ep.11 病は降り注ぐ
エルピスは、ただひとつのことだけを抱いて生まれた。
もういちど、きみと旅がしたい。
それだけを。ただそれだけを抱いて。
◆
「誰か、前のエルピスを知ってる人がいないかしら」
「どうだろう……みんなもだいがわりをしているから」
まだ日の出たばかりだが、空模様が怪しくなってきた。
雲が厚く育ち、光を遮るせいで黒く、暗い。
セイレーンをニュンペーの街に預けたものの、これからどうしていけばよいのかわからなく、途方に暮れた。病の災厄はエルピスに暗い感情を向けていて、一筋縄ではいきそうにない。どうすればいいのだろう。
「みんな、ちょっと起きてくれない?」
「どうしたの、彩花」
箱から引きずり出された恵みたちが、欠伸を押さえながらそう答える。
「前のパンドラとエルピスのこと、憶えている限り教えてほしいの」
「私たちも、そうなったという記憶があるだけで……」
「僕も、戻らなかったという感覚があるだけだ」
どこか不安げな表情で、実りの恵みがおずおずと前に出る。
「おそらく……それを知っているのが、病の災厄なのでしょう」
「結局、まずは本人と話さなきゃならないのね」
「エルピス、病の災厄はどこへ?」
「わからないよ、むさんしてきえてしまったから」
「もう一度戻った方がいいかもしれない、リストが更新されたか確認しよう」
眠りの恵みの言葉に頷き、影の城へと向かう。
再びの来客に驚いた城の主たちだったが、快く迎え入れてくれた。
それと同時に、ケルベロスの部下たちが何か書類をくわえて駆け込んでくる。
「確かに……修正されたものが届いたようだ」
「たったの一枚かい?」
「そのようだ」
「教えて、いつ?どこで?」
「…………」
彩花の焦燥とは裏腹に、二人は修正されたリストを見て黙り込んでしまった。
どうにか覗こうとするが、タナトスがそれを折り畳んで内ポケットへしまう。
「ねえ、どうしたの?」
「間違いのようだ……抗議してくる」
「え?間違い?なんで?」
「……あるはずのない名だ」
「ごめんね、すぐ戻るからここで待っててくれるかい?」
客人を残し、二人はさっさとどこかへ去ってしまった。
「リストが一枚だけだって言ってたわよね?」
「うん、ヒュプノスいってたよ」
「……じゃあ、病の災厄はどこか人の少ない場所に留まってるってこと?」
その時、だいぶ遅れておでぶの使いがじりじりと姿を見せた。
部屋に入ろうとするものの、何かがつっかえて入ることができない。
くわえている紐を一緒に引っ張ってみると、後ろから大きな麻袋が現れた。
「…………重かったね」
「ワン!」
「なぁに、それ」
「えーっと……」
勝手に見るわけにはいかない、と言おうとした瞬間、袋から一枚の紙がこぼれ落ちた。こんなに詰め込むから……と思いながら、彩花はそれを拾い上げた。
そこに書かれた字が自然と目に入る。
「……ポセイドンに、ゼウス」
「彼らは不死のはずだろう?」
彩花が、最初に出会った神々だった。
嫌な予感がして、そのままリストを読み進む。
渡し人のひとり。
ヘパイストス。
タナトス。
ヒュプノス。
オネイロス。
ケルベロスの部下たちまでも。
そして、後ろにある膨大な。
「あなたの旅を、辿るつもりなのですね」
「とんだ侮辱ね」
誰だって死んでほしくないが、よりによって出会ってきた誰かばかりが。
「……行こう」
「どこへいくんだい?」
「わたしたちが出会った場所へ」
◆
「おかしいだろう、なんだこのリストは」
「私は下請けなので何とも……言われたとおりに発行しただけで……」
死者のリストを発行する場所へ来たものの、受付では話にならなかった。
受付の女は「クレーム処理お願いしまーす」と後方に声をかける。
それについて叱りつけるか迷ったが、タナトスは黙った。
黙ったが、手は腰にある剣にかかっていることを、ヒュプノスだけは知っている。
「あれ?もう片方はどうしました?」
「もう片方だと?」
「ええ、そのリストに書かれた人間が死んだ場合には破棄してくれって言伝付きで」
ふたりは、顔を引き攣らせた。
前例がないわけではない。
つまり、誰かが命を秤にかけているのだ。
「まあ、向こうは間違いでしょうね」
「どうしてだい?」
「神々がみんな死ぬだなんて、ありえないでしょう?」
タナトスとヒュプノスは顔を見合わせた。
「え~っと、なんたら彩花、でしたっけ?」
「その人が死んでくれた方が我々としては……」
それ以降、受付担当者たちはもう、なんの言葉も紡ぐことはなかった。
「兄上、剣は下げて」
「………………」
「とにかく城に戻ろう、彼女たちがまだそこにいてくれればいいけど……」
