七章 娘のデビューに号泣、号泣、また号泣
私は幹部たちを後に残し、本社ビル最上階にある秘密オフィスに戻った。モニターに
百合はすぐ間近で大変な事件が起きたこともしらず、いつものとおり
――いま連絡するのはまずいな。
私はそう思った。
友だちの前で呼び出し、変な目で見られるようになっては困る。どうせ、ふたりと別れるのはあと数分だ。ひとりになるのをまとう。
百合は家の近くまできたところで手を振ってふたりと別れた。私は『ミスターF』の名において百合の携帯にメールを送った。いや、送ろうとした。その寸前、指がとまった。
――本当にいいのか?
そう思った。
心やさしい、それもまだ一三歳の少女を悪との戦いの場に引きずり出すなど、親として、おとなとして、本当にやっていいことなのか? 彼女にはこのまま何も知らず、何も知らせず、温室のなかで平和に楽しく暮らせてやるべきではないのか?
真剣にそう疑った。だが――。
私はかぶりを振ってその迷いを振り切った。
いや、それは駄目だ。これは正義のため、世のため、人のための
私ひとりで悪党どもの管理と、それを退治する正義のヒーローの二役をこなすことはできない。絶対的に信頼できる同志が必要なのだ。私にとって百合以上に信頼できる相手などこの世のどこにもいない。百合にやってもらわなくてはならない……。
――すまない、百合。私の娘として生まれたことを運の尽きと思ってあきらめてくれ。
私は意を決してメールを送った。
もちろん、百合は『なにかが起こった』などという予感はちらとも抱かなかったにちがいない。携帯を取り出したときにも、
――瑞樹か紀子かな? 今度行くお菓子屋さんの相談とか……
ぐらいにしか思わなかったにちがいない。
この三人は直接会ってのおしゃべりもよくするが、メールの交換もよくしている。その内容は主に……いや、そんなことを思い出している場合ではない。いまの私は
画面を見た百合の表情が一瞬で強ばった。携帯の小さな画面に曰く――。
『ユーリ。君の力が必要なときがきた』
百合はその一文をじっと見つめている。みじろぎひとつしない。顔色が蒼白になった。唇をぎゅっと噛みしめた。
その姿に私は百合が不憫でふびんでたまらなくなった。『やあ、実はパパだよ。全部、冗談さ。気にしないで』と言ってやりたかった。だが、それはできない。私は父親の情愛をむりやりにねじ伏せ、心を鬼にしてミスターFとして百合に通信した。
『幼稚園の通園バスが乗っ取られた。犯人は、《
その他、事件発生からの時間、一切の経過、現在の居場所、犯人の人数、武器、周囲の情況などありとあらゆる情報を送った。
百合は最初、唇を噛みしめたまはじっと、私の送る数々のメールを読んでいた。やがて、小刻みに震える白魚のような指でメールを打ちはじめた。
『あたしの《力》を使うときがきたんですね? ミスターF』
私の携帯の画面にその一文が浮かび上がる。
私は親の心を押し隠して答えを送る。
『そうだ。ユーリ。天から与えられた君の《力》、その《力》を使って悪と戦い、人々を守るときがきたのだ』
『わかりました、ミスターF。それがあたしの運命ならば……あたしは戦います。人々を守るために』
……バスのまわりはいまや
――これは本物だ。本物の大事件だ。
たちまちのうちにマスコミ関係者が殺到し、カメラが周囲を取り囲んだ。警察に通報された。機動隊が出動した。ヘルメットと防弾チョッキに身を固め、大きな盾をかまえた機動隊員たちが遠巻きにバスを取り囲む。
もちろん、人質にされた園児の親たちも駆け付けている。我が子のもとに駆け付けようとしては警官隊にはばまれ、押し合い、もみ合いを繰り返す。
私はその様を近くの木陰に潜んで見つめていた。この期に及んで悪の総統然としてビル内に閉じこもっているなどできるものではない。何と言っても我が
私の手元にはバス内に侵入させた昆虫型監視ロボットから送られる画像を受け取る小型モニターがある。私はそれを使ってバス内の様子を、園児一人ひとりの表情にいたるまでくわしく観察する。いざとなれば百合に情況の変化を伝えなくてはならない。
