六章 許さんぞ! 園児を狙う悪党め!

 そして、訪れた六月一五日。

 《毒狼どくろ》の名を表世界に知らしめるためのデモンストレーション第一弾、『通園バスジャック計画』は発動した。

 昨夜、幼稚園内に忍び込み、天井裏に潜んでいた部下A――こんな下っぱの実行員の名前まで私はしらない――が、バスの運転手に忍びより、殺害。死体を天井裏に放り込み、制服を着込んで運転手に化けおおせる。

 そんなこととはつゆしらない園児たちと付き添いの保育士はいつものとおりにバスに乗り込む。部下Aは何事もないかのようにバスを発進させる。エンジンがうなりをあげる。タイヤが回転し、園児三〇人を乗せたバスは幼稚園の敷地内を出ていく。

 最初の五分は何もかわらない。

 いつものとおりだ。

 園児たちはバスのなかでいつもどおりにはしゃぎ、付き添いの保育士もいつものとおりに子供たちの相手をしている。

 当たり前の日常。

 昨日も同じ。

 明日も同じ。

 当然、今日も同じ。

 その無意識の確信のゆえに外の景色をたしかめてみることもない。普段とちがう道を通っていることにも気がつかない。

 次の五分で保育士が異変に気がつく。

 ――おかしい。

 そう思う。

 いつもと道がちがう。

 いつもならとっくに最初の停留所につき、六人の園児を迎えにきている親たちに引き渡しているはずだ。それなのに今日に限ってバスは一向にとまる気配がない。それどころか、気がついてみれば見たことのない道を走っている。

 保育士は不安に駆られる。表情が心配に曇る。

 ――まさか……いえ、そんな……そんなドラマみたいなことが現実に起きるわけが……まして、わたしたちが巻き込まれるわけが……。

 そう思っているのが手にとるようにわかる。まだ二〇代半ばと見える若い女性保育士は内心に沸き上がってくる不安を押し隠そうと引きつった笑顔を浮かべる。運転手にそろそろと近づく。声をかける。

 「あの……運転手さん?」

 震えてはいるがきれいな声だった。音楽を専門に学んだことがあるのだろう。きっと幼稚園では毎日、園児たちにピアノをひいたり、歌を聞かせてやったりしているのだろう。決して美人というほどではないが、やさしそうで、清純そうで、いかにも世の親たちが『息子の嫁にほしい』と思うようなタイプだ。きっと、園児たちにも人気だろう。そんな女性を私は危機にさらしている……。

 私の胸のうちで自己嫌悪の嵐が吹き荒れる。

 「運転手さん?」

 保育士は重ねて尋ねる。

 もちろん、部下Aは何も答えない。無言でバスを走らせつづける。

 「運転手さん、いつもと道がちがいますよ。どうしたんですか?」

 保育士の声が荒くなる。表情から作り笑いが消えた。不安のヒビが無数に走り、表情を強ばらせた。

 この時点で園児たちも異変に気がつく。何が起きているのかはわからなくても、なにかが起きているのはわかる。

 子供特有の勘で大好きな保育士の様子がいつもとちがうことに気がつく。

 あんなにはしゃいでいたのがぴたりと押し黙る。無言のまま、一斉に保育士を見つめる。嘘のようにバス内は静まり返った。

 その静けさが保育士の不安をさらに押しあげたのだろう。彼女の心のなかで不安の波が堤防に押しよせ、荒れ狂い、叩きつける。波しぶきが堤防の上を超え、流れ出す。決壊した。心の堤防が崩れ、不安の波が一気に流れ出る。

 「運転手さん!」

 保育士が叫んだ。

 園児たちがビクリと身をすくめた。なかには泣きだしてしまった子供もいた。

 「運転手さん、答えてください! どうしちゃったんですか!」

 保育士は叫びながら制帽に隠された運転手の顔を覗き込み。そして、気がつく。いつもの運転手ではないことに。

 まさかと思っていた。

 そんなことがあるはずはない。

 心のどこかでそう信じていた。

 ちょっとしたアクシデント、そう、たとえば急な道路工事でいつもの道が使えなくなっていただけ、自分は子供たちの相手をしていてそのことに気がつかなかったのだ。ただ、それだけ。そうに決まっている……。

 そんなふうに思おうとしていた。必死にいままでどおりの日常にしがみつき、精神の平衡を保とうとしていた。その最後の綱が切れた。運転手の顔を覗き込み、いつもとちがう人間であることを知ったとき、彼女は同時に今までの日常性が崩れ、とんでもない危険に放り込まれたことをもしったのだ。

 彼女は気絶してもよかっただろう。

 幼い園児たちを保護する立場にあるとはいえ、まだ二〇代半ばの若い女性なのだ。突然、こんな悪夢のような出来事に巻き込まれたとあってはすべてを捨てて失神し、夢の世界に逃げ込んだとしても誰も責められまい。

 だが、彼女はそうはしなかった。むしろ、意を決したように部下Aに詰めよった。

 「あなたは誰! 何のつもり! すぐにバスをとめて、子供たちをおろして!」

 堂々と叫ぶその姿に私は目頭が熱くなった。

 ――なんとすばらしい女性だ。

 やさしいだけではなく、保育士としての責任感と気丈さをもあわせもっている。

 こんな若者がいるなら日本は安泰だ。

 なんとしても無事に救出してやらなくては。

 《冬の狼》としてのマスクのなかに涙に潤む目を隠しながら、私はそう誓った。

 良心の欠片のそのまたほんの欠片でももっている人間ならこんな健気な姿を見せられて平気でいられるわけがない。心を動かされ、己れの行いを悔い、バスをとめ、園児と保育士を解放し、おとなしく警察に捕まり、残る一生を罪の償いのために捧げようと誓うだろう。

 だが、そこは部下A。こんな卑劣で極悪非道な計画の実行犯を任されただけのことはあり、わずかにも心を動かされた様子はない。それどころか保育士の態度に喜びさえ感じたようだった。あろうことか――。

 この男は制帽に包まれた顔の下で口の端をねじ曲げ、ニヤリと笑ってのけたのだ!

 悪党。

 真なる悪党。

 この男は人間性の欠片ももたない、正真正銘の悪党なのだ。

 『悪人』とさえ言えない。

 『人』という言葉をつけるに値する存在ではない。生ゴミ、いや、生ゴミでさえ堆肥となって世の役に立つ。こいつはその役にも立たない。

 生ゴミ以下の存在だ!

 私はこの男を、こんな男を飼っている組織を、その組織を運営している私自身を真剣に憎んだ。

 部下Aはアクセルを思い切り踏み込んだ。バスは一気に加速した。その衝撃で保育士は倒れそうになった。園児たちが一斉に泣き出した。静まり返っていたバス内は一転、甲高い子供たちの泣き声のこだまする騒音の場と化した。

 その声に悪党の喜びを刺激されたのか、部下Aはますます口をねじ曲げた。そして、他の車を蹴散らすようにして道路を渡り、計画どおりに近所の公園に飛び込み、そこで停車させた。公園を訪れていた人々が突然の通園バスの乱入にいったい何事かと戸惑うなか、待機していたその他の実行犯たちが手にてに銃をもってバスのなかに乗り込んでいく。部下Aは余裕しゃくしゃくの態度で携帯電話を手に取ると、自慢げに話し出した。

 「はじめまして、テレビ局どの。ぜひとも取材にきていただきたい。自分はたったいま、幼稚園バスとそのなかの三〇人の幼稚園児、そして、付き添いの保育士一名を人質に立てこもったところだ。どうか遠慮などなさらず、大勢のスタッフとカメラをもって取材にきてくれたまえ。我々は《毒狼》。世界征服を企む悪の秘密結社だ」

 私はその一部始終を昆虫型監視ロボットのカメラを通し、《毒狼》の地下秘密会議場から幹部たちとともに見つめていた。

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