一四章 娘の覚悟と健気さに我が身の罪深さを思い知らされる

 《叛斗はんと》が議事堂を占拠してからというもの、各地で《叛斗》を名乗る人間による事件や、ネット上への脅迫の書き込みなどが行なわれるようになった。

 むろん、それは何の関係もない。騒ぎに便乗しただけの愉快犯にすぎないのだが、放置しておくわけにもいかない。それらの対応にてんやわんやになってしまい、肝心の根本的対策に力をそそげないという本末転倒な事態にさえなっていた。

 もうこうなると笑い話だ。国家などにさしたる期待を抱いていたわけではなかったが、まさか、こうまで無能とは……。

 私はいえの居間で数々のニュースにふれながら、怒りに身を震わせていた。そのとき――。

 「パパあっ!」

 場違いなほどに明るい声が響いた。

 「ご飯できたよおっ。早くきてえ」

 ブラウスにミニスカート、ハイソックスというかわいい出で立ちの百合ゆりが居間の入り口から顔をのぞかせ、妙に語尾をのばした甘えた口調で言った。

 「ほら、早く! せっかくのご飯が冷めちゃうよ」

 重ねて告げる百合の表情はこぼれんばかりの明るい笑顔。テレビから流れる深刻な雰囲気と比べるとまさに別世界の感があった。

 不安や心配など何ひとつなさそうな、底抜けに明るい笑顔。

 百合はもともと元気で明るい娘だが、軽い娘ではない。それがいまは『軽い』すら通り越して『能天気』――他人の娘なら『おバカ』と言いたいぐらい――な雰囲気になっていた。

 「ああ。いまいくよ」

 私がそう言って立ちあがると、百合はうれしそうに身をひるがえした。スカートの裾をひらめかせながらダイニング・キッチンにかけていく。

 食事のメニューはびっくりするほど大きなエビフライに、チキンの丸焼き、アボガド・サラダ、カボチャのスープ……まるでクリスマスのようなご馳走がずらずらと並んでいる。私にしては胃の全容量を軽くしのぐほどの量だ。

 「……ずいぶん、豪勢だな」

 「うん。お店にいってもお客さん全然いなくてさ。店の人が困ったような顔してたからいっぱい買ってきちゃった」

 「高かったろう?」

 「まあね」

 と、百合はイタズラっぽく舌を出してみせる。

 「どこもずいぶん値上げしちゃってるから。でも、うちはパパのおかげでお金はあるから……」

 「………」

 「さっ、食べよ。まだまだいっぱいあるからお代わりしてね」

 両手をいっぱいに広げて笑顔で言う。

 百合はよく食べ、よくしゃべった。まるでふたつ口があるのではと思わせるほどの忙しさだった。最近のことだけではなく、昔のことや、古い思い出話までありったけのことをおしゃべりした。なかには私がすっかり忘れているようなこともあった。私が戸惑ってみせると百合は決まって頬をふくらませて不機嫌そうに言った。

 「あっ~、パパ、覚えてないのおっ?」

 「そんなことあったかな?」

 「あったよなお。百合はちゃんと覚えてるもん」

 「そうだったかな?」

 「そうだよお。もうパパったらひどいんだから。い~い? もう忘れちゃだめだよ。ちゃんと覚えてなくちゃだめなんだからね」

 「わ、わかったよ。そう責めないでくれ。ちゃんと覚えておくから」

 「うん、よろしい」

 たちまち機嫌を直して笑顔になる。

 「そうそう。こんなこともあったよね。それに、はじめて海にいったときにさ……」

 百合のおしゃべりは際限なくつづく。終始、笑顔を浮かべ、ニコニコしながらしゃべりつづける。

 「ねえねえ、パパ。明日さ。ママのお墓参りに行こうよ」

 「お墓参り?」

 「うん。ママの好きだったものいっぱい用意してさ。みんなで大騒ぎするの」

 「しかし、明日は学校だろう?」

 「何言ってるの。学校はずっとお休みじゃない」

 「……ああ、そうだったな」

 うっかりしていた。《叛斗》が国会議事堂を占拠して以来、日本中の学校という学校は無期限の休校に入っていたのだった。

 ――この国の、いや、世界の未来を担う若者たちが勉学にいそしむ時間を奪うとは……。

 《叛斗》め。

 暴虐者どもめ。

 私は国会議事堂を占拠した卑劣な犯罪者どもを深刻に憎悪した。しかし――。

 それができるだけの組織を育て上げたのはまぎれもなく、この私なのだ……。

 「ね、いいでしょ、パパ? 行こうよ、ママのお墓参り」

 百合はちょっとうつむき加減の上目遣いで『何がなんでも』という様子で訴えてくる。百合お得意のおねだりポーズだ。この仕種でおねだりされると――それがどんなことでも――ついつい受け入れてしまいそうになり、親の威厳いげんを保つため、体のあちこちをつねって耐えなければならなかった。おかげでいったい、幾つの痣を作ったことか……。