バスのなかはまさに恐怖の密室と化していた。決して許し得ない悪党ども――私の部下にはちがいないのだが――が、銃を見せびらかしていたいけな幼稚園児たちを脅している。かわいそうに、園児たちはすっかり怯えて泣くことさえできはしない。すっ裸で南極の氷の上に放り出されたように、身をよせ合い、がたがた震えているばかりだ。
そのなかでただひとり、あのまだ若い女性保育士だけが部下Aに堂々と意見している。
「いい加減にしてください! いいおとなが幼稚園児を人質にとるなんて恥ずかしくないんですか。人質が必要ならわたしが残ります。子供たちをすぐにはなしてください!」
銃を手にした幾人もの男たちに囲まれながら屈することなく子供たちをかばおうとするとは。ますますもって見上げた女性だ。
部下Aめ。
その仲間たちめ。
もし、この女性に指一本ふれてみろ。生まれてきたことを後悔させてやる……。
その間にもバスの外では私服姿の刑事がスピーカーを手に説得を試みていた。
「すぐに子供たちを釈放しなさい! どんな理由があるにせよ、君たちのしていることは決して許されることではない。幼い園児たちにいったい何の罪があるというのか。我が国は民主国家だ。言論の自由は保障されている。言いたいことがあるなら堂々と主張すればいい。このような卑劣な手段を使っては誰も聞いてはくれないぞ。自分で自分の首を絞めているだけだということがわからないのか」
いつも思うのだが、このような事件が起きたとき、どうして警察はさっさと犯人を狙撃しないのだろうか。こんな卑劣な悪党どもの生命など気にかけてやる必要はないのに。こんな弱腰でテロリストに狙われたらどうする?
それとも、日本の警察には一発で犯人を殺せる腕をもったスナイパーがいないのか? だとしたら大問題だ。そんな無能な警察にどうして市民の安全を守れるというのか。
……それはまあ、警察などというものは悪の秘密組織の前ではまったくの無力だと昔から決まっているわけだし、だからこそ、正義のヒーローの活躍する場があるわけなのだが……。
だとしても、やはり
私はつくづくそう思った。
その間にも私服刑事の説得はつづいている。
「言っておくが、我々はテロには屈しない。交渉もしない。このような手段に出た以上、君たちの未来はふたつだ。人質を解放し、おとなしく法の裁きを受けるか、それとも、機動隊の突入を受けて皆殺しにされるか。そのどちらかしかない! どちらがましかよく考えてみたまえ」
バス内で部下Aがのっそりと立ちあがった。窓によった。こちらもスピーカーを使って私服刑事に言葉を返した。
「気が合うな、刑事さん。おれたちも交渉などする気はない」
「何だと?」
「おれたちは《毒狼》。世界征服を企む悪の軍団。おれたちはお前たち愚民相手に交渉などしない。するのは命令だけだ。おれたちに従え。すべてを差し出し、這いつくばれ。さもなくばこんなセコいバスジャックなどではない、はるかに恐ろしいことが起きるぞ」
「《毒狼》だと? お前たちの目的はいったい何だ? 何のためにこんなことをするのだ?」
「バカか、お前は。言っているだろう。おれたちの目的は世界征服。それだけだ」
「世界征服だと? そんなことができると本気で思っているのか?」
「もちろんだとも。おれたちに従わなければどういうことになるか、これからたっぷりと教えてやる。『テロには屈しない』と言ったな。格好いいじゃないか。だが、殺されるのが赤の他人なら何とでも言える。自分の身に降りかかっても同じことが言えるか? このなかに自分の子供がいても『世のため、人のため』とか言って見殺しにするのか? 我が子の生命より他人の安全が大事というわけか。ご立派なことだな。親に生きる権利を否定された子供の意見をぜひ聞きたいものだな」
部下Aの論法に私は舌を巻いた。
――悪党は悪党なりにここまで
不覚にもそう思ってしまった。
この男は単なる恥知らずな卑怯者ではない。根性の入った恥知らずであり、卑怯者だ。デモンストレーション第一弾の実行犯に選ばれただけあって只者ではない。
