ep.10 毒、病、そして……
冥界を出てしばらく。
夕陽に照らされる家々が見えてきた。
どうやらここがニュンペーの街らしい。
「災厄はもういるのかな?」
「どうだろう……タナトスはあくまでよていだからっていってたけど……」
「街のみんなは元気でいるのかしら……」
何軒かの家を訪ねてみたが、みんな無事だった。
やがてどこの家からも夕飯の支度をする香りが漂ってきて、その平和さに呆気にとられたような気持ちになってしまう。
「旅人さん、一緒にいかが?」
「彩花、ごはんをたべよう!」
「そうね、じゃあお言葉に甘えて……」
赤い煉瓦造りの家に入り、丸太のテーブルにつく。
「私は冥界に属するニュンペー、ランパスのひとりです」
「わたしは彩花、こっちがエルピス」
「タナトス様を救っていただいたそうで、お礼を言いたかったの」
「そっか、めいかいのニュンペーだもんね!」
注いでくれた花のジュースを飲みながら、近況を問う。
「流行り病ですか?いえ、特に聞いたことは……」
「よかった、まだこの街に来てないみたい」
「これからくるかもしれないから、ひなんしたほうがいいよ」
ニュンペーたちは広場に集まり、彩花とエルピスの言葉に従った。
いくらかの荷物を持ち、それぞれが属する場所へ還ろうかと相談していた時、彩花は落雷のような閃きに襲われ、ニュンペーたちを呼び止めていた。
「どうしたのですか?」
「なんか……それぞれの場所に帰っても、意味がない気がして」
タナトスは死者のリストを見て、ニュンペーの街だろう、と言った。
ニュンペーの街だ、ではなく、ニュンペーの街だろう、と。
ヒュプノスは、ニュンペーには不死性がないから、と言っていた。
大きな勘違いを、するところだったかもしれない。
彩花は自らの直感に感謝し、思索を巡らせる。
不死性のない者たちが死に、その多数がニュンペーだったのだろう。
ここだけではないのだ。病はこの街だけに広がるんじゃないのだ。
「……大変、もう一度タナトスに話を聞かなくちゃ!」
「彩花、どういうこと?」
「ここじゃないかもしれないの」
もし、彩花たちがニュンペーを避難させることも込みだったのなら。
それぞれの属する場所に帰った先で病に罹患し、死者となるのだったら。
病はこの神話世界の大半を覆うことになる。
「戸締りをして、決して外に出ないで」
◆
「彩花!?ニュンペーの街に行ったはずでは?」
驚いてぶどうを取り落とすタナトスに詰め寄り、リストを読み上げさせる。
「一番最初にここに来る誰かと、その場所を教えて」
タナトスは急いでリストを捲り、その一文を探し出す。
「……明日の夕刻、ニュンペーの街から山を越えた海岸で、セイレーンのひとりが死ぬ、それが最初だ……ただ、災厄によるものかは」
「ありがとう!終わったらまた来る!」
「…………そうか」
「忙しい旅なんだよ、兄上」
「……何が言いたい」
「僕たちはゆっくりとここで待つだけさ」
◆
「彩花、すこしやすんだほうが……」
「明日なの、もう明日には最初の誰かが死んじゃうの」
「だれだっていつかはしんじゃうものだよ」
「それでも、災厄で死んじゃうのは……違うと思う」
夜の山を越え、海岸を目指していた。
せめて日の出までには辿り着きたい。
「……わかった、ぼくは彩花についていく」
「辛いならわたしが背負うわ」
「ぼくはつらくないよ、だいじょうぶ」
そうして、まだ暗さの残るうちに海岸の砂を踏みしめることができた。
エルピスが言うには、セイレーンは美しい歌声を持っているとのことだった。
しかし、何も聞こえない。波が押し寄せては引いていく音だけ。
「セイレーン!いないの!?」
「おちついて彩花、ゆうこくまでいくばくかのゆうよがある……かいがんはひろいからてわけしてさがそうよ」
「……うん……そうしましょ……」
