ep.02 最初の災厄
ざざぁん、ざーっ、ざぶん、じゃば、ざざざー。
(さざなみの音がする……目の前が真っ白になったと思ったら真っ暗)
彩花は窓の外に思いを馳せた。窓の近くには何を置いていたっけ、強くなっていた雨脚でだめになるようなものを置いていたっけ、と。
「パンドラ、おきて!」
「わあぁっ!!」
「めが、さめた?」
目の前には、金のこども。青い鳥がぴちち、と首を傾げている。
そして広がる海、海、海。
彩花が勢いよく体を起こすと、ぐらりと揺れた。貧血やたちくらみじゃない。彩花は自分が船の上にいることにようやく気付いた。三途の川、という言葉が浮かぶ。
「……なに、もっ、いや、あなた……だれ?」
「エルピスはエルピスだよ!」
「そう、エルピス…………ここ、どこ……?」
「えっとね、パンドラの……」
「ちょっと待って、わたし、パンドラじゃないの、彩花っていうの」
エルピスというらしい金のこどもは、ぱちくりと瞬きをし、頷いた。
「でね、彩花のへやはあぶないとおもって、あんぜんなばしょにつれてきたの」
「安全な場所……船の上が?」
「すぐにいれてくれるのが、ここしかなかったから」
「ここって?どこ?」
「ポセイドンのおなかの上さ」
さざなみの音が、くつくつと笑うような音に変わる。
声が確かに聞こえるものの、どこから聞こえているのかわからない。どこからも聞こえていない気がするし、どこからでも聞こえている気もする不思議な声だった。
「やあポセイドン、きゅうなはなしでわるかったね」
「ああ……とうとうか……開かれてしまったのか……エルピス、きみが幾星霜も待ちわびた旅が再び……とうとう、始まるわけだ」
「うん!ものすごくたくさんまっていたよ!」
「我々にはもうどうにもできない……ただ、再びであることを願うばかりさ」
声は消え、凪いだ海だけが残った。
「ごめんなさい、話についていけないんだけど」
「彩花とエルピスはいっしょにたびをするんだよ」
「えっ、なんで」
「はこをあけたでしょう?」
「……あぁ、箱……」
このまま海に飛び込もうかと考えていると、今度は空から声が聞こえてきた。
「私が悪いんだ……私と言っても、前の、だけど……きみは箱を開けて、災厄たちを世に解き放ってしまったのさ、とにかく、きみは悪くない」
「どういうこと……?」
◆
ゼウスはひょんなことからとある箱を作った。
誰かさんへの嫌がらせと、自分の力を誇示するためにね。
「開けてはいけない箱」を開けるように仕向け、実際箱は開けられた。
その時箱を開けた女がパンドラさ。
最初のパンドラには神々があらゆるものを与えたせいで、災厄という災厄が世に解き放たれた。相当大変だったみたいだね。
箱に残ったエルピスがパンドラを導き、災厄を恵みに戻したんだ。
早い話、箱から出たものを箱に収めてめでたしめでたし。
それ以来、世界はそういうものとして進み始めてしまった。
いつの時代にも必ず、箱とパンドラとエルピスが現れるようになったんだね。
神々みんなの力をもってしても、ゼウスの最高傑作を打ち破ることはできない。ま、本当に全知全能だったなら神はたったの一柱でいいはずだしね。
ただ、待つだけさ。
旅の終わりを。
もっと言うなら、箱が開かれないことを。
◆
彩花は、ゼウスに言われるがまましばらく眠った。
現実を受け入れられるようになるまで。
今日得た膨大な情報たちが、脳に事実として沁み込むまで。
「……夢?」
「彩花!目が覚めたのね、よかった……!」
「お母さん?あれ?わたし、どうしたの?」
「ひどい風邪をひいたのよ……ものすごく高い熱が出て……」
まだ熱いからもう少し寝ていなさい、と言って母は横にいたこどもを抱き上げてキッチンへ消えた。金の髪、金の瞳のちいさな……。
「お母さん!その子……!」
「ホームステイに来た子よ、うちで預かることになったの」
「ホームステイ?」
「エルピスも、彩花のかんびょうしたい」
「風邪がうつるからだめですよ」
「やだあ、彩花といたいよう」
扉の閉まる音を聞いて、彩花は乱暴に頭を掻きむしった。
「なに、あの子……お母さんもどうしちゃったの……」
窓は板を当てられていて、下にはほうきとちりとり、そして口を結んだゴミ袋が置いてあった。慌ててベッドの下を見る。箱が転がっていた。
厚みのある石……ムーンストーンだったか、の板で出来ていて、中は真っ暗。
昨日の出来事のせいか、触ってみる気にはなれなかった。
「彩花」
「え、エルピス……?」
「うん!エルピスはエルピスだよ!」
「ねえ、昨日あったことって……いや、ごめん……夢の話」
「ゆめじゃないよ、ポセイドンとゼウスとはなしたでしょう?」
最悪だ。夢じゃなかったなんて。
エルピスは箱を拾い上げ、大切そうにホコリを払う。
そしてそれを、古いトランクにしまった。
「びょうきをなおしてあげたいけど、それはエルピスにはできないし、びょうきをなおせるめぐみもいまはいないんだ」
「……昨日言ってた、災厄とか恵みってなに?」
