エルピスの大冒険

海良いろ

ep.01 パンドラと希望


どんな悲しみがあっても、人はいつか乗り越えます。

住処が崩れても、写真が焼けても、指輪が濁流に流れても。

友を失い、恋を失い、家族を失ってでも人は生きます。

そうして乗り越えられたひとが必ず持っていたものがありましたね。


「彩花さん、何かわかりますか?」

「……あっ……すみません、聞いてませんでした」

「おうちのことで大変なのはわかりますが、授業には集中しましょうね」

「はい……すみません……」


初夏の風が過ぎていく。

みどりの葉を吹き上げながら。

これから降る雨の支度をしながら。

世界のなにかを変えながら。


「……雨の匂いがする……」


6月最初のしずくが落ちてきた。

それは瞬く間に降り注ぎ、グラウンドを濡らしていった。


(あと10分で帰れる……)


今日こそは誰にも話しかけられないようにと祈り、ただひたすらに時計を睨む。

彩花は、ひとりでいるのが好きだった。友達に遊ぼうと言われれば特に断ることもないし、帰るまでは楽しい気持ちで一緒に遊んでいる。

でもたまに、「自分はここにいるべきではないのではないか」と疎外感を感じたり、時にはひとりきりになりたくて耐えられなくなるのだ。


特に悩みがあるわけでもなく、家庭に問題があるわけでもない。

ただ、彩花の心のずうっと奥深いところで、そう思わずにはいられないのだ。


帰りのホームルームが終わり、彩花はできるだけ目立たないように帰った。

教室を出ると急ぎ足になり、そして学校を出ると駆け足になった。


「あのう、すみません、コンサートホールってどう行けばいいのかしら」

(また道を聞かれた!!)


手早く説明し、感謝の言葉を背に再び駆け出す。

急いでいます、だから話しかけないでくださいね、というオーラを出して。

彩花は外に出る度こうして道を聞かれたり迷子があとをついてきたりしていた。


(はやくかえりたい。どこかに)