そう言った途端、空から鳥が降ってきた。
いや、鳥ではない。人に似ている。
身体の下半分だけが鳥だった。
「セイレーン!」
「セイレーン……この人が?」
「なにかどくにおかされているみたいだ」
助け起こして見ると、まだ息があるようだった。
持ってきた水薬を飲ませると、しばらく咳き込んだ後、目を覚ます。
「あ……あなたは……?」
「わたしは……」
細い弦を弾いたような、美しい声だった。
思わず聴き惚れていると、再び空から何かが落ちる音がした。
背後に現れる日の出のせいで、逆光になる。
それだけでない黒が、ずるりと起き上がり歩み寄る。
ずるり、ずるり。
夜を煮詰めたドレスをゆっくりと引きずっている。
沼底にある泥のような何かを、シュプールのように残しながら。
べちゃり、べちゃり。
黒い涙を、絶えず地面に落としながら。
涙の落ちたところから、しゅう、と煙が上がった。
「……やまいの、さいやく……」
「そう……私は病の災厄……災厄の中で、最も死に近い者…………止められなければ……多くの死をもたらすでしょう……」
「きみはこれから、どこへいくんだい?」
病の災厄は沈黙する。彩花たちの返答次第、ということだろうか。
留まっているせいで、黒いヘドロのような何かが、厚く積もり始めている。
「きみはもっとも、めぐみにもどるべきだとおもう」
「そうかしら……私が恵みに戻っても……病は既に、世界中に滲み込んでいる……」
「どういう、こと?」
「私の涙が病となり、歩いてきた道が疫となり、吐息だけでも毒になる……」
彩花の耳に、つい最近の記憶がリフレクションする。
「悪い風邪が流行ってる」、そう聞いたのはいつだったか。
病の災厄が黒い涙を流したまま、訥々と、悲しみがこもったように話し続ける。
「私は……前の旅で、恵みに戻れなかった……だから人間は
「前の、旅?」
「世界に残った災厄は……人の世に影響を与えながら不完全な眠りに就いた……次のパンドラが迎えに来てくれるまで……ずっと……私、ずっと待ってたわ…………」
「……ごめんなさい、長い間待たせて」
「いいえ、いいえ……箱を開けてから、こんなに早く迎えに来てくれたんだもの」
「それじゃあ恵みに戻っ……」
意外とすんなり話が進みそうだと思ったのも束の間。
「でも、遅かったの……私の意識は前から途切れることもなく……新たに生まれることもできなかった……あなたで恵みに戻れるかもわからない……」
病の災厄が両手で顔を覆う。その振動でか黒いベールがはらりと落ちてきて、すっかり顔を隠してしまった。黒い塊のように見える。
ずい、とエルピスが進み出て、病の災厄に大きく問う。
「それなら、まえのぼくをしっているんでしょう?」
「エルピス……?」
「ええ、ええ……知っているわ……忘れるはずがない……私が箱に戻れなかったのは……あなたのせいだもの…………」
怨みがましくエルピスを睨み、ずるずると後退りしていく。
「この悲しみを……忘れるはずがないわ……眠りに就くその瞬間まで、ずっと考えていたことだもの……パンドラがあなたを愛さなければ……」
「でも、パンドラもにんげんだ……だからいつかしんで、こうして彩花がうまれた」
「エルピス……あなたさえいなければ……私だって恵みとして眠りに就けたわ……」
いまいち噛み合わない会話に、段々と不安になってくる。
朝陽によって翡翠色に照らされる海や空が、黒を際立たせ孤独にさせていく。
病の輪郭が消えることなく淀み、沈み。じわじわと広がっていく。
「……ごめんね彩花……どうやら、まえのぼくのせいみたいだ」
「前の、エルピス……?」
「ぼくさえもしらない、ぼくのことさ」
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