私服刑事も押し黙っていた。一度でも人の親になれば部下Aの論法に反論できるものではない。
『世界がどうなろうと我が子さえ無事ならいい』
そう思うのが親の情というものではないか。
『我が子を守るためならどう
そう言ってこそ親ではないか。
『人々のためならたとえ我が子でも犠牲として差し出す』
などとは親を捨てた偽善者の言う言葉だ。そう。例えばこの私のような。
部下Aが再び口を開いた。
「さて……ではまず、こちらが口先だけではないことをしってもらおうか」
「まて! 何をする気だ」
私服刑事が叫ぶ。
部下Aが仲間のひとりに指を慣らして合図する。まだ二〇そこそこだろう若い男――手塩にかけて育てた子供がこんな悪党に成りさがるとは。ご両親の
「やめて!」
「ま、まて! 何をする気だ」
保育士が叫び、私服刑事がさすがにあわてふためいた声をあげる。いくら『テロには屈しない』というのが世界標準だとしても、いたいけな幼児が犠牲になって平気でいられるわけがない。
その態度に悪党魂を刺激されたのか、部下Aはニヤニヤ笑いながら言った。
「デモンストレーションだからな。まずは悪党らしく、『卑劣な殺人』ってやつを実行させてもらうとしよう」
「なっ……!」
私服刑事が絶句する。
保育士が飛びかかろうとして他の男に押さえ付けられる。
銃を突きつけられた園児が泣き叫ぶ。
その子の親だろう若い母親が警官隊に阻まれながら必死に腕をのばし、絶叫をあげる。
男の指が引き金を絞り――。
高い音がした。
窓ガラスが粉々に砕け散る澄んだ音。
男は顔面をぶん殴られたように後ろに吹き飛んでいた。座席に叩きつけられた。そのまま、ピクリとも動かなくなった。
何が起きたのか、誰もわからない。
誰も動けない。
時間がとまった。
部下Aですら
そして――。
時のとまった世界から彼女はやってきた。
ふたつに割った紅海を渡るモーゼのように、ふたつに割れた人垣のなかをゆっくりと。
小柄で華奢な肢体をレオタード式のぴったりしたスーツとヘルメットにすっぽり包み。
弱きを助け、悪をくじく、そのために。
正義のスーパーヒーロー。
我が愛娘。
百合。
バスをめざしてゆっくりと歩むその姿に、その場に入る全員の視線が集中する。その姿を見て私は涙がこぼれた。一度目の人生からずっと、夢にまで見たシーンがいま!
実現したのだ!
私はボロボロ涙を流しながら夢中になって百合の姿を撮影した。
百合が走った。
バスをめがけて。
しなやかな肢体が華麗に飛びあがり、窓ガラスをぶち破ってなかに飛び込んだ。一転して立ち上がる。
部下Aが叫んだ。
「何だ、きさまは!」
百合が叫び返す。
「
「何だと!」
「人々の平和を乱す悪党ども! このわたしが許さない!」
「しゃらくせえ!」
部下Aが手にした銃を向ける。だが!
それよりも早く百合が手を突き出した。声をかぎりに叫ぶ。
「ガスト・ストライク!」
部下Aが、その仲間たちが、鉄球でも叩きつけられたように吹き飛ばされ、窓ガラスをぶち破ってバスの外に転落した。
これこそ私から娘へと受け継がれた超能力。
正義のスーパーヒーローたるべく運命づけられた《力》!
百合はまさに完全無欠のヒーローだった。
私は感極まってボロボロと泣いた。
百合は部下Aを追ってバスの外に飛びおりた。部下Aは地面に叩きつけられ、何度が転がって立ちあがった。即座に銃を構え、狙いをつけようとしたのは見事だった。
だが、百合の方が速い。
部下Aが立ちあがり、銃を構えたそのときには、百合はすでに部下Aの眼前でジャンプし、頭上を舞っていた。
私がミスターFとして贈った特殊スーツに身を固めた百合が空中で華麗に回転する。黄金のオーラをまとったその身が
「ユーリ・スピニング・ハヤブサ・キック!」
叫びとともに高速回転する靴底が部下Aの眉間を打ち砕いた。
「ぐわあああっ!」
部下Aは悲鳴をあげて吹き飛んだ。地面に叩きつけられた。もうピクリとも動きはしない。
見ろ!
