ep.05 エルピスと死の国
街を覆う氷の上で、ひとりの少年が表情のない貌で笑った。
「ああ、好きでやったわけじゃないさ……目覚めただけで、こうなった」
少年は彩花たちの目の前に飛び降り、砕け散った。
かと思うと氷の生まれると共に、隣や後ろに現れている。
「まだ、なにもしちゃいない」
「じゃあ、一緒に……」
「時間が要るんだ、何事にもそうだろう?小さなことは少ない時間、大きなことを為すには、それだけ多くの時間が要る……僕もそうってだけさ」
「ちょっと、待って!!」
カシャー…ン。
少年だった氷は砕け散り、欠片すら残さず消えてしまった。
「……めざめただけ、で……こんなに……」
「落ち着いて、エルピス……わたしたち、あの子を捕まえる猶予をもらったの」
エルピスはがたがたと震えている。
大きなことを為すには多くの時間を。
つまり、それまでに捕まえてみろ、ということだ。
「……神話世界に、行こう」
「彩花……だいじょうぶ?」
「わたしも、本当は、いつだって少し怖いよ」
でも、自分の中のもうひとりの自分が、そうしろって言っている。
(エルピスも、そうなんでしょう?)
◆
「ああ、彩花さんにエルピス、お久しぶりです」
「あ、こんにちは……」
「いそいでしんわせかいにいきたいんだ」
「あー……それなんですが、おすすめはしませんね」
鏡の国の渡し人が、ふうとため息を吐いて首を振る。
随分疲れている様子だ。嫌な予感がしてつい詰め寄ってしまう。
「実は、冥界の要である河やその守護神様方が凍ってしまったせいで……いまはその、タナトス様がご乱心で……」
「かわっていうと、ステュクスかい?」
「ええ、最初はステュクス様、いまはコキュートス様までもが凍っています……ピュリフレゲトーン様でさえも時間の問題とのことで、レーテー様が嘆いておられ……」
「ああ、それではタナトスもらんしんしてしまうだろうね」
「渡し人さん、それでもわたしたち、行かなければならないんです……とにかく神話世界まで送ってもらえれば、あとは自分たちで進みますから」
渡し人は諦めたように頷き、船を出した。
しばらくただの河を下っていたが、氷にぶつかり、そこに留まる。
「凍らないうちはお待ちしておりますよ」
凍った河を歩き歩き、やがて暗く湿り気のある場所に辿り着いた。
◆
今から少し前の話だ。
凍った巨樹が軋む音がしていた。
氷が成長するたびに、巨樹の命が減っていく。
少年と巨樹の間に、やがて黒い鳥のような何かが降りたつ。
「冥府で最も冷たい河をも凍らせる氷の災厄……」
死そのもの、タナトスであった。
氷の災厄の目の前に、死が現れる。
「死を前にしても怯えすら見せぬとは……」
タナトスは翼を畳み、腰に下げた一振りの剣を掲げた。
この剣はただひとつのものを除いて、他の何も切ることは叶わない。
生き物すべての身体と魂、それを切り離すこと以外はなにも。
「……貴様が災厄でも恵みでも、私の前ではどうでも良いのだ」
「エルピスもパンドラも怒るだろうね」
「……なにもかも、どうでもいい……箱が開かれた時点で、すべて……」
私は疲れたのだ、この世界に。そう言って、剣を振り下ろそうとした。
少年とタナトスの間に、ひとりの青年が割り込むまでは。
「たとえ
「……兄上に…………眠りを……」
青年はことり、と首を傾げた。
タナトスの双子の弟・ヒュプノスは、目を閉じたまま、耳飾りを取り外し軽く息を吹きかける。耳飾りの中の眠り薬が含まれた風に吹かれ、タナトスは眠りに陥ってしまった。兄上に、と言いながら、いま自分が誰を眠らせたのか、知りもしない。
「……オネイロスは逃がしたか」
たとえ片方逃がしても、もう片方を駒にできれば、それでいい。
◆
「……エルピス、寒い?」
「……すこしだけ、でもだいじょうぶ」
震えの止まないこどもを、彩花はそっと抱き上げた。
エルピスは、ふわふわとしたわた雪のように冷たく震えている。
ぎゅっと抱きしめたまま肩や腕を擦り、一生懸命にあたためた。
まるで巨大な石にでも触れているようだった。
ただ彩花の熱を失うだけで、一向に冷たさは改善されない。
「……灯火さん」
「呼んだ?」
「……エルピスをあたためるための火がほしいの」
「彩花の頼みとあれば、なんだって」
「わたくしが休息所を作りましょう、
タイムがエルピスを抱えるように繁茂し、その周りを小さな球形の炎が星のように舞っている。ちいさな宇宙みたいだ。
「……冷たい……」
「ねえ、エルピスのやつ、何かおかしくない?」
呼吸は浅くなり、冷や汗でびしょ濡れになっている。
尋常じゃない何かがこのちいさな身に起こっているのだ。
鼓動というものが次第に小さくなり、彩花に混乱をもたらす。
「エルピス、氷の災厄に会ってから震えてたけど、ここに来てからずっとひどくなってるの……わたしが無理に行こうって言ったから……!」
「落ち着いて、彩花……わたくしたちにも何が何だか……」
「……いや、強いて誰のせいか言うなら……」
冥府の森から黒い鳥たちが一斉に飛び立っていく。
闇が満ちる冥府の中で、最も昏い闇。
彩花たちの前に、タナトスが降り立った。
その手に、金糸のひと房を持って。
「あらら、向こうから来たみたい」
「本来なら、その場の全員の命を切り離すつもりだった」
「……一度殺されたことのあるエルピスだけが、魂を掴まれてしまったのね」
「タナトスは神の命を奪えない……本来なら、神格を得ていると言ってもいい私たちに手は出せなかったはずだもの……」