彩花は起き上がり、エルピスに向き直った。
元々、現実逃避が上手いわけでもないし。
「ゆきすぎためぐみはさいやくとおなじ、さいやくとめぐみはコインのうらおもて」
「つまり……?」
「めぐみをはんてんさせたものがさいやくなんだよ」
「反転……」
ざあざあと雨の降る音がする。
だからか、すこしだけ意識がはっきりしてきた。
「エルピス……あなたは……」
「エルピスはエルピスだよ、はこのなかにのこるもの、パンドラとたびにでるもの」
「じゃあ、わたしと旅に出ないと何も変わらないのね……」
「いっしょにいこ!」
「…………うん」
遠いどこかで、自分を呼んでいる気がした。
もしくは、自分の内側から。
「びょうきがなおったらたびにいこうね」
「……お母さんになにをしたの?」
「エルピス、なにもしてないよ」
「……じゃあ、誰が、なにをしたの?」
「オカーサンがエルピスをみてそうおもったんだよ」
「……まあいいや、なんでも」
頭はふらふらしているし、ものすごく眠い。
◆
彩花は結局、その週残りの日、3日ほど学校を休んだ。
金曜のお昼頃に、ようやく熱が引いたのだ。
今は夜、彩花は部屋でエルピスと向き合っていた。
エルピスはドレッサーを見ていたので、向き合っているとは言えないけど。
「旅ってどこへどうやって行くの?」
「こんこん」
「聞いてるの?」
「かんたんだよ、しんわせかいにいくにはかがみをとおるんだ」
「神話世界?」
「人間界と重なり合うように存在している世界のことです……今のあなたにとっては、幽世だとか、高天原だとか、黄泉平坂だとか言った方がわかりやすいですか?」
「……ぜんぜん、わかんない」
急に現れた人物に驚いたのも束の間、ドレッサーの鏡が部屋中に満ちるほどの光を放った。そのあまりの眩しさに目を瞑ってしまったが、次に開けた時に何か変化がみられるというわけではなかった。光る前と変わらない、自分の部屋。
「いま、光る意味あった?」
「しんわせかいにはいったんだよ」
「それでは、私の仕事はここまでですので」
「ありがとー!」
エルピスがぶんぶんと手を振ると、謎の人物はピカっとして消えてしまった。
◆
「ねえエルピス、こうして街を歩いて、あなた一体なにを探してるの?神話世界って言ったって、元の街と変わったところなんかなにも……」
「あるよ、かわること」
ざあざあと雨が降っていた。ごうごうと水が流れていた。道は川になっていた。
6月には梅雨があるけど、それにしても雨量が多い。
まるで大型の台風が来たみたいな。
「しんわせかいでひとはみえず、ひとのせかいでしんわはみえない……つまり、ひとのせかいでさいやくはみえない、ただことがらとしておこるだけ」
「災厄……」
「みずのさいやくをほうっておくと、ノアのこうずいのさいらいになる」
「ノアの洪水……本当に?」
「みずのさいやくがくるよ」
ちいさな手が、迷いなく天を指す。
円形に広がり続ける雨雲、その中心だった。
ひときわ大きな雨水の塊がばちゃんと落ちてきて、人の形で起き上がる。
「……待ってました、パンドラ」
「いまは彩花ってなまえなんだって」
「…………待ってました、彩花」
「……わたし、どうしたらあなたを恵みに戻せるの?」
昔どこかで見た絵に出てくる、人魚のような姿だ。
水の災厄と呼ばれたそれが、水の流れる音をさせながら、彩花の目の前に立つ。
「私たちを納得させて」
「納得?」
「あなたの言葉で、私たちが恵みであるべきだと」
「……わからない、だって、わたしがなにも言わなくても、雨は降るし、風は吹くし、川は流れて海には波が立つんだもの」
たったひとりの人間に言われて変わるようなものではないはず。
それでも何か言わなくてはならないのだ。もう、足首まで浸かっている。
「……雨は、降りすぎれば世界を洗い流してしまう……でも、雨が降らなければ世界は乾いて……生き物すべてが死に絶えてしまうわ」
ぴちょん。
「彩花、つまりそれはどういうこと?」
「え?えっと……あなたが恵みでいてくれたら、みんな喜ぶわ」
「……いいでしょう」
「へ?」
「私は最初の災厄として立ち塞がった……あとは雨の恵みとして彩花に従います……きっと、使い方を誤らないで」
街に降り注いだ雨が吸い込まれていく。
空に浮かんだ雨雲までが、しゅるしゅると渦巻きながら雨の恵みへ巻き戻る。
「こっちこっちー」
エルピスが、背負っていたトランクから例の箱を取り出す。
「へえ、今回はそういう箱なの」
「ようし、いっしょにたびをしよう!」
雨の恵みは光るしずくへと変わり、箱の中に吸い込まれていった。
「……これで、いいの?」
「しばらくは!つぎのさいやくをさがしにいこう!」
「その前に休ませて……人は夜、眠るの」
「にんげんっていつのじだいもかよわいんだね」
雨雲が消えて、空は星の光を取り戻した。
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