五章 娘を不幸にしてなるものか! 犯罪計画は娘の邪魔にならないように

 私がようやく家に帰ったのはすでに夜の一〇時をまわってからだった。車をガレージに入れ、玄関を開けてなかに入ると、百合ゆりがいつものとおりの明るい笑顔で出迎えてくれた。

 「お帰り、パパ」

 そう言って浮かべる笑顔がまぶしい。家での百合はTシャツにジーンズという格好が多い。シンプルだが活動的な服装がスリムな肢体によく似合う。学校の制服姿とはまたちがった魅力にあふれている。

 「お風呂にする? ご飯にする?」

 と、私の上着を受け取りながら百合が尋ねてくる。

 「そうだな。まずは風呂に入ってさっぱりするか」

 「オッケー。じゃあ、その間にご飯、温めておくね」

 百合は身を翻し、キッチンに向かおうとする。その背に向かって私は呼びかけた。

 「ああ、百合」

 「なに?」

 と、振り返る百合の仕草が小鳥のように身軽でかわいらしい。やわらかな髪がふわりと踊り、愛らしい顔を包み込む。これまでにもう何度となく見た仕草だ。だが、いまでも見るたびに『これほどかわいい娘は他にいない』と確信する。

 私はやさしい笑顔を浮かべて愛娘に言った。

 「どうだ? 久しぶりに一緒に入らないか?」

 百合はたちまち、すべすべした頬を赤く染めた。

 「な、なに言ってるの。百合、もう一三歳だよ。そんなこと、できるわけないじゃない」

 「いいじゃないか。父娘なんだから。ほんの数年前までは一緒に風呂に入って、お互いの背中を流したり、オモチャで遊んだりしてたじゃないか」

 それでふたりそろってのぼせて、ひっくり返ったり……なつかしさを込めて私はそんなことを思い出した。

 「昔はむかし。中学生にもなってそんなこと、できません!」

 百合は顔中を真っ赤に染めて怒ったようにキッチンに入っていった。そのときの表情が一三歳とは思えないほどなまめかしく、思わずゾクリとしたほどだ。

 ――女になっているんだなあ。

 我が娘の成長を目の当たりにして、私はしみじみと思った。同時に、

 ――もう二度と百合と一緒に風呂に入ることはできないのか……。

 そう思うと音を立てて落ち込むほどにさびしかった。

 ともかく私は風呂に入って汗を流した。さっぱりして出てくると白いバスタオルと下着、それに寝間着がきちんと用意されていた。百合はいつでも洗いたてのタオルと着替えを用意してくれる。まったく、できた娘だ。私は服よりも娘の愛情に包まれて体の芯まで暖まった。

 広々としたダイニング・キッチンに入ると、テーブルの上にはすでに芳香を漂わせる料理がずらりと並んでいた。その香はたいそう鼻孔をくすぐってくれたが、それ以上に私を迎える百合の笑顔が食欲を刺激してくれた。愛娘のこんな笑顔で迎えられて食事の内容に不平を言ったり、残したりすることのできる親がいるだろうか。

 否、いるわけがない!

 もし、いるとしたらそれは人間ではない。

 虫だ。

 虫以下だ。

 そう断言できる。

 私はテーブルについた。差し向かいに百合が座る。手を合わせてふたりそろって『いただきます』と告げて箸をのばす。今夜のメニューは肉じゃがにネギと豆腐の味噌汁、漬物、葉もの野菜のサラダ、それにご飯。ご飯は単なる白米ではなく、さまざまな雑穀の交ざったものだ。

