二〇章 シン・グよ、お前もか!

 「どけえっ!」

 強化スーツに身を包んだシン・グの部下たちが殺到さっとうするなか、裂帛れっぱくの叫びと共に百合の《力》が吹き荒れる。圧縮された大気の塊が渦を巻いて荒れ狂い、悪党どもを吹き飛ばす!

 シン・グの部下たちは必死の形相で大型の銃やマシンガンを乱射した。しかし、一切の遠慮を捨てて解放された百合の《力》は銃弾さえも風に巻かれる木の葉のように吹き飛ばし、寄せ付けることをしない。

 放たれた銃弾は百合を傷つけるどころか、側に近づくことすらできずに吹き飛ばされ、逆にシン・グの部下たちの体にめり込んだ。

 血がしぶき、悲鳴が上がる。百合の《力》はますます吹き荒れる。古びたホテルに偽装された悪の秘密基地のなかは、さながら竜巻に襲われた森のよう。すべてが引きちぎられ、渦を巻き、吹き飛ばされる。

 ただし、ここで吹き飛ばされるのは木の葉や木の枝などではない。人を人とも思わぬ悪党どもだ。すさまじい力の奔流ほんりゅうに悲鳴をあげて、あるいは壁に、あるいは天井に、次々と叩きつけられる。

 シン・グの部下は後からあとから湧き出てくる。総帥である私にとってさえ予想外の数の多さ。しかし、一切の迷いを捨て、最新鋭の強化スーツに身をまとった百合を止めることなどできはしない。

 現れる端から吹き飛ばされ、あるいは壁に、あるいは床に叩きつけられる。窓ガラスを打ち破り、遙かな地上へと落下してくものもいる。

 ああ、なんと痛快な光景!

 ざまを見るがいい、人を人とも悪党ども。泣け、わめけ、悔い改めよ。死の間際に自らの過ちを悟り、嘆くがいい!

 わあっはっはっはっはあっ!

 ……いかん、思わず興奮してしまった。これでは私が悪のボスだ。いやまあ、実際、悪のボスなのだが――それにしても。

 正義の怒りに燃えあがり、颯爽と突き進む我が娘の何と言う格好良さ! 殺到する雑魚敵どもを蹴散らして、悪の首魁しゅかいのもとへとせまくその姿!

 これぞまさに王道のヒーロー展開、正義の味方!

 うおおおっ、燃えてきたあっ!

 これだ、これこそおれのやりたかったことだ。しかも、それをやっているのは私の娘、私と私の妻との愛の結晶なのだ。その娘が私の夢を叶えてくれた……ううう、最高だ。最高すぎる。

 体が震える。

 涙が止まらない。

 ぬぐってもぬぐってもあふれ出る。これでもう死んでもいい……。

 ……ああ、いや、もちろん、愛する娘を残して死ぬわけにはいかない。『死んでもいい』というのはもちろん、単なる言葉の比喩ひゆだ。とにかく、それぐらい感極まっていたと言うことだ。

 もちろん、涙を流して娘の活躍に見入っていたわけではなく――そうしたいのは山々だったが――私は私でミスターFとして全力で百合のサポートをしていた。百合と肩を並べて直接、戦うわけには行かないが、シン・グの部下たちの強化スーツを片っ端からハッキングしてその能力を奪い取っていった。

 《毒狼どくろ》で生産されたときそのままの状態ではなく、着用者に合わせてそれぞれカスタマイズされているので完全に能力を奪う、と言うわけには行かない。それでも、かなりの程度、弱体化させることはできる。そうしてしまえば《毒狼》の総力を挙げて開発した強化スーツと言えど、そこらのパワーアシストスーツと変わりない。何十人、何百人集まろうが、最新最強の新型スーツをまとった百合の敵ではない!

 百合は群がる雑魚どもを蹴散らし、階段を駆けのぼる。最上階のシン・グを目指して。

 『ユーリ! 右側通路から約二〇人! 右斜め前にある隠し扉から隠し通路に入り込み、後方に回り込んで急襲するんだ。隠し通路の順路はナビゲートする!』

 『はい!』

 私はハッキングと同時にホテル内をモニターし、シン・グの部下たちの動きを掌握、もっとも効率よく、もっとも的確に倒せるよう、百合に指示を下す。これぞ、組織のすべてを把握する総統の特権。最新鋭のスーツによって強化された百合の能力と、ホテル内のありとあらゆる隠し通路、隠し装備を知り尽くす私のナビゲートがあれば、シン・グの部下などどれだけいようと物の数ではない。すべてを蹴散らし、最上階へとひた走る……!

 ……それにしても、どうして、悪の親玉というのは高いところにいると決まっているのだろう。

 いやまあ、この際、そんなことはどうでもいい。重要なのは悪の親玉目がけて突き進む百合は本当に格好良いということ、ただそれだけだ。

 百合は三〇〇人からのシン・グの部下をことごとく蹴散らし、ついにホテルの最上階、シン・グのいる部屋へとたどり着いた。扉の前で立ち止まる。ドアノブに手を駆けようとほっそりした腕を伸ばす。と、その腕が途中で止まる。気を落ち着けるかのように深呼吸をひとつ。

 ……うう、気持ちは分かる。いよいよ正義と悪の最終決戦。高鳴る胸を押さえられない。私も深呼吸して気を落ち着かせなければ。

 百合は気持ちを落ち着かせたところでドアノブに手をかける。その途端、数百万ボルトの電流が流れて……などと言う展開はもちろん、ない。このドアに細工がないことはすでに確認済みだ。そうでなくてなぜ、百合がドアノブに手をかけることを黙って見ているものか。

 私がモニターを通じて見守るなか、百合はついにドアを開け、室内に入った。シン・グの待ち受ける部屋のなかへと。

 そこにシン・グはいた。広い部屋の一番奥、階下を見下ろす窓ガラスの手前に置かれた重厚なデスク。その向こうにある椅子の上に、こちらに背を向け、窓の外を見る格好で。

 百合が一歩、踏み込んだ。椅子が回転した。シン・グがこちらに顔を向けた。笑っているわけではないのになぜかいつも微笑みをたたえているような顔が百合を見た。

 ううむ。この待ち受け方、そして、展開。まさに『悪の親玉』そのもの。さすがはシン・グ。『お約束』というものを心得ている。やはり、この男だけはあなどれない。

 「……シン・グ」

 百合が緊張を含んだ声で呼びかけた。

 シン・グはいつも通りの、笑っているわけではないのになぜか微笑みを湛えているような表情で答えた。

 「やあ。ようこそ、ユーリ君」

 シン・グの口調にも、表情にも、変わった様子は見られない。いつも通りの、小憎らしいほどの余裕をまとったその姿。

 緊張のあまり身を震わせている百合とは、あまりにも対照的だ。どうして、この期に及んでこんなにも余裕でいられるのだ? 部下はすべて倒され、もはや、自分ひとり。強化スーツを着ているわけでもない生身の人間ただひとりで、最新鋭のスーツを身にまとった百合に敵うはずがない。それぐらいのことはわかっているはずなのに。

 見栄みえか?

 虚勢きょせいか?

 退路を断たれ、為す術をなくし、せめて外見だけでも取りつくろおうと必死に虚勢を張っているのか?

 そうだ、と、信じることができればどんなによかっただろう。あいにくと、そう信じるためには私はシン・グという男を知りすぎている。

 この男がそんなつまらない見栄を張るわけがない。この男が余裕をもって対応しているからには、そうできるだけの理由がある。

 私はそのことを確信していた。

 したくはないが、せざるを得ない。それだけ私はシン・グという男を知っているのだ。

 いったい、何を隠している?

 どんな切り札をもっている?

 私は不吉な予感が頭のなかに渦巻くことを止めることができなかった。

 「シン・グ」

 百合が重ねて言った。その声にも、表情にも、ひどい緊張の跡が見える。百合も感じ取っているのだ。この男の不気味さを。

 私同様、不吉な予感に狩られ、不安を感じているにちがいない。それでも百合は不安を抑え、シン・グに語りかけた。まるで、母親が子供を諭すようにゆっくりと。

 「あなたの部下はみんな、倒した。もうあなたひとりよ。お願い、降伏して。あたしはもうこれ以上、誰かを傷つけたくないの」

 おお、百合。お前はなんと優しい娘なのだろう。人を人とも思わぬ悪党どものことまで心配してやるなんて。

 しかし、悲しいかな。

 シン・グという男がそんな優しさが通じる相手ではないことを私は知っている。

 百合の優しさが完膚かんぷなきまでに拒絶され、打ち砕かれる様を私は予想した。そして、その予想は完璧に的中した。

 「降伏?」

 シン・グが指を口元に当てながら笑って見せた。このときばかりは笑っているわけでもないのに微笑みをたたえているような、と言うのとはちがう、正真正銘の苦笑だった。

 「そうだな。それぐらい追い詰められたら幸せだろうな」

 「なにを言っているの?」

 百合は思わずそう聞き返していた。百合でなくてもそうしていただろう。私だってその場にいたら絶対、そう聞き返していた。シングの言葉はそれぐらい不可解なものだった。

 しかも、その声に込められた感情といい、表情といい、虚勢を張っているとか、ごまかしているか、そんな風には見えなかった。心から、肚の底からそう思っているとしか思えなかったのだ。

 シン・グはつづけた。ふう、と、いかにも切なそうな溜め息をついてから。

 「おれはな。これまでの人生で失敗したことがないんだよ」

 「えっ?」

 「おれは何でもできる。何でもうまく行く。出来てしまう。例え、わざと失敗しようとしてもそうはいかない。必ず、成功してしまうんだよ」

 「なにを言っているの?」

 百合は再びそう尋ねた。

 私も同じことを聞きたかった。

 それは、シン・グの言葉にある種の違和感を感じたからだ。シン・グはその言葉を自慢として言っているのではない。それどころか、どうしようもないほどの悲しみを感じさせる口調で言ったのだ。

 「そう。ユーリ。君には明かしてしまおう。おれは転生者だ」

 「転生者⁉」

 何だと⁉

 「おれは前世ではそれなりに名の通ったスポーツ選手でね。世界記録を塗り替えるのではないかと期待されていたものさ。ところが……」

 シン・グは苦笑した。

 「好事魔多しというやつかな。その矢先、事故に遭って死んでしまったんだ。酔っ払い運転に巻き込まれて車に押しつぶされてペシャンコさ。将来を嘱望しょくぼうされたスターにしては何ともあっけない最後だったよ」

 「だから……だから、転生したの? そんな死に方が納得できなくて」

 百合はそう言った。

 もし、そうだとしたら私と同じではないか。私は『ヒーローになりたかった』と悔いる一心で転生した。もし、シン・グも自らの最後に悔いを残し、その悔い故に転生したのだとしたら……。

 「いやいや」

 百合の言葉にシン・グはまたも苦笑した。

 「別にそう言うわけじゃない。もちろん、いよいよこれからと言うところで死んでしまうことは残念だったよ。でも、ある意味、納得もしていたんだ。何しろ、前世のおれは色々な意味で恵まれすぎていたからね。顔はいい、スタイルはいい、才能にあふれ、環境にも恵まれて、モテ放題。まさに順風じゅんぷう満帆まんぱんな人生さ。『人生、思い通り』というやつだったよ」

 ……ううむ。このシン・グの前世だと言うならさもありなんとは思うが……こうも堂々と自慢されると腹が立つ。私など、前世では『中二病』と揶揄やゆされるばかりの平凡な人生だったというのに。

 いや、本人にとっては自慢しているという認識すらないのだろう。ただ淡々と事実を述べている。それだけのことにちがいない。だとすれば、それはそれでやはり、腹が立つ。

 シン・グはつづけた。

 「だからまあ、最後を迎えたとき、こう思ったんだ。『ああ、そうだよな。いままで恵まれすぎだったもんな。これぐらいの落とし穴はそりゃあるか』ってね。ところが……」

 シン・グは再び苦笑した。

 悲しくて、悲しくて、悲しすぎてもう笑うしかない。そんな気持ちを感じさせる笑い方だった。

 「何をどうまちがったのか転生してしまってね。もちろん、前世の記憶を持ったままだ。しかも、転生の効果か知らないが、やっかいなスキルまで付与されてしまってね」

 「スキル?」

 「そう。これさ」

 「………⁉」

 百合は驚きに目を見開いた。私も同じだった。シンクは何を思ったか、デスクの引き出しを開けると、黒光りする大きな銃を取り出したのだ。

 H&K USP。

 数多くの軍・警察に採用されたヒット作。.45ACP一二発装填可能な強力な銃。

 もちろん、『銃を取り出した』だけなら驚くことはない。生身の人間が最新鋭の強化スーツに身を包んだ正義のヒーローを相手取ろうというのだ。この程度の武器のひとつやふたつ、用意していなければむしろ、おかしい。

 私と百合が驚いたのは銃を取り出したことではない。銃口を向けた先だ。シン・グはその銃口を自らのこめかみに押し当てたのだ!

 驚く百合の目の前で、シン・グは引き金にかけた指に力を入れた。

 大きな音が響いた。

 銃口から巨大な.45ACP弾が放たれ、至近距離からシン・グの頭部を直撃。シン・グの頭部はバラバラに粉砕され、原形もとどめぬ姿になって辺り一面に吹き飛ばされる……はずだった。

 そうはならなかった。その寸前、大きな音を立てて窓ガラスをぶち破り、跳び込んできたものがいたのだ。

 それはカラスだった。

 一羽の大きなカラスが窓ガラスをぶち破って突入し、シン・グのこめかみに当てられた銃に体当たりをかまし、シン・グの手から銃を吹き飛ばしたのだ。

 そして、銃声。

 すべてが静かになったとき……部屋のなかにはシン・グの身代わりに.45ACP弾を受けて粉々の血と肉の塊と化した一羽のカラスの骸があった。

 唖然として声も出ない百合に向かい、シン・グは言った。

 「これがおれのスキル。その名も『世界の愛』さ」

 「世界の……愛?」

 「そう。世界の愛。この世のすべてが自分にとって都合良く動いてくれるというとんでもないスキルさ。単なる幸運とか、そんなレベルじゃない。この世のすべてが自分のために、ひたすら自分に都合良く展開するように動いてくれるんだ。おれの身を守るために、縁もゆかりもないこのカラスが自らを犠牲にしたようにね」

 なんと。そんな途方もないスキルがあったのか。では、シングの並ぶもののない有能振りはそのためだったのか。

 世界のすべてが自分のために協力するとなればなるほど、なんだってできる、不可能などあるはずもない。

 だが、シン・グは両手を肩の高さにあげると、悲しそうに言った。

 「どうだい? ひどい話だろう?」

 「なにがひどいの⁉ そんなスキルを持てるなんて、夢みたいな話じゃない!」

 百合の言葉に……シン・グは悲しげに微笑んだ。それはまさに『誰も自分を理解してくれない』という、孤独故の悲しみの笑いだった。

 「夢みたい、か。たしかに、自分で体験しなければそう思えるだろうね。日々、いそがしく働く人間が『一生、遊んで暮らしたい』と思うようにね。しかし、そんな願望、毎日、必死に働いている身だから思うことだよ。実際に毎日まいにち遊ぶことしかやることがないとなったら、それはそれは辛いものだよ。

 それと同じ、いや、それ以上さ。何しろ、このスキルがある限り、おれは何もしなくていいんだ。近所のコンビニに買い物に行くのにさえ、自分で何かをする必要はない。使用人たちによって運ばれ、車に乗せられ、コンビニまで送り込まれ、他人が買い物を済ませ、また車で家まで送り返される。そんな有り様さ。

 たまにあることだったらそれもいいだろう。でも、人生のすべてがその調子だったとしたら? 自分では何もしなくても、すべてが自分にとって都合よく動くとしたら?

 そんな人生のどこに達成感や充実感がある?

 生きているという実感をもてる?

 自分では何もできない。何も為せない。それなのに、すべてをあてがわれ、ベルトコンベアに乗せられてただひたすらに『成功』という道を運ばれつづける。何の感動も、感慨すらもなく時を重ね、やがて年老い、ただ一度の達成感すら感じることなく死んでいく。

 それがおれの人生。

 『世界の愛』というスキルによって押しつけられたおれの宿命。

 世界の愛?

 とんでもない。呪いだよ、これは。

 おれはそんな人生は送りたくなかった。抜け出したかった。だから、失敗したかった。負けてみたかった。何かに失敗し、負けてみることで、挑むことの出来るなにものかを得たかったんだ。だから、悪の組織に入った」

 「どういうこと?」

 「悪の組織の一員として悪事の限りを尽くせば、正義のヒーローが立ちはだかってくれるかも知れないじゃないか。そのなかにはおれと同じ転生者がいるかも知れない。おれのこの呪われたスキルを凌駕りょうがする力を持つ何者かがね。その何者かに敗北することで挑戦できる目標を手に入れる。それだけが、おれがこの完璧にあてがわれた人生から抜け出す唯一の希望だったんだよ。でもね……」

 はああ、と、シン・グは限りなく切ない息を吐いた。

 「ユーリ。君では無理だ。君ではおれは止められない」

 そう告げるシン・グの声は何とも言えない悲しみに覆われていた。しかし、百合は叫んだ。

 「そんなことない! わたしはあなたを止める。止めてみせる!」

 キッパリと、迷いなく、断固として、百合はそう叫んだ。それは、自分のすべてを懸けた誓約の叫びだった。

 「そんなスキルを持たされてしまったあなたは、たしかに不幸なのかもしれない。わたしにはとうていわからないつらさや悲しみがあったのかもしれない。でも、だからと言って、他の人たちを巻き込んで不幸にしていいことにはならない。あなたは自分ひとりの思いのために大勢の人を死なせた。その人たちが、その人たちの家族や友だちがどんなに悲しむか、そんなことはちっとも気にせずに。あなたの能力が、あなたの言うとおりなら、世の中すべてを良くし、世界中のみんなを幸せにすることだってできたのに。あなたはそうせずに悪の道を進んだ。あなたは……悪人よ」

 よく言った、百合。

 それでこそ私の、私とさきの娘。悪の語る悪の論理にたぶらかされてはならない。悪に報いる道はただひとつ。鋼の正義をもって断罪すること。ただそれだけなのだ。

 「意気込みは立派だけどね」

 何が起きたのか分からなかった。椅子に座っていたはずのシン・グの姿が突然、消えた。気がついたとき、その姿は百合の目の前にあった。それこそ、恋人にキスでもするかのようなごく間近へと。

 「………⁉」

 百合の表情が驚愕きょうがくにこわばる。

 シン・グの腕が跳ね上がった。百合の体に手のひらが触れるかふれないかのうちに百合の体は吹き飛ばされていた。

 嘘だ!

 私は思わず叫んだ。

 体が震えるのを止められなかった。

 あり得ない。あり得るはずがない。

 いくらシン・グが規格外の化け物だと言ってもしょせんは人間。強化スーツを着ているわけでもない生身の人間が、強化スーツに身をまとった人間を吹き飛ばす。そんな真似ができるはずがなかった。

 「こんな真似ができるはずがない。そう思うかい?」

 もちろんだ!

 シン・グの問いに、私は思わず叫び返していた。

 百合もそう叫びたかったにちがいない。しかし、壁に叩きつけられた衝撃と、何よりも驚きのあまり、とっさに声が出てこない。ひたすらあえぐばかりだ。

 「ところが、それができてしまうんだよ。おれという人間、いや、転生者にはね。おれがスキルとして付与されたのは『世界の愛』だけじゃない。チートとしての身体能力もまた付与されていたんだよ」

 そう言うなり――。

 シン・グの姿が再び消えた。

 百合の真後ろに現れた。百合がそのことに気がつき、振り返るいとますらもない。シン・グの腕が跳ね上がり、拳が百合の顔面に触れた。決して力を入れたようには見えなかった。まるで、親獅子がじゃれついてくる子獅子に対してするような、軽い一撃。それなのに――。