悪はかならず報いを受けるのだ!
私は歓喜のあまり、全身がバラバラになりそうだった。威力といい、格好よさといい、ネーミングといい、すべて最高だ!
最高のデビューだぞ、百合!
私はとめどもなく泣きつづけた。
その間に機動隊が殺到し、悪党どもを取り押さえていた。私服刑事が百合に近づく。
「君はいったい……」
尋ねる。
百合はそっと首を左右に振った。そして、走り去った。それもまた、正義のスーパーヒーローにふさわしい去り方だった。
私はその姿を見送りながら限りない歓喜に打ち震えていた。
――百合。今夜はご馳走だぞ。
「ただいまっー」
私は家の玄関を開けてなかに入った。普段なら百合が飛び出すようにして迎えてくれるところだ。だが、予想どおり、今日ばかりは百合は出迎えてこない。
私はほくそ笑んだ。
こっそり居間に向かった。
すると思ったとおり、百合はテレビの前に膝小僧を抱えて座り込み、かじりつくようにして画面に見入っていた。画面では繰り返しくりかえし、白百合仮面ユーリが悪党どもを蹴散らすシーンが放映されていた。ニュースをDVD録画してひたすらリピートしているのだ。
私はそんな百合がかわいくてならなかった。ゆるみっぱなしの頬をなんとか引きしめてそっと近づく。
「百合」
と、肩をつつきながら呼びかける。
「きゃっ!」
百合が驚いて立ちあがった。こちらを見たる恥ずかしそうに頬を赤くした。
「あっ、パ、パパ。もう帰ったの? 今日は早いのね」
「何を言っている。もう一〇時すぎだぞ」
「え? ええっ、うそ、やだ、もうそんな時間。ごめんなさい! まだご飯もお風呂も全然用意してないの! すぐ準備するから」
「はははっ。いいよ、いいよ。実はこういうものを用意してあるんだ」
私は百合に微笑みかけると、買ってきた品々をテーブルの上に並べた。寿司にローストチキン、ローストビーフ、最高級のケーキの数々……。
山と並んだ豪勢極まりないご馳走の数々に百合が目を輝かせる。
「うわあっ、すごい! どうしたの、これ?」
「ああ。数年がかりのプロジェクトがうまく行ってね。そのお祝いだよ」
「わあっ、素敵! まってて。すぐにお茶いれるね」
「ああ」
答えつつ、私はテレビを見る。画面はなおも白百合仮面ユーリの活躍を映していた。
「ほほう。例の謎のヒーローか。『白百合仮面』とか名乗っていたそうだね」
「うん、そう! もうすごいのよ。幼稚園バスを乗っ取った悪党どもをひとりでやっつけちゃったの。カッコいいんだから!」
「はははっ。すっかり気に入ったようだね。この体つきからして、まだ若い女の子に見えるけど……百合もこんな風になりたいのかな?」
私の言葉に百合は顔を赤く染めて微笑んだ。
「や、やだ、やめてよ、パパ。百合なんてそんな……」
百合は顔を両手で隠しながらキッチンへと逃げていった。
その夜――。
私は百合からのミスターFあてのメールを受けとった。
『ミスターF。あたし……やりました』
『ああ、見ていたよ、ユーリ。見事な活躍だった』
『これで……これでいいんですよね?』
百合はそう尋ねてくる。
『こうして世の中の役に立っていれば……誰もあたしのことを化け物扱いしてきらいになったりしませんよね? あたしのこと、好きになってくれますよね?』
その一文に胸がつまった。いつも明るくふるまうその姿にだまされていたが、百合はやはり、こんな不安を抱いていたのだ。父親のくせにそんなことにも気づいてやれなかったとは、私は自分のうかつさを呪った。そして、思いの丈を込めて答えた。
『もちろんだとも。誰が君のようなすばらしい人間をきらいになったりするものか。ニュースを見ただろう? みんな、君のことを褒めたたえ、感謝していたじゃないか。君は正義のヒーロー、誰からも愛される存在なんだよ。自信をもちなさい』
『はい……ミスターF。あたし、がんばります。周りの人たちに好きになってほしいから……』
その一文を最後に百合のメールは途切れた。
――支えてやらねば。
私はあらためてそう思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます