ep.15 象牙の塔


思えば、彩花はずっとなにかを伺いながら生きてきた。

それは、ひとの顔色だとか感情だとか、機嫌だったりするのだけど。

共通するのは、きまって理解してくれる人がいなかったことだ。

目の前にいる誰かが、今にも泣き出しそうに、かろうじて生きている。

それでも彩花以外、気付きはしなかった。

そうしていつも、しなくてもいい苦労をした。

自分自身も後悔のようなものを抱えながら、変わることができずにいる。



「そうね…そんな一番最初の記憶は……失敗だった」


自分の声なのかわからないまま、雨粒のように呟く。


「幼稚園の友達が……別の友達に『さあこれからこの子に意地悪をするぞ』って顔で……別の友達に近付いたの」


彩花はそれを止めた。

本人が失敗と言う通り、返ってきたのはバツの悪そうなひとつの顔と、気味の悪いものを見るいくつもの顔だった。


「わたしは意地悪を止めただけなのに」


小学校でもそうだった。

誰かが嫌われそうな空気、誰かがいじめられそうな空気。

そういったものを感じてはそれとなく気を逸らし。

気味悪がられなかったのはまだマシだったけど、気付いた教師たちによって、学校中の「そういう子」が彩花の元に押し付けられた。

その子たちは元気になったが、彩花はしおれてしまった。

中学でもそれは変わらず、彩花のクラスは問題のある子ばかりが集められた。



一度、「嫌だ」と言ったことがあった。

彩花はそれからもう、二度と言わなくなったが。

聞いた人間の、信じられなく醜悪なものを見るような顔。

「そんな子だと思わなかった」「あなたって意外と腹黒いんだね」「性格悪い」

「怖い」「あの子って何考えてるのかわからないよね」「ほんと怖い」

感情を隠しもしないそれらが、今も消えずに彩花の記憶にこびりついている。


「わたし、そんなきれいな人間じゃないのに」


品行方正でいることを強要され、愚痴など一滴も零すことを許されず、誰かの頼みを断ってはいけなく、空気の読めないことをしてもいけなく、疲れた顔は見せず、何事も取りまとめなくてはならず、いつも笑っていることをまた強要され。


「わたしにわたしがわからないのに……」


そうやって感情を押し込めてきたせいで、いつだって気付くのはずっと後。

ああ、あの時のあれは嫌だったんだ、なんて後になって気付いて。

だからだれにも何も言えなくて、なんでもない顔をし続けなくちゃいけなくて。


「みんなにはわたしがどう見えてるっていうの?」


別に、嫌われたり、いじめられたわけじゃない。

ただ、誰も「彩花」を見ようとしないだけ。

誰も「彩花」をわかろうとしないだけ。

彩花と同じだけ相手を見ようとしないだけ。


そんなの、いないのと変わらないじゃないか。


自分だけ真っ暗な箱の中に閉じ込められて。

身動きすることも、声を上げることも、感情をほんの少しでも外に出すことを許されなくて。ただ、相手の望む人間を振舞うことしか期待されなくて。


「わたしだけ、いつも……だめって言われる」


愚痴を吐いちゃだめ。

誰かを嫌いになっちゃだめ。

いい子でいなくちゃだめ。

嫌って言っちゃだめ。

「便利」でいなくちゃだめ。


自分だけ。


誰もが誰かを好きになったり嫌いになったりして。

誰もが感情のままに喜怒哀楽をみっともなく吐き散らかして。


誰もが、なのに。


どうして、自分だけ。


「わたしは人間らしく生きちゃいけないの……?みんなみたいに好きな時に好きなだけ怒ったり泣いたりして、みんなみたいに好きなだけ誰かを嫌ったり愚痴を吐いたり……なんでわたしにだけ許されないの?」


どうして今更こんなことを思い出すんだろう。

そう思いながらも、記憶は走馬灯のように勝手に流れていく。


「わたし、なにかを望まれるような人間じゃないのに……」


顔を覆った彩花は気付かない。


「もう、ひとりにして……」


記憶が白っぽいなにかに変わり、彩花の周りを強固なものにしていった。





「彩花、おきないよ!」

「黙れヒヨコ」

「ひよこ!?」

「お前みたいな生まれたての魂などヒヨコ同然だ」


心臓に杭を打ち込まれたまま身じろぎもしない彩花を、神話世界の住人たちが取り囲んでいる。モイラは話をせず、災厄は彩花の場所にいるときた。


「……ぼくはじかんがたりなくて彩花のところにいけないんだよね?」

「そう聞いたわ」

「じゃあ、じかんがいっぱいあるなら、いけるってこと?」

「……」

「…………兄上」

「待て、なぜ皆で私を見るのだ」


エルピスは、タナトスの返事など聞かずにモイラに交渉した。


「彩花言ってたよ、兄上と彩花は似てる気がするって」

「僕が言ってあげたいけど、災厄程度の魂じゃエルピスと大差ないんだ」

「……別に、渋った訳ではない」

「決まったようね」


水晶の杭を傍に浮かせたモイラが、吐き捨てるようにそう言った。

皆が頷くのと同時に、水晶の杭がタナトスの心臓を貫いた。





「……ここなら、誰もこないのかな」


災厄も誰も忘れて、死ぬまでたったひとりで。


「……それがいいな、ここで、ずっと……」

「悪いが、そうはいかんようだな」

「………………タナトス」

「吐け、何もかも」


隠し事も、お飾りも、何もなく。


「似ている」と「同じ」は天と地ほどの差があるけれど、彩花はこうして真摯に向かってくる感情を、嫌だとは思えなかった。


洗いざらい、なにもかも吐いた。


生い立ちのように、長く長く、長い記憶を。



「レーテーに話をつけてやろうか、忘却の河の水を飲めば何でも忘れられるぞ」

「いいよ……別に……なにもかも忘れたい訳じゃないし……」


彩花はふと思い至り、自己嫌悪に陥りながらも、何もかも吐くと言ったので吐いた。


「わたし、だいぶ贅沢だったね……タナトスにあんなに怒っておいて」


死の国で、彩花は確かに怒りをタナトスにぶつけた。

それも、タナトスが恐怖するほどの怒りを。


ただ、それは少し……。


「お前はきっと、怒る『べき』だと思ったんだろう?エルピス他人のことだったから」

「…………心を言い当てられたの、生まれてはじめてかも」

「生きていれば、この先いくらでもあるだろう……と、言われたくはないだろうな、彩花は」

「うん……言われてたらいつかタナトスのこと嫌いになってたかもしれない」


家族ですら、お互いの心を正しく理解するのは難しいだろう。

それを補うために言葉があるのだが、彩花はそれでも解ってもらえたためしがない。

いつからか、会話することすら諦めてしまっていたような気がする。


「ところで……ここ、どこ?」

「……とある国の言葉で、象牙の塔、と呼ぶべきなのだろうな」

「象牙の塔……」

「自分の内側に籠ってしまう状態のことも指すらしい……実に、私達にはぴったりな場所だろう」

「はは……そうだね」


辺りは白く、象牙と言われればそう見えなくもない場所だった。

白と自分以外(今はタナトスもいるが)なにもない場所。


「モイラの話では、ここに停滞の災厄がいるという話だったが」

「あぁ……そうだった、薄れゆく意識の中でそう言ってたかも」

「留まるか探すかは彩花に任せるが」

「……探す」

「本心か?」

「わかんない……でも……いつかわかる、と思う」

「いいだろう」


ふたりは立ち上がり、白の中を歩き始めた。

よく見えないが螺旋階段のようなものがある。

もう、進むしかないのだろう。


「……あのね」

「なんだ」

「あー……なんか…………堂々と監視してくれていいから」

「…………そうか」


そこまで読まれているとは思わず、タナトスは階段をひとつ踏み外した。

果たしてこれはパンドラの魂に由来するものなのか、彩花本人のものなのか。




しばらく螺旋階段を上ると、何か鈍色に光るものが見えた。


「あ……」

「初めまして彩花さん、停滞の災厄と申します」

「初めまして……」

「まず、なぜこんなことになったか説明をさせていただけますね?」

「はい、どうぞ……」

「随分と話の早い災厄だな」


停滞の災厄がよくわからない規則正しい動きをすると、白から椅子が生えてきた。


「どうぞ、おかけになってください」

「ありがとう」

「では、説明に入りますね」


――――本来、災厄のというものは、当代パンドラの善悪に左右されるものでした。悪辣であればあるほど災厄は酷く、善良であればあるほど軽微なものに……といった具合にですね。

私はあなたと共に生まれた新しい災厄ですので、本来ならあなたの善性に則り、ほどほどに微々たる災厄を齎すはずでした。あなたは順々に現れた災厄をそれこそ順々に箱に戻されたはずですよね?そう在るように生まれましたのでね。


ただ……箱から出た瞬間、災厄のいくつかに異変が起きました。


もうお気づきになったでしょうね。

そう、前代パンドラが何らかの方法でこの世に残り、そのせいで我々災厄は「ふたりのパンドラ」の間で揺れ動かなくてはなりませんでした――――


「あの……じゃあ、地の災厄が怒りに飲まれていたことも」

「全て、前の代であったことが原因でしょう」

「パンドラの居場所に心当たりはないのか」

「私は特に、彩花さんと共に生まれた災厄ですので……申し訳ありません」


しばらく神妙な空気が流れていたが、彩花はハッとしたように喚いた。


「クロノスを解放してあげて!まだ生きてるよね?」

「もちろん、私が恵みに戻れば造作もありません……ただ」

「た……ただ?」


停滞の災厄は、古い型の眼鏡を押し上げ、申し訳なさそうに呟いた。


「私はあなたと共にあります」

「はい」

「なので、まずはあなたがご自身について納得しなくてはなりません」


一番の難関だ、と彩花は思った。


「もちろん、私も付き合いますので」

「はは……ありがとう」


彩花の顔が引き攣っている。

タナトスは顔を背けているが小刻みに震える肩で笑っているのがわかる。

停滞の災厄は白の中からバインダーを取り出し、聞き取りを始めた。


「あなたの善は私達の善、あなたの悪は私達の悪」

「えっと……」

「あなたが善く在る理由がわかれば、私は勝手に納得しますので」

「えぇ~……」

「時間は有限ですが、停滞の中では無も同じです」


よくわからないが、悩む時間は充分にあるということだろう。





「そうですねぇ……もっと具体的に仰っていただけるとこちらも……」

「ええぇぇ……」


あれから(体感時間で)2時間。

彩花の思う「善」は停滞の災厄によってバッサバサと切られていた。


「う~ん……いまいちビジョンが伝わってこないんですよねぇ……」

「どうしたらいいの……」

「彩花」

「なぁにタナトス」

「なら、悪でもいいと思うことを言ってみたらどうだ」

「ええ、私はそれでも構いませんよ」


惡でもいい。


悪でもいい?


悪は……悪いこと、そのものじゃないのか。

悪いことは誰かを悲しませることだし、悲しいことはつらい。


「突き詰めるとだって悪とされるだろう?嫌いか?」

「タナトスは嫌いじゃないわ……でも……」

「善悪どっちに転ぼうと災厄は構わないですし」

「そんなことないわ……」


両隣からごちゃごちゃ騒がれ、彩花は自分で思ったより大きな声を出してしまった。


「悪いのはいやだったら嫌!!善く見えなくても正しくいたいの!!」


小さく謝り、椅子の下にもぐる。

2、3歳のこどもみたいだ。自分が嫌になる。

……が、それに反してふたりの反応は悪くないものだった。


「いいでしょう!これからよろしくお願いしますね」

「え……え?」

「それくらい本能で生きてもいいんじゃないか」

「それでは改めまして自己紹介を」

「あ、はい……?」


災厄と全く変わらない姿のそれが、ペコリと頭を下げる。

おぉ、最敬礼だ。


「私、時の恵みと申します」

「あ、はい、どうも……」

「これで心置きなく正しいことができます」

「……うん!」





「彩花ー!」

「エルピス!心配かけてごめんね……」

「彩花しんじゃうかとおもってすっごくこわかったよー!」


ちいさなエルピスが、泣きながら震えている。いつかの逆みたいだ。あの時はエルピスの方が危なくて、彩花はとてもとても心配したものだった。

金糸を撫でつけると、震えは次第に落ち着いていった。


「クロノスとモイラは助かったよ!」

「よかった……」

「彩花」


手を取り合って喜ぶクロノスとモイラを見送る。


振り返ると、いつになく真剣な表情で恵みたちが並んでいた。


「彩花」

「なに……どしたの、急に?」

「とうとう、くるんだよ」

「来る?何が?」


動き出した街に、暗雲が垂れ込める。


雨雲なんて生易しいものではない、真っ黒な雲だ。


それが、世界すべてを包み込もうというように広がっていく。


「災厄の最後はいつも同じ」

「最悪の災厄がやってくる」

「最悪の……災厄?」

「彩花の一番恐れているものが現れる」

「いちばん……恐れてること……?」





「あらやだ、空が真っ暗!」

「いよいよですかね?」

「え~、天気予報晴れだったのに~!」

「えぇ、快晴だったはずです」

「あら、どしたのぐずっちゃって……おねむ?ちょっとあやしてくるわね」


パタパタと軽やかな足音が遠ざかる。


「赤ちゃんはこれが何かわかるのかしらね」


メグミは眼鏡を外し、期待に満ちた目で空を見上げた。

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