◆
「ねえ、箱が開いた場所ってことでいいのかしら?」
「う~ん、どうだろう……あのリストがほんとうなら、そうだとおもうけど」
「それか……いや、どっちにしろわたしの家に行かなくちゃね」
「うん……こんかいはきっと、ぼくはやくにたてないとおもう」
「大丈夫よ、きっと」
鏡を通り、家に戻る。
母親は外出中なのか、家にはいなかった。
「オカーサン、いないね」
「買い物かしら……」
「病の災厄もいませんね……」
「……やっぱり、蔵なのかも」
「蔵?」
「そこで箱を見つけたの」
ただ、自信がなかった。
あれは、彩花の宝物の箱から出てきた。
覚えていないだけでどこかで拾ったりしたのだとしたら、ズレが生じる。
「神話世界に入ってみようよ」
「うん……」
光の満ちる鏡を通り、神話世界の同じ場所から庭に出る。
雨が降っていた。
神話世界のその場所にだけ、黒い雨が。
灯火の恵みに腕を引かれ、縁側に倒れ込む。
「ど、どうしたの?」
「彩花、あれに触れたら死ぬよ」
「えっ……」
ざあざあ、べちゃべちゃと降り注ぐ雨は、地面を次第に黒く染めていく。
一ヶ所に集中して降り注ぐと、黒い水たまりができた。
それは盛り上がり、病の災厄を形成する。
「……待ってたわ」
「ねえ、教えてほしいの、前のエルピスのこと」
「……また、エルピス……なのね……」
「え?」
「……また、あなたは……エルピスを特別にして…………私を迎えにこないんだわ……そうよね……だって、あなたは……」
病の災厄は、再び顔を覆って泣き出してしまった。
「だめだよ彩花、前に出たら」
「……うん、でも……」
黒い雨は街中に広がり降り注いでいるように見える。
このすべてが毒であり、病になり得るものなのだ。
「……あなたは、わたしたちの旅を辿って、どうしたいの?その先は?」
「…………私は……」
病の災厄が一歩後退る。
それに合わせ、彩花は一歩踏み出した。
あと一歩でも出たら、黒い雨に打たれるだろう。
雨の恵みがタナトスたちから預かった薬などを用意するが、それを手で制す。
「あなたは、何に悲しんでいるの?」
「…………うぅ……」
「あなたは、何が望み?」
「………………」
彩花は黒い雨の中を駆け出し、驚いた顔をする病の災厄を抱きしめた。
頭の上で、病の災厄は悲鳴を上げた。慌てたように彩花を引きはがそうとするものの、一向にそうすることができない。より強い力で抱きしめられ、涙が零れる。
「……あなたは、どうしてわたしたちに近付かないの?」
「……あぁ…………離れて……私に近付かないで……」
あらゆる毒と病気が彩花の体を駆け巡り出す。
引きはがそうと触れたところが爛れ、血が滲む。
身体は熱くなり、あちこちが痛み始める。
嗄れた声で、病の災厄に話し続けた。
「恵みに戻りたい、迎えに来てほしい」
「うぅ……あぁ…………」
「寂しい、悲しい、悔しい」
「…………お願いだから……もう……」
「……怖い」
あれだけ喚いていた病の災厄が、一切の動きを止めた。
見開いた眼から、涙が丸く、一粒落ちる。
「恵みに戻れないかもしれないのが怖い、自分が世界にもたらしたものが怖い」
「…………」
「病に苦しむ人を、悲しむ人を見るのが怖い……」
「……彩、花」
「怖くて、悲しくて、不安でたまらなくって、寂しい」
病の災厄の涙を、手で拭う。
「ずっと一緒にいられるエルピスが羨ましい」
「……そうよ、だから……」
「あなたは、一緒に旅がしたいの」
「…………」
「でもこのままじゃ傍に入れなくて、抱きしめることもできなかった……だから、恵みに戻りたくて……でも、戻れるかわからなくて……苦しかったよね」
雲の隙間から、日の光が射しこんだ。
透き通るようにほどけていく病の災厄を見送りながら、彩花は意識を失った。
遠くで、誰かに呼ばれている気がした。
◆
「あれ、ここ、どこだろう」
気が付くと、河の真ん中に立っていた。
「どうしたの?」
弦を弾くような、美しい声がきこえる。
思わず振り返ると、そこにはこの世のものとは思えないほどに美しい人がいた。
なにもかもが完璧で、自分の目を疑うほどに。
「えっと……どうしてここにいるのか、わからなくて」
「まあ、あなた人間?珍しいわ」
彼女は、宝石のような目を細め、鈴を転がすように笑う。
思わず見とれていると、そっと背中を押された。
「こっちに来ちゃいけないわ……まだ、やることがあるんでしょう?」
「うん……」
「このまま真っ直ぐ歩きなさい、あなたを待つ者がいるわ」
「あの……ありがとう、ございます……えっと、あなたは……」
まだ見惚れていたくて、振り返る。
「名乗るほどじゃないわ」
「でも、お礼がしたくて」
「それじゃあ……いつかわたしに、希望を与えてくれる?」
「希望?」
「さあ、もういきなさい」
景色がものすごい勢いで渦巻いて、彩花は色の風に吹き飛ばされた。
◆
雨が降っている気がする。
(そうだ、わたし、起きなくちゃ……)
さあさあ、とつとつ、ちょろちょろ。
清らかで、軽やかな雨の音。
「彩花!目が覚めたのね!」
薬用リップクリームのパッケージに描かれていそうな女の子が、目を覚ました彩花に抱き着いた。空からは光の雨が降り注いで、それが全身を伝っていた。
冷たく冷えることはなく、いつの間にか痛みも傷も消えている。
「私は治癒の恵み……彩花、戻してくれて、ありがとう……」
「それじゃあ……」
「私も……旅に連れて行って」
「もちろん!」
ふわりと微笑むと、治癒の恵みは空へ向かい、両手を広げる。
光の粒が空へと昇り、輝く雲が大きくなる。
「これだけじゃ、贖罪にもならないし……病を完全には消し去ることはできないけれど……いま、病に苦しむ人に治癒をもたらしましょう……」
「ありがとう……そうだ、タナトスたちに報告しないと」
◆
「……まあ、誰も死ななかったのだ、良い結果だろう」
「うん……心配かけてごめんね」
「構わん……ただ、忙しないのだな、と思っただけだ」
「忙しない?」
「兄上は寂しいんだ、せっかく来ても用件だけで帰っちゃうから」
「あぁ……それは申し訳ないと思うわ」
彩花は、庭でオネイロスと遊ぶエルピスを眺め、縁側でお茶を啜るふたりと話す。
たしかに、言われてみれば忙しない。最近は、気の休まる時がないくらいだ。
「おかげでしばらく休暇ができたというものだ」
「じゃあ、泊まって行けば?」
「はろうぃんってやつがあるんだよ!」
「はろうぃん……あぁ、管轄外だから忘れていた」
「あのね、ここのはろうぃんはね、おかしをもらいにいくんだって!」
「ほう、変わった国だな」
ハロウィンの話をするふたりを置いて、彩花は治癒の恵みへ駆け寄った。
未だ雨を降らせる彼女に、お茶とお菓子を差し出す。
「ね、今なら聞いてもいい?」
「えぇ……でも、期待に副えるかはわかりません」
◆
前のエルピスは、今とは違い、青年の姿をしていた。
ふたりは旅に出て、困難を乗り越え、十八の災厄を恵みに戻し、箱に収めた。
そこで、パンドラは思い至ったのね。
この旅には、必ず終わりがあることを。
それが、もう、すぐそばに来ていることも。
パンドラは、エルピスを愛していた。
だからこそ嘆き、焦り、旅を永遠のものにしようとした……。
エルピスはもちろん抵抗したわ。
このまま旅をやめて災厄を放っておくだなんてできない、と。
それを許せなかったパンドラは、ヘパイストスに授かった武器で……エルピスを、殺めてしまった。
残りの災厄は不完全な眠りに就き、世界に傷痕を残した。
次のパンドラが迎えに来てくれるのを待ちながら、途方もなく長い間。
◆
「……そう、だったんだ……どうしてパンドラは、そうしなきゃならなかったの?」
「箱にすべてを収めたら、エルピスも共に箱の中で眠りに就く……いつ覚めるともわからない時の中を、ずっと」
「………………」
「旅が終わったら、もう二度と逢えないと思ったんでしょうね……」
この旅に、そんな結末があるとは。
ただ災厄を解き放ち、仲間と別れるだけ。
本当に、救いのない旅だ。
まるで最初から「罰」として与えられたような。
いつか本当の意味で、終わることがあるのだろうか。
永遠に繰り返して……それだけなのだろうか。
縁側でエルピスが手を振っている。
それに軽く振り返し、空を仰いだ。
「ただいま~」
「あ!オカーサン!」
「お帰り、どこ行ってたの?」
「病院よ、それがもうびっくりしちゃって!」
「病院?」
ついでに買い物をして来たのか、片手に買い物袋を提げていた。
彩花は落とされたらかなわないと急いで買い物袋を受け取り、台所へ持って行く。
母親は、お礼を言いながらタナトスたちに挨拶し、詳細を話した。
「今朝、私たち急に熱を出してね、急いで病院に行ったんだけど……」
「いーこ、いーこ」
「ありがとうエルピスちゃん、そう、急にケロっと治っちゃったの」
「急に?」
「私たちだけじゃなくてね、病院にいた人もみんな治っちゃったの」
母親は、にこにこと不思議そうに話している。
彩花は治癒の恵みを抱きしめて、感謝した。
いつか別れる日がても、きっと忘れないように。
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