 しかし、このときばかりはそんな風にデレる気持ちは起こらなかった。私の胸に巻き起こる思いはただひとつ。

 ――痛々いたいたしい。

 それだけだった。

 見ていられなかった。思いきり抱きしめ、世界のすべてから隔離かくりし、ただただ赤ん坊の幸福のなかに浸らせてやりたかった。

 分かっていたからだ。

 私には分かっていたのだ。

 百合がなぜ急に、こんなことを言い出したのか。

 その理由が。

 《叛斗》による国会議事堂の占拠事件がはじめて報道されたその日、百合は一日中テレビの前からはなれなかった。テレビの前に両膝を抱えて座り込み、身じろぎひとつせずにニュースに見入っていた。その表情は恐ろしく思いつめたもので、私でさえ一言もかけられないほどに重苦しい雰囲気だった。

 それが一晩たつとやたらと明るくなり、やけに甘えた態度を見せるようになった。まるで三歳の頃にでも戻ったように。

 ――覚悟を決めたのだ。

 私はそう悟った。

 悟らずにはいられなかった。

 今回ばかりは私はミスターFとして指示を送ることはしなかった。大切な愛娘まなむすめを戦車の待ち受ける戦場に送り込むことはさすがに気が引けたのだ。

 百合の意思に任せた。百合が『こんなことはもういやだ』と思うなら仕方がない。そう思った。だが――。

 百合は自分で決めたのだ。

 私にはそれがわかる。わかる以上、私の答えはただひとつだった。

 私は胸を張り、ありったけの愛情を込めて言った。

 「そうだな。よし、行こう。百合の言うとおり、ママの好きなものを持ちきれないほどもって会いに行こう」

 「やったあ!」

 百合は椅子に座ったまま両腕を大きくあげてはしゃぎ回った。

 百合の『甘えん坊モード』は夜までつづいた。風呂に入ろうとすると、洗面器を抱えた百合がひょこっと顔をのぞかせた。

 「ねえ、パパあっ。百合も一緒に入っていいでしょ?」

 「どうしたんだ。父親と一緒に風呂に入るほど子供じゃなかったんじゃないか?」

 「いいじゃない。これで最後だからさ。ねっ、ねっ、お願い!」

 百合は両手を顔の前で合わせて必死にせがむ。そっと上目使いにおねだりするような視線を向けてくる。こんな愛らしい仕草でねだられてどうして断れる父親がいるというのか――もちろん、私には最初から断る気などなかったのだが。

 私はふたつ返事でオーケーした。百合の喜びようといったらそれはもう大変なものだった。

 どこから引っ張り出してきたものやら、百合は昔使っていたお風呂用のオモチャセットを山ほど持ち込んできた。百合が三つか、四つの頃に買ったアヒルのオモチャやら小さな船やらをいっぱいに湯槽に浮かべ、子供のように進めたり、沈めたりして大はしゃぎだった。私も一緒になって騒いだ。ずっと昔、まだ百合に危険な真似をさせる必要のなかった時代のように。もう二度と戻らないその時期をなつかしみながら。

 百合は私の背中を流してくれた。これも昔はよくやってもらったものだ。あの頃は百合はまだ七、八歳。いまは一三歳。やはり、ずっと力が強くなっている。ごしごしと背中をタオルでこする感触は思い出よりもずっと強く、たしかなものだった。

 今度はわたしが百合の背中を流してやった。その背中は思い出よりもずっと大きく、成長している。もちろん、私に比べれば半分もあるかどうか。ほっそりとして、華奢きゃしゃで、色白で、少女らしいたおやかさに満ちている。ちょっと力を込めればへし折れてしまいそうだ。

 ――こんな小さな背中に、私はこれほどの重荷を背負わせているのか。

 それを思うと涙を堪えきれなかった。

 「あれ、パパ、泣いてるの?」

 「バ、バカ! なんでパパが泣くんだ。湯気が目にたまっただけさ」

 「本当?」

 「本当だとも。それより、背中だけじゃなんだな。前も洗ってあげようか?」

 「きゃあ! やだもう、パパのエッチ!」

 百合はわざとらしく胸を隠すと、うれしそうに私の腕から逃げ出した。

 風呂からあがりベッドに入ると、予想どおり百合がやってきた。青地に動物のプリントのいっぱいついたかわいいパジャマを着込み、お気に入りの枕を抱いている。

 「ねえ、パパ。一緒に寝ていい?」

 もちろん、私に否やはない。掛け布団をあげて娘を迎え入れた。

 「ああ、いいとも」

 百合はうれしそうに微笑むと、リスの用に素早い動作でベッドに滑り込み、私にしがみついた。邪気のないニコニコ顔が痛々しいほどに愛らしい。

 「昔はいつもこうして一緒におねんねしてたよね」

 「ああ、そうだな」

 「ひとりで寝るようになってからどのくらいたつかなあ」

 「五年くらいじゃないかな」

 「もうそんなになるのかあ」

 「ああ。百合もすっかり成長したよ。おとなになった」

 「やだ、パパったら」

 百合は顔を赤く染めて照れくさそうにうつむいた。

 「百合はまだ子供だよ。おとなになんて……なってないよ」

 「いや。なったとも。本当に。お前がいてくれて私の人生がどれだけ豊かになったことか。お前は私にとっていつでも『幸せの青い小鳥』だったよ。お前は世界一の娘だ。お前は私の誇りであり、喜び。そして……愛しているよ」

