後もう二度と逢えない。


そんなのって。

そんなのって、ないでしょう、だって。


ここまで頑張ってきたのに、得るものがなにもない。

旅の果てが別れだなんて、喪失だなんて、あんまりでしょう。


だから私は、エルピスを殺し、パンドラであることをやめた。

次のパンドラが生まれれば、エルピスが戻ってくると信じて。


だって、耐えられなかったの。

エルピスは別れを受け入れているし、私を諭そうとするのよ。


私の箱はただの入れ物になり、残りの災厄が世界に傷をつけた。


ああ。

旅の終わりが。

どうして。


私は次のパンドラが早く生まれてくることを祈った。


そして、やっと。

やっと、あなたが生まれたわ。


私はすぐに友達を傍に送った。

彩花の元に箱が現れるまで。

それを開けて、希望が顔を出すまで。


それはもう、私の知る希望ではなかったけれど。







パンドラの長い長い話が終わる。


「ねえ、あなたも同じ運命なの……さみしいでしょう?」


パンドラは真新しい涙を流し、拭うこともしない。

拭ってくれる人も、もうどこにもいないのだろう。


「わたしは……」


彩花は口を噤んだ。

こんな時になっても、誰かに共感しようとして。


そうじゃない。パンドラが求めているのは、共感じゃない。

彼女が誰かに残酷な真実を突きつけられたいと思っていても。

彩花は自分が言いたいことを言ってしまおうと思った。


「……眠った恵みは、どこへいくの?」

「さあ……概念的な箱の中で眠りに就くのか……どこかへ消えるのか……」

「あなたが恵みに戻れば、エルピスと同じところへいけるのに」

「………………え?」


パンドラが想定していたことではないのだろう。

でも結果として、望みの叶う場所に、彼女はいる。


「ただ眠るだけでもそうじゃなくても、共にはいられるわ……パンドラ……それは、あなたの望んだ形ではないのかもしれないけれど……」


パンドラは顔を覆ってしまう。

指の隙間から、ぼろぼろと大粒の涙を零して。

今だけでも、自分が涙を拭ってあげたいと思った。


「ねえ、彩花……私も聞いていいかしら?」

「わたしに答えられることなら」


顔を上げたパンドラの涙を、袖で拭う。

こんなに泣いてちゃ、きれいな顔が台無しだわ、と。


「あなたのその優しさは、どこから来るの?」


優しさは、自分には与えられなかった、神々の誰からも贈られなかったものだ。

心底不思議な眼をして、彩花を見つめている。


「わたしはいま、優しさの上に座ってるんだけどな」

「……?」

「わたしはたぶん、多くを与えられなかっただけだと思う……みんなみたいに、誰かを好きになったり、遊んだり、怒ったり……そういうものを持たなかっただけ」

「……でも」


立ち上がり、一歩パンドラに近付く。


「……パンドラは、怖かったんだよね」

「……私」

「そうせずにはいられなくて、でも、やったことを見るのが怖くて」

「……そうよ、だって、こんなじゃ嫌われちゃう……」


また一歩近付き、目線を合わせる。


「パンドラが望むなら、わたしがずっと傍にいるよ」

「…………」


パンドラから、光がひとつ、出ていく。


「ここにいてもいいし、わたしの家にいてもいい」

「…………」


またひとつ、光が出ていく。


「誰にもあなたを嫌わせないし、傷つけさせない」

「…………でも」


パンドラは、出てきた最後の光を掴む。


「あなたのともだちに言われたの、ともだちを助けて、って」

「…………」


緩んだ手から光が逃げ、周りの赤がほどけていく。


「私、どうすればいい……?」

「とにかく、いまの……本当の姿でエルピスと話してみたら?」







「なんだ……?」


あれだけ無尽蔵に生み出されていた怪物が止んだと思うと、今度はパンドラがほどけてみるみるうちに消えていった。倒し切ったわけではないはずだが。


「パンドラが飲み込んでいたものたちが神話世界に戻っているわ!」

「一体、なにがどうしたんだ?」


赤も白もほどけきって、傷つけることなく街から消えていく。


さいごに残った赤い繭がほどけ、中からふたりの人物が出てくる。

皆地面に降り立ち、その姿を認めると同時に駆け寄った。


パンドラを抱えた彩花は武器を構える神々を押しとどめ、疲れたように笑った。


「大丈夫だから……とりあえずお茶とお菓子を用意したいの」


その場の誰もがポカンとした表情で、玄関から家に入る彩花を見送った。

ワンテンポ遅れて、皆が我もとそれに続いて。


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