エルピスが、身じろぎすらもしなくなる。
呼吸の音も、聞こえない。
氷の河の一部であるかのように、存在が希薄になっていく。
「エルピス!!」
「魂を持って行かれたか……!」
「……そうだな、私は何も、貴様らを皆殺しにしたい訳ではない」
彩花は、命の消えたエルピスの身体を抱きしめる。
恵みたちに促され、エルピスを箱の中に避難させた。
恵み3人がかりとなれば、たとえ一柱の神だって手は出せない。
タナトスは、鳥かごに閉じ込められた黄金の人魂を掲げた。
人魂はあわあわと中を飛び回り、かごにぶつかっては落ちている。
エルピスの魂だ。
「……なにか条件を突きつけたそうな顔ね」
「今度のパンドラは賢しくて何よりだ」
「教えて、どうしたらエルピスを助けてくれるの」
タナトスは、顔を覆い隠す髪の毛の下で、片眉を跳ね上げる。
「助けてくれる」、と来たか。
思ったより賢しくはないようだ、とタナトスは表情を戻した。
「氷の災厄をなんとかしろ」
「そのために来たわ!!なのにどうしてエルピスを!!」
「…………いや、そうじゃない、私が言葉足らずだった……氷の災厄の手から、私の弟を取り戻せ……それができたら……こいつを貴様に返そう」
「もし、できなかったら?」
「……諸共
彩花は、考えた。何か引っかかりを覚えたから。
パニックで疲れ切った頭を必死に回転させ、その正体を探る。
――――やがて、ひとつの結論に至った。
煮えくり返る腸のままに、タナトスへ見えない炎を投げつける。
「…………あなた、お願いしますって、言えないの?」
「……は?」
「あなた……何だかんだと面倒な理論を組み立ててたみたいだけど……結局はただの一言で言い表せるくだらない理由だわ!!」
タナトスは目の前の女を、たったひとりのたかが人間の女を、だ。
恐ろしいと思ってしまったのだ。
何を言っても黙って目を逸らし頷くような、怒りという感情を別の世界へ置いてきたような、吹けばそれだけで消えるような、ただの善良な人間だったはずだ。
それが今は、タナトスへの怒りで燃え、その敵意と言っても過言でない炎でタナトスを焼き尽くそうとでも言うようだった。
決して希望などでない光に満ちた目が、射殺さんと前に立つ死を睨む。
タナトスは思ってしまった。
自分にこの人間の女は殺せない、と。
タナトスは、分厚い髪の毛の下でぽろりと涙を零した。
◆
「あのね、暗いからそう鬱々しちゃうのよ」
「……だって、太陽は私たち兄弟を見ないし……冥界で太陽を見られるのは、私たちの妹、オネイロスだけだ」
「でも、要するに、太陽ってものすごく大きな火でしょう?お洗濯したりしたついでに火を起こせばいいと思うわ」
「……人間の科学って考え方は、たまにものすごく怖い」
「なにが怖いのよこんな場所にいて」
「…………いや、平気でヘリオスやアポロンを侮辱するから」
タナトスは身震いし、辺りを見回した。
あの自由奔放で身勝手で押しが強く暑苦しい太陽神共が聞いていないとも言い切れない。地球から最も失くさなければならないのは人間だ、と独り言ちる。
「ね、だからそれ渡して?氷の災厄は必ず恵みに戻すと約束するから」
「…………やだ」
「わからずや」
「お前だって、裏切らないとも言い切れないだろう、もしもってこともある」
「何よ、もしもって」
「死んだりとか」
「ええそうよ!!だから言ってるのよ!!わたしひとりじゃここが何なのかすら全く見当だってつかないんだから!!そこまで怪しまなければ生きていけないならあなたが付いてきたらいいでしょう!?」
「…………怒鳴らないでくれないか」
タナトスはエルピスの魂が入った鳥かごを抱え、膝に目を押し付ける。
彩花は正直呆れていた。
冥界の王ともあろう神が、まさか精神的にこんなにも弱っているだなんて、と。
「……ね、本当に頼んでるのよ、わたし……恵みさんたちにはエルピスと箱を守ってもらわないといけないし…………あなたしか、頼れないの」
「……私、しか?」
「ええ、そう!あなたはこの冥界の王さまでしょう?ここを知り尽くしているし、あなたがとても強いってのも、わたしはわかってるつもりよ」
タナトスはもじもじと足元の雑草をいじっている。
でも、とか、だって、とかをぶつぶつ口の中で繰り返しながら。
「ヒュプノスくんだって、見ず知らずのわたしじゃなく、お兄さんのあなたが助けてくれるのを待っているんじゃないかしら……」
「……ヒュプノスが」
「それどころか、見知らぬ旅人のわたしを助けたことについて、きっと誇りに思う」
「…………………………」
残りひと押しな気はするのだが、彩花は交渉材料を使い果たしていた。
あと考えられるものが一つだけあるが、ここを出たがらないひきこもりのタナトスがそれでなびくとも思えない。
だが、いまはそんなことを考えている場合ではなかった。使えるものすべてを使ってでも、エルピスを取り戻さなくてはならない。
「あなたとヒュプノスくんに、太陽を見せてあげる」
「……太陽を?」
「神話世界のと違うかもしれないけど、正真正銘の太陽よ」
渡し人に頼んで、人間界に連れて行ってあげる。
向こうの太陽には神格がないし、昼はいつだって出ている。
まさにうってつけというやつだった。
「……ね?お願い……」
「………………わかった」
彩花は、やっとこさタナトスを同行させることを頷かせたのだった。
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