 「パパ……」

 百合は涙ぐんだ。その小さな手でぎゅっと私の寝間着をつかんだ。少しの間うつむいていたが、ふいに明るさを取り戻して言った。

 「ねえ、パパ! おしゃべりしよ。昔みたいにさ。昔はこうして一緒にベッドに入って遅くまでおしゃべりしてたじゃない。もう一度……今夜だけ……」

 「ああ。そうだな」

 ぽん、と私は百合の頭に手をおいた。

 そして、私たちは夜が更けるまでずっとおしゃべりしていた。喋り疲れた百合が寝落ちしてしまうそのときまで。

 そして、翌日。

 私たちは約束通り、亡き妻の好きだったものを持ちきれないほど抱えて墓参りに向かった。毎日のように食べては『太っちゃう~』と、可愛らしく言っていたカフェのケーキ。『これがなければ生きられない!』とまで言っていたチョコレート。私とふたり、号泣しながら食べた、百合がはじめて作ってくれた卵焼き……。

 食べ物以外にも好きだった本やお気に入りの人形など、とにかく亡き妻の、咲の好きだったものをありったけ持ち込み、墓の周りにビッシリ並べた。本来ならばいい迷惑であり、許されることではないだろう。だが、場合が場合だ。他にお参りの人などいるわけもなく、それどころか住職の姿さえなかった――おかげで敷地内に入るのにちょっとばかり『娘には言えないこと』をしなければならなかったが――。

 おかげで文字通りの無礼講。私と百合は誰はばかることなく荷物を広げ、はしゃぎ、唄い、咲の思い出話に花を咲かせた。

 それは、一日中、つづいた。

 そして、夜。

 私は昼間の疲れで泥のように寝入っていた……と、百合は思っていたことだろう。音を立てないよう気づかいながら、そっと家を出た。ユーリのスーツをまとい、ユーリの仮面を付けて。

 庭に出たところで家を……いや、家のなかにいる私を振り返った。

 「パパ……」

 小さく呟く。

 大きな目に涙がにじむ。

 「……ごめんなさい、パパ。百合はいきます。あんな人たち相手に生きて帰れるとは思わないけど、でも……これだけが百合が化け物扱いされずにすむ道だから」

 その短い言葉にどれほどの思いがこもっていたことか。まだ幼い娘が背負っている荷の重さを感じて私は胸がしめつけられる思いだった。しかも、その荷は私自身が背負わせたものなのだ。私の娘に生まれてしまったばかりに、その力と宿命を受け継いで……私の娘にさえ生まれていなければ、ごく普通の女の子として、ごく普通の暮らしができたものを……。

 百合はつづけた。

 「……パパ。百合、本当にパパのお嫁さんになりたかったんだよ。ううん、なれると思ってたんだ。だって、百合にはこんな力があるのに、パパは普通の人で……しってるのはパパじゃなくて、ミスターFで……だから、もしかしたら百合の本当のパパはミスターFで、パパは本当のパパじゃないんじゃないか、だったら、きっとお嫁さんになれるって……そう信じて……。

 でも、だめだよね。百合は娘で、パパはパパだもん。そのことに気づけずにいられほど百合はもう子供じゃないから……だから……」

 百合は涙をこぼした。うつむいた。涙声になっていた。

 「……百合がいなくなっても外でばっかりご飯食べてちゃだめだよ。ちゃんと体のこと考えて、野菜とか果物とかもとって……それから……できたら、いい女性見つけて……変な女性に捕まったら……だめだからね」

 百合は流れる涙をぐい、と拳で拭き取った。涙の跡を残したまま笑顔になった。

 「じゃあね、パパ。いってきます。さよなら」

 百合はマスクをかぶった。そこにいたのはもう普通の女子中学生、高嶺たかみね百合ゆりではない。

 正義のスーパーヒーロー、白百合仮面ユーリだった。

 ユーリは駆け出した。

 戦場へと。

 その一部始終を私は監視ロボットを通じて見つめていた。告白のすべてを聞いていた。私は涙など流さなかった。泣いてなどいる場合ではない。私には親として百合を守る義務がある。

 ――安心しろ、百合。お前を死なせはしない。たとえ我が身に替えてでも。

 心にそう呟くと自室のクローゼットを開けた。そこにはひとつのスーツがあった。

 私用のスーツ、ミスターFとしてのスーツが。

 私はそのスーツを着込み、百合の後を追った。

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