 私の健康を気遣い、百合がわざわざ通信販売でとりよせ、混ぜて炊いてくれるのだ。その気遣いだけで一〇倍もおいしくなる。

 肉じゃがのイモだってわざわざ遠くのスーパーまで行って無農薬有機栽培の品を買ってきてくれるのだ。

 味噌汁の豆腐もその辺の店で売っている大量生産品ではない。駅前に屋台を引いてやってくる豆腐屋の、昔ながらの丁寧な作りをした本物の豆腐を買ってきてくれるのだ。

 料理はどれも真っ白な湯気を立てていて作りたてのように温かい。どんなに遅くなっても百合はちゃんとこうして温かい食べ物を出してくれる。

 育ち盛りの一三歳ともなれば帰りの遅い私にあわせるのはさぞ空腹だろうに、いつもまっていてくれる。

 メニューにしてもそうだ。

 本当ならもっと焼き肉とかハンバーグとか、そういったものを食べたい歳頃だろうに、私の体を気遣い、野菜中心のメニューを出してくれる。

 まったく、この娘は天使だ。こんなできた娘は世にふたりといるはずがない。

 一方にはこんなすばらしい娘がいるというのに、もう一方には、《毒狼どくろ》の幹部たちのようなどうしようもない極悪人どもがいるというのだから世の中は理不尽だ。

 この世に神などいない、ということがよくわかる。もし、神さまなどというものがいるのなら、あんな悪人どもを生み出して、百合のようなやさしい娘に負担をかけたりするはずがない。

 悪人などはひとりもおらず、百合が戦う必要もなく、こうして父娘ふたり、いつまでも平和に幸せに暮らしていける世界ができあがっているはずではないか。

 残念ながら現実はそうではない。

 だから、私は大切な娘を正義のヒーローとして差し出さなくてはならないのだ。ヤマタノオロチに娘を生け贄として差し出さなくてはならない神話の民のように。

 なんと悲しいことか。

 百合は夕食のときによくしゃべる。学校でのこと、友だちとのこと、何でも話してくれる。『親子の断絶』など我が家には無縁だ。もちろん、私も会社でのことなどをよく話す。ただ、もちろん、《毒狼》に関することは口が裂けても話すわけにはいかない。娘に対して秘密をもっているというのは後ろめたいし、心苦しいのだが……こればかりは致し方ない。

 それにしても――。

 ――よくぞ、こんな明るい娘に育ってくれた。

 私はそう思わずにはいられない。幼い頃の百合は自分のもつ《力》に悩んでいたものだ。小学校低学年のとき、些細なことからクラスメートと喧嘩になり、思わず《力》を発揮して吹き飛ばしてしまい、大怪我をさせてしまったことがある。『事故』として処理されはしたが……そのときの百合の落ち込みぶりはひどかった。

 『もう学校なんか行きたくない!』

 と、泣き叫び、部屋のなかに閉じこもって一歩も外に出ようとはしなくなった。

 私はミスターFとしてメールで百合と会話した。もちろん、本当は父親として、高嶺志狼として百合と向き合い、話し合いたかった。だが、それはできない。百合は自分に特殊な能力があることを隠していた。百合が隠していることを私が知っているわけにはいかないのだ。だから、ミスターFとして百合を励ました。

 『君には特別な《力》がある。大きな力をもつ者はそれだけ大きな義務と責任をももたなくてはならないんだよ』

 『なんで! どうして百合だけがこんな 《力》をもっているの? 百合、こんな《力》いらない。百合も普通の子でいたかった!』

 『君が特別な子だからだよ』

 『特別?』

 『そうとも。君が強くてやさしい子だからこそ、神さまは君にその《力》を託したんだ。いいかい? 世の中には悪いことをする人がいっぱいいるんだ。残念なことにね。そして、そんな悪い人たちの犠牲になる人たちが大勢いる。君のその《力》は悪い人たちを懲らしめ、やさしい人たちを助けるためにあるんだよ。

 でも、そんな《力》は誰に与えてもいいっていうものじゃない。その《力》を悪いことに使わない強い意志。人々の痛みを感じるやさしさ。そんなものをもっている人でなきゃならない。君はそれをもっている。だから、選ばれたんだよ』

 『でも……でも! こんな《力》があることがみんなにしられたら、百合、恐がられちゃう!、みんな、百合のこと、きらいになっちゃうよ!』

 『本当にそうかな?』

 『えっ?』

 『本当に『みんな』かな? よく思い出してご覧。何があっても君のことをきらいになったりしない。そんな人はいないのかな?』

 『……いる』

 『それは誰?』

 『……パパ』

 『パパ?』

 『パパだけは百合のこと、恐がったり、きらいになったりしないもん! 百合がどんな子でも大事にしてくれるもん!』

 『そうか。君はパパのことが大好きなんだね』

 『うん。百合、大きくなったらパパのお嫁さんになるの』

 『……そうか。いいかい? 神さまは耐える強さをもたない人に試練を与えたりはしないんだ。君はその《力》を正しく使えることを知っているから、ちゃんと支えてくれる人がいることをしっているから。だから、神さまは君にその《力》を託したんだよ。『その《力》で悪い人たちの犠牲にされる人たちを救いなさい』ってね。つらくなったらいつでもパパに抱きつきなさい。パパはかならず君を愛し、守ってくれるからね』

 ……いま思えば小学校低学年の子供にはむずかしすぎることだったかもしれない。『受け入れろ』というほうが酷だったかもしれない。それに、私自身、信じてもいない『神さま』とやらをもち出したことにも忸怩じくじたる思いがある。子供、それも我が子に対し、嘘をついてしまったのだから。だが、子供に説明するにはそれ以外の方法が思いつかなかったのだ。

 それでも百合は少しずつ立ち直っていった。おそらく、私の言ったことを子供なりに何度も考え、自分なりに理解していったのだろう。

そして、いまでは……。

 ふと気がつくと、百合が茶碗と箸を両手にもったままじっとこちらを見つめていた。ひどく心配そうな表情だった。

 「何だ、百合? どうかしたか?」

 「それは百合の言うことだよ。どうしたの、パパ? さっきからぼおっとしちゃって……」

 百合が眉をひそめる。心配そうに私の顔を覗き込む。いかん、いかん。昔のことを思い出すあまり、百合を不安にさせてしまったようだ。娘を安心させるために私は笑顔を作った。

 「ごめん、ごめん。いや、何でもないんだ。ちょっと昔のことを思い出していただけさ」

 「なら、いいけど……」

 そうは言ったものの百合はまだ不安そうだ。茶碗をもった手をおろし、視線をテーブルに向ける。私は雰囲気を変えるためにあわてて言った。

 「そ、そうだ。百合。やっぱり、家政婦を雇ったほうがよくないか?」

 「えっ?」

 「そのほうがお前も楽だろうし……」

 「いらないわよ。よその人に家のなかのことをどうこうされたくないもの」

 「しかし、お前ももう中学生だ。勉強やら、友だちとの付き合いやら、ずっと忙しくなるだろう? いつまでも家事をしているわけにもいくまい」

 ――正義のヒーローとしての活動もはじまることだし……。

 と、これは心のなかだけで呟く。

 「だいじょうぶよ。もうずっとやってきてることだもん。ちゃんとこなせるわ。それとも、百合の仕事ぶりに不満でもあるの?」

 「とんでもない! 不満なんかあるはずないだろう。世界一の家政婦を雇ったって百合の足元にも及ばないよ」

 「なら、いいじゃない。パパのお世話は百合がする。ママから引き継いだ大事なお仕事だもん」

 ふいに百合が表情を曇らせた。

 「それより、百合はパパの体のほうが心配だわ。毎日、こんなに遅いんだもの。もし、パパになにかあったら……」

 百合はたちまち涙目になってしまった。勢いあまってよほど不吉な想像をしてしまったのだろう。私はあわてて言った。

 「だ、大丈夫だって。貯金はちゃんとしてあるし、信頼できる弁護士も用意してある。もし、パパになにかあったって、お前が生活に困ることは決してないよ」

 「そんなこと言ってない! お金の問題なんかじゃない。百合はパパさえいてくれればそれで……」

 百合の大きな目から涙がこぼれ落ちる。まずい。逆効果だった。私は一層あわてた。

 「ご、ごめん、ごめん。変なことを言ってしまったな。大丈夫。パパは元気だよ。健康診断だってちゃんと受けてるし、何の異常もない。百合を残してどうにかなったりしないよ」

 「本当……?」

 「もちろん。約束するよ。百合がおいしい手料理を作ってくれるかぎりはね」

 「うん! 百合はいつまでもパパにおいしいご飯を作ってあげるからね」

 百合はたちまち笑顔になった。涙を見せながら微笑むその表情が思わず抱きしめたくなるほど愛らしい。

 ――百合の邪魔にならないよう、きちんと見計らって事件を起こさねば。

 そう決意する私だった。

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