 「きゃあっ!」

 百合は悲鳴をあげて吹き飛ばされていた。バットに弾かれた野球のボールのように壁に叩きつけられた。自分の身にいったい何が起きたのか。百合にははっきりとは分からなかったにちがいない。

 シン・グが動いた。いや、消えた。百合の前に現れ、拳を叩き込む。消えては現れ、現れては消え、シン・グは百合を打ちのめす。百合にはその動きに付いていく術すらない。一方的に打ちのめされるばかり。強化スーツを着ていなければ百合の体はたちまち五体パラパラにされていただろう。それぐらい、シン・グの一撃いちげきは強烈だった。それでもなお――。

 シン・グが百合を傷つけないよう手加減していることは、はっきりとわかっていた。もし、シン・グが本気で殴っていれば百合は一撃で殺されていただろう。

 強化スーツに身を包んだ人間を一撃で殴り殺せる人間。まさか、この世にそんな人間が存在していたとは。

 私はひざがガクガク震えるのを止めることができなかった。

 しまった。

 何とうかつだったのか。

 私という転生者がいるのだ。他にも転生者がいて不思議はないではないか。そして、私が転生によって超能力を得たのなら、それ以上のチート能力を付与された転生者がいてもなんらおかしいことはない。そして、シン・グこそはそのチート能力を付与された怪物だったのだ。

 いや――こう言うべきか。

 チート能力を付与された勇者――と。

 しかし、私はそんな可能性はつゆとも考えなかった。まるで気付くことすらなかった。そしていま、その怪物の前に愛する娘を差し出してしまっている……。

 殴る、

 殴る、

 殴る。

 シン・グは殴る。

 殴りつづける。

 私の娘を、私と咲の間に産まれた愛の結晶を。

 見えるものはシン・グが百合を打ちのめす姿ばかり。聞こえるものは百合のあげる悲鳴ばかり。それ以外のすべては私の神経という神経から排除されていた。

 「くっ……!」

 シン・グの攻撃が止まった、いや、わざと手を休めたその瞬間、百合が決死の覚悟で《力》を放った。圧縮された空気の塊が目に見えない大砲の弾と化してシン・グに打ち込まれる。だが――。

 なんと言うことだろう。シン・グは自らの拳でその空気の塊を打ち返し、粉砕してしまったのだ。

 「なっ……!」

 百合は驚愕のあまり、目を見開いた。

 百合でなくてもそうするしかなかっただろう。私も同じだ。ふたつの目とひとつの口をあんぐりと開けて、そのあり得ない光景に見入っているこしかできなかった。

 シン・グは当たり前のように告げた。まるで、おいしい家庭料理を作るコツを伝えるかのような気楽さで。

 「大したことじゃない。君の力は大気を圧縮して打ち出すもの。そう言ったな。だったら、自らの拳をつかってそれ以上の風圧を作り出せば簡単に打ち消すことができる。ただ、それだけだよ」

 「そ、そんなことが……」

 「できるんだよ、おれなら。できてしまうんだよ、悲しいことにね。『世界の愛』というチートスキルと、チート過ぎる身体能力。そのふたつを付与されたのろいの御子みこ。それがおれ、シン・グなのさ。

 どうだい、ユーリ。ここまで見せれば君にも分かるんじゃないか? こんな使い道のない力を与えられ、すべてがあてがわれた世界で生き続けることの苦しさが。だから、おれは負けたい。敗北したい。そして、挑戦する対象を得たい。おれだって、人生で達成感や充実感を得たいんだ!

 なのに、なぜだ、ユーリ。なぜ、君はそんなに弱い? 正義のヒーローなのに。悪の怪人を倒すべき立場なのに。どうして、おれを倒してくれないんだ!」

 いまや、シン・グはは泣いていた。泣きながら百合を殴っていた。

 「弱い、弱い、弱い、弱すぎる! それでは一〇〇人いたっておれには勝てない! せめて、もう少しでも強ければ『将来に期待して生かしておこう』という気になるかも知れない。でも、これではそんな気にもなれはしない。このまま殺してしまうしかないじゃないか!」

 シン・グは泣きながら百合を殴る。殴りつづける。百合はもはや抵抗する気力すらない。拳よりも何よりも、その圧倒的な力の差に打ちのめされ、殴られるだけのサンドバックと化していた。

 ――ここまでだ。

 私は意を決した。

 ――この男には勝てない。これ以上、百合にこんな化け物の相手をさせておくわけには行かない。

 おれが、高峯たかみね志狼しろうが戦うしかない。

 おれはそっと胸に手を置いた。その胸の奥、そこでは心臓が脈打つ代わりに機械が動き、血を流している。

 そう。おれのなかに生身の心臓はすでにない。埋め込まれているのは機械の心臓。おれの心臓はとうに百合に譲っている。

 我が最愛の妻、咲の生命を奪った憎むべき病。

 咲の家系に代々伝わる遺伝性の業病ごうびょう

 心臓の欠陥。

 その代々受け継ぐ心臓の欠陥によって咲が若くして死んだときおれは決めたのだ。

 ――百合を、おれたちの娘をこの呪いから解き放つため、おれの心臓を移植する、と。

 もちろん、百合はそんなことは何も知らない。すべては百合の知らないうちに処理した。知らないうちに薬をもって眠らせ、知らないうちに手術をほどこした。

 百合の体に比して大きいおれの心臓を埋め込むため、胸部の拡張手術をしなければならなかった。百合の胸が歳の割に大きい本当の理由がそれだ。やり過ぎと承知しつつシャワーシーンまでモニターで監視していたのもそのため。

 ただでさえ心臓に負担のかかりやすい入浴行為は、体に合わない心臓をもつ百合には死活問題。常にバイタルを監視し、注意しておかなくてはならなかったのだ。

 そして、おれ自身には開発中だった人工心臓を埋め込んだ。本来ならばこの人工心臓によって咲を、そして、百合を、代々の呪いから解き放つはずだった。しかし、間に合わなかった。聖狼せいろ電子産業と《毒狼》、ふたつの組織の技術をフルに注ぎ込んでもなお、完全な人工心臓を作ることはできなかったのだ。

 これが、おれが百合と共に戦えなかった理由、『ミスターF』として陰ながら支えることしかできなくなってしまった理由なのだ。

 未完成の人工心臓では激しい動きなどできはしない。歩き、座り、静かに毎日を過ごすのが精一杯。そして、心臓を取り出した副作用からか、生来、持っていた超能力もなくしてしまった。

 いまのおれはチート転生者などではない。人並みの運動すらできないただの中年男なのだ。

 だが、もはやそんなことは言っていられない。このままで百合はシン・グによって殺される。それだけは防がねばならない。おれの生命と引き替えにしてでも。

 それが……それこそが父親としての役割、そして、咲との約束。

 おれは人工心臓のセーフティーを切ることに決めた。そうすることで激しい運動も可能になる。

 戦うことができるようになる。

 もちろん、そんなことが可能になるのはほんの一瞬。その一瞬が過ぎてしまえば未完成の機械の心臓は負荷に耐えかねて停止してしまい、私は死ぬことになる。だが、それがどうした。愛する娘のためならばおれの生命なそ惜しくはない。

 いや、もちろん、おれが生命を捨てて挑んだところでシン・グに勝てるわけがない。いまのおれはもちろん、全盛期の、自分の心臓を持ち、圧倒的な身体能力と超能力を持っていた二〇代の頃のおれでさえ、とうてい無理だ。あの頃のおれが一〇人いてもシン・グに勝つことはできない。だが、殺されるのを承知で戦い、時間を稼ぐことはできる。その間に百合を逃がすことはできる。

 それだけで充分だ。百合を生かすことさえできればそれだけでおれの、父親としての勝利なのだ。

 おれは人工心臓のセーフティーを切……ろうとした。その寸前――。

 奇跡は起こった。

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