今は、家に帰って自分の部屋にこもり、鍵をかけたいと思った。

自分でも心当たりのない疎外感と寂しさ、そして焦燥感。

彩花はたびたび海岸まで走り、窮屈さと息苦しさをごまかした。

それは夜が更けるにつれ楽になり、夜が明けると覚める魔法のよう。


彩花はその後2人に道を尋ねられ、1人の迷子を親の元へ届けた。

毎日のようにそれが起こる、こんな街が正直好きじゃなかった。



「ただいま」

「あ、彩花待って!探しもの手伝ってちょうだい!」

「あー……、いいけど……」

「よかった!おやつ食べて待ってて!」


家に帰ると、早速頼まれ事をしてしまった。ドッと疲れが押し寄せる。

母の体を気遣うため、菓子盆からマドレーヌをひとつ取り、ポケットにしまう。

「これから夏ですよ」ということが嫌でも感じられる、期間限定のレモン味。


「いいよ、わたし探してくるからお母さんは座ってて」

「でも、おやつくらい……」

「もらったから後で食べる」


ポケットをぽん、と叩き、軽く息を吐いた。


「蔵でしょ、なに探してくればいい?」

「浦島太郎に出てくる玉手箱みたいなの」

「玉手箱ね」

「古い手紙が入ってるからすぐ分かるわ」


彩花の家は、骨董品を扱うお店だった。

それだけでなく、古いものを保管したり、預かったり、とにかくそういう。

元々はただ古いだけの家だったけど、昔、大きな地震があった時も壊れなかったことから、その流れが始まったらしい。


「玉手箱……玉手箱ね……」


手紙が入っているということは、店に出す物の区画でなく、家の物の区画だろう。

とりあえず洗濯カゴを用意して、それらしいものを放り込めばいい。

彩花が小さい頃に遊んだおもちゃや、父親のレコード類、アルバム……違う。


「箱……箱……」


レトロな缶には、ビーズやビー玉が入っていた。

今もあるメーカーのクッキー缶だし、これじゃない。

彩花は「箱」という概念に気を取られていた。


がしゃん。


「やだ、なんか壊しちゃった?」


蔵の隅で、何かが落ちる音がした。慌ててそちらに向かい、何が落ちたのか探す。

壊れたものも、ぐちゃぐちゃになっているものも見つからない。

足に硬質な何かが当たり、それを拾い上げた。


石か何かで作られた箱だ。美しい装飾が施されている。

どこから落ちてきたのだろうと見上げると、ひとつ、段ボール箱が倒れていた。


「彩花のたからもの……わたしのだ」


懐かしい。カタカタ動くヘビのおもちゃに、転校していった子から貰った手紙。

四葉のクローバーの栞や、なんだったかの原石、動物の人形、水族館のお土産。

青い鳥の刺繍がされたハンカチに、ミニチュアの豚の貯金箱。


「このままここに座っていたい……」


頼まれ事があるからそうもいかないけれど。

仕方なしに探し物を再開し、やがてそれらしい物を見つけた。



「はい、これで合ってる?」

「そうそう、これ!ありがとう彩花」

「わたし宿題するから……それ、なんの箱?」

「おじいちゃんがおばあちゃんに送ったお手紙たちなんですって」


恋文だろうか。

彩花はついでに持ってきた「彩花のたからもの」から謎の箱を取り出し、母親に見せた。明るいところで見るとわかるが、大理石とも違う白い素材だった。


「へぇ……ねえ、この箱憶えてる?」

「あら、見たことない箱ね?」

「宝物の箱に入ってたの」

「誰かから貰ったんじゃないの?」


彩花はよく蔵に入り込んでは秘密基地だといい、自分の宝物をどんどん秘密基地の箱にしまい込む子だったから。そのうちこうして専用の段ボールを作ったわけで。


「彩花が知らないのに知るワケないでしょ」

「ふぅん……」


仕方なく、自分の部屋に持って行く。

回転させながら眺めてみた。やはり、何度見てもこの上なく綺麗な装飾だ。

素材はやや透明感があり、天の川のようなきらめきが表面に走っている。


「……開けて、いいのかな」


横に置いた宝物の箱から音がした。ヘビのおもちゃだ。

まるで「開けていいよ」と頷いているように見えて、首を振る。まさか、だ。

ただの偶然、階段を上がった振動のせいだろう。


ぜんまいを巻くとしばらくカタカタ動くらしかったが、実際は放り投げたりぶつけたり、はたまた、ただ置いただけの衝撃でカタカタいうような安物だった。

彩花にはそれが生きているように感じられて、大好きなおもちゃだったけど。

いつからそれで遊ばなくなったのか思い出せない、それくらい昔の話。


「……そうだ、先生に聞いてみようかな」


たしか、地質学を趣味にしている変わり者の先生がいたはずだ。石とか岩とか、そういったものが大好きで、デスクの上を河原みたいにしている先生。


「じゃあ宿題しちゃお」


考えるのは明日でいい。

とりあえず、夕飯の時間までに宿題を終わらせよう。





「彩花、悪いんだけど今日掃除当番代わってくれない?」

「掃除当番ね、やっとく」

「ありがとう!次、彩花の時代わるから!」

「別にいいのに……」


「こういうのはちゃんとしないとなの」と、律儀なクラスメイトは手帳に書き込んでいた。まあ、自分から頼んだことでしっかりしているのは良いことだろう。


(終わったら準備室に寄ろう……)


随分、日が長くなった。おかげで、最近は早朝に一度は目が覚めてしまう。

廊下からバタバタと足音が聞こえてきて、別のクラスの友人だろうと思った。


「彩花!」

「どうしたの?」

「今朝言ってたじゃん、箱がどうのって」

「あぁ、あれね……地理の先生に調べてもらおうと思って一応持ってきたんだけど」

「見てみたい!見せて見せて!」

「いいけど、掃除終わったらね」


友人は教卓に頬杖をついて鼻歌なんか歌いながら彩花を待っている。

広くない教室だ、手伝いも要らず、10分もあれば余裕で終わった。

彩花は通学鞄から箱を取り出し、友人の待つ教卓へ置く。

不本意にゴドン、と重い音がした。


「これって、中身なに?」

「わかんない」

「開けないの?」

「だって、わたしのじゃないかもしれないし」

「気になるじゃん!あ、じゃあ先生に聞いてもわからなかったら開けてみようよ!」

「うーん……そうね、そうしよう」


地理準備室を5、6回ほどノックすると、ようやく返事があった。

挨拶をし、軽く雑談(というには長い話を聞かされた)をした後、本題に入る。


「へぇ……」

「なにかわかります?材質とか……」

「ちょっと待ってな!歴史の先生も呼ぶから!!」

「えっ」

「ちょっと先生!!面白そうなものを持ってきた子がいますよ!!」

「なに!どれ!?」


謎が謎を呼んだのか、地理、歴史、そしてなぜか美術の先生まで来てしまった。


「古代エジプトの棺にこういったものがあったと思う」

「1800年代に描かれた絵画で、同じようなものを見たことがありますね」

「材質はなんだと思う?」

「ムーンストーンとよく似ていると思う、ほらこれと同じ」

「あら、綺麗じゃない!一個ちょうだい」

「やだ」

「けち」


西日が射してきている。

そろそろ帰ろうと立ち上がったところで、先生(地理)があることに気付いた。


「これ、最近作られたものじゃないかな?」

「え……どうして?」

「いやね、ムーンストーンって湿度とか温度の変化に弱くてね、それにとても傷つきやすい石だから……古いものならこんなにつるりとした表面にはならないんだ」

「でもわたし、これ一回落としてるんです」


このくらい、と蔵の中、宝物の箱があった高さを手で示す。椅子に座っている彩花の、ちょうど頭のてっぺんと同じくらいの高さだ。


「よし!じゃあ結論!」

「はい」

「わかりません!」

「案外、うさぎやハムスターの棺だったりして」

「あはは、ペット用の棺ってこと?」

「えっと……ありがとうございました」


彩花は変な話で盛り上がる準備室から出て、疲れから来る頭痛に頭を押さえる。

いつの間にか友人が逃げていることに気付き、ため息を吐いた。

下駄箱に寄りかかる姿を見つけ、カツカツと駆け寄る。


「彩花!どうだった?」

「逃げたでしょ」

「話長いんだもんあの人たち!」

「はぁ……結局、わかんなかった……だからもう、開けちゃうことにする」


落として割れたら片付けが面倒なので、彩花の家で開けることにした。

最初っから、そうすればよかったのだ。自分の宝物なのだ。見覚えがない箱というだけで、中身はどうせおもちゃの指輪とか、キーホルダーなんかに決まっている。



「あら彩花、帰ったの?」

「うん、ただいま……友達、遊びに来たから」

「あら、お友達?」

「おじゃましまーす」


家まで連れてくる友達が皆無だからか、母親が物珍しそうに彩花を見ている。

なんだか照れくさくなった彩花は、菓子盆を引っ掴んで言った。


「別に……すぐ帰るから気にしなくていいよ」


赤い顔を隠し、そそくさと階段を駆け上がる。


「……さては好きな子かしら」


そんな母親の詮索も、自室の扉を閉めた彩花には聞こえなかった。



「開けるよ?」

「はやくはやく!」


友人は待ちきれないという顔で彩花を急かす。


(そういえば落とした時、箱は開いてなかったような……)


もしかしたら開かないのではないか、という心配をよそに、蓋は開いた。

落ちた時や鞄の中で開かなかったのが不思議なほどに抵抗もなく、あっさりと。


「開い……」


窓ガラスの割れる音がした。

階下から母の慌てた声がする。

彩花は、何が起こったのか理解できなかった。


黒い風だ。

黒い風が部屋中に吹き荒れたかと思うと、窓を割って出て行った。


ひどい貧血になった時のように、脂汗が止まらない。

窓を割ってしまったからじゃない。

割れた窓から、降り始めた雨が入り込むからでもない。


わからなかった。

わからないのに、彩花はひどい後悔と死にたくなるような自責の念に襲われた。


「彩花!何かあったの!?」

「お母さん……なんでもないの、ぶつけちゃっただけ」

「あなた、変よ?顔色も悪いし、来るって言った友達だって一向に来ないし……」

「…………え?」

「友達と喧嘩でもしたの?」


目の前が暗くなりそうだった。

何が起こったのか、自分だって理解できていないのに畳みかけられて、大きな声で叫びそうになってしまう。必死に抑える。いつだって必死に抑えているから、限界だ。


「あ、ごめんなさい、びっくりしちゃってかくれたの」

「まあ……随分ちいさいお友達ね?あ、そっか、そういうこと!」

「え、なに、ちょっと待ってお母さん……」

「物置から窓を塞ぐ板を持ってくるわ、それくらい平気よ」


混乱する彩花を置いて、母親はしたり顔で笑いながら降りて行ってしまった。

彩花は、目だけをそろ~っと動かし、を見やる。


「あいたかったよパンドラ!」

「ひっ!!」


金髪で金の瞳を持つこども。3~5歳くらいの、本当に小さい。

そんなこどもがいきなり抱き着いてきた。見知らぬ子供に抱き着かれることはたしかにちょくちょくあったものの、家の中に入り込まれたのは初めてのことだった。


「ひ、人違いだよ……」

「ちがわないよ、パンドラだよ」


パタパタと、青い鳥が金のこどもの肩に止まる。

ああ、窓ガラスの破片を片付けなければ、そんな考えにとりつかれた。

逃避のせいで現実感を失った彩花は、こどもにひとつの質問をした。


「あなた……どこから入ってきたの?」

「そこからでてきたんだよ」

「玄関から入って来ちゃったの?」

「ううん、そこにずうっと、ずうっと、いたんだよ」


ちいさな手のちいさな指が示したのは、床。地面ということ?

目の前がどんどん白くなり、彩花は生まれて初めて、失神した。


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