三章 愛娘見守り日記(2)

 授業がはじまった。

 百合ゆりの通う私立華南中学校は県下でも指折りの進学校だ。当然、授業のレベルは高い。とくに英語と理数系に力を入れている。平凡な頭の持ち主ではついていくだけでやっとだろう。もちろん、頭脳明晰なる我が愛娘まなむすめにとっては楽なものだ。

 一時現目は数学。まだ若い男性教師が黒板にずらずらと書いていく数式を生徒たちがノートにとっていく。吟味にぎんみを重ねてすぐれた生徒だけを入学させるこの華南中学に学級崩壊などは無縁だ。教室内は私語ひとつなく、生徒たちは一心に勉強している。未来をになう若人わこうどたちが勉学に励む姿は実にさわやかだ。私はいつものことながらその様子に満足していた。

 教師が黒板に問題を書き並べ、五人の生徒を指名して回答を記入させた。百合もそのひとりだった。黒板の前に立ち、チョークを手に取る。その姿を見て私ははらはらした。大丈夫だろうか。わかるだろうか。変に緊張してつまらないミスなどしないだろうか……胸のなかで不安が渦巻く。

 私の心配よそに百合はためらうことなく答えを記し、席に戻った。もちろん、正解。私は胸を撫で下ろした。と同時に、自分がおかしくなった。あの程度の問題、百合が苦にするはずがないではないか。それぐらいわかっているはずなのに私は何を心配していたのやら。まったく、親というのはバカなものだ。色々な意味で。

 二時現目は英語。この教師は五〇代のイキリス人女性で、英国らしいクラシックな礼法を身につけた人物だ。落ち着いた雰囲気が私は気に入っていた。百合にもぜひ、おとなになったらこのようなエレガントな女性になってほしいものだ。

 英語の授業中は日本語は一切禁止、英語のみである。堅苦しいほど丁寧ていねいな英語で教師がびしびし質問し、生徒がそれに答えていく。そのスピーディーで緊張感に富んだ雰囲気は実に好ましい。勉学の場たるもの、こうでなければ。

 教師が百合を指し示した。教科書を読むよう指示した。百合は教科書を手に立ち上がった。朗々と読みあげる。はきはきした口調といい、発音といい、見事なものだ。いますぐシェークスピアの芝居を演じることができそうだ。それぐらい堂に入った態度だった。百合が読み終えた。教師が満足そうにうなずいた。百合が席に着いた。その様子を見ながら私も心から満足していた。

 愛娘が勉学に励む姿をずっと見守っていたかったがそうもいかない。私にも仕事がある。まずは表の顔である聖狼せいろ超電子産業の社長としての仕事だ。会議に出席し、議題を可決し、各部署を視察し、取引先にまわって会談する。その合間に新聞社のインタビューも受ける。何しろ、聖狼超電子産業はいまや、世界の電子技術をリードする企業なのだ。国内外を問わず注目度はきわめて高い。

 記者を前に私は抱負ほうふを語る。曰く――。

 電子技術の発展によって人体と機械の融合はすでに夢物語ではなくなった。近い将来、失った器官を機械によって取り戻すことが可能になる。生まれつき障害のある人であってもその恩恵によって普通人と同じ、いや、それ以上の能力をもつことができるであろう。それどころか、不死身の機械の体をもつことさえ……。

 そう。私が前世からずっと夢見つづけてきた存在、『改造人間』がついに実現するのだ。それも、私の運営する企業によって。

 ざまをみろ。私のことを『いつまでも子供の夢にしがみついているバカなやつ』などと見下していた連中め。科学は正義のヒーローを実現させるところまできたではないか。それもこれも前世からずっと、夢をあきらめずに追いかけてきたからだ。そうだ。私は正しかったのだ。

 私には夢がある。

 無数の正義のヒーローをプロデュースするという夢が。正義感にあふれた若者たちが次々と私の門を叩き、私の運営する工場で改造され、超人的な能力を得て、世界に散り、正義のために戦う。

 その圧倒的な力によってついに悪は根絶され、善良な市民が犯罪者の被害にあうことのない世界が誕生する。その光景を想像し、私は陶然とうぜんとする。それはもはや夢ではないのだ……。

 仕事を終えて秘密のオフィスに戻る。学校はすでに放課後の時刻だ。百合はクラブ活動に励んでいることだろう。モニターを映すと予想どおり、紺のスクール水着に身を包んだ百合が楽しそうに笑っていた。

 百合は水泳部なのだ。

 それにしても水着に包まれた百合のスタイルのすばらしいこと。腕も脚もすらりと長く、ウエストは引きしまっている。かわいい尻がキュッとあがり、何よりその胸のふくらみときたら。

 一三歳ではまだまだ乳房の発達などしていないだろうに、百合の胸はすでにふっくらと盛りあがっている。三年生と比べても、いや、その辺の高校生と比べても遜色ないぐらいだ。将来はさぞ見事なバストの持ち主となるだろう。清楚でかわいく、しかも巨乳。ああ、ますます心配だ。悪い虫がつかぬよう、見守ってやらねば。

 モニターのなかで百合は水に飛び込み、泳ぎ、躍動する。その姿はさながら若い人魚のよう。水しぶきをあげて泳ぐその姿は何とも魅力的だ。私はその姿をうっとり見つめる。日一日と成長していく我が子の姿をそっと見守る。これ以上の幸福がこの世にあるだろうか?

 クラブ活動を終えて百合はシャワールームに向かった。湯気をたてる湯が音を立てて一糸まとわぬ百合の裸体を叩く。百合は水に濡れた髪を洗い、顔をあげてシャワーの湯を顔面に受けとめ、腕をのばして汗を流し……ち、ちがう! これは断じて不埒ふらちな気持ちで覗いているのではない。あくまでも見守っているのだ!

 何と言っても百合は正義のヒーローとして活躍すべく宿命づけられた娘。毎日の行動をきちんと把握していなければ、たとえば授業中やテスト勉強中に事件を起こし、邪魔をする結果になってしまうかもしれないではないか。それに何より……悪い虫がよるのを防げなかったらどうする!

 だから私はこうして娘を見守るのだ。あくまでも親の愛。やましいところなどない。まったくない!

 しかし、それにしても――。

 ――成長したものだ。

 モニターのなかの百合の裸体を見ながら私はつくづくと思う。一緒に風呂に入っていた日々が昨日のことのようだ。あの頃はまだまだ幼児体型で手も足も短く、まるみを帯びていて、まるでバナナがくっついているようだったものだが。それがいまでは……。

 「……さきに似てきた」

 私はポツリとそう呟いた。

 咲。

 私が二度の人生を通じて愛した、ただひとりの女性。

 若くして病に倒れて亡くなった、百合の母親。

 愛する娘が年ごとに亡き妻に似てくることを私は実感していた。とくに、私に向かって微笑みかける仕種など本当にそっくりだ。まるで、私と出会ったばかりの、まだほんの少女だった頃の咲が目の前に現れたのかと思うほどに。

 涙がにじむ。

 我が子の成長ぶりに胸が一杯になった。

 と同時に胸を裂くさびしさがよみがえった。百合が『もうパパとお風呂には入らない』と宣言した日のさびしさを。

 ――もう二度と百合と一緒に風呂に入れないのか。

 そう思ったときの悲しさ。絶望感。それはどんな文豪の筆をもってしても表現できるはずがない!

 私は泣いた。

 轟々と泣いた。

 娘をもつ父親には人生の悲哀を味わう日が二度あると言う。一度は娘が自分と一緒に風呂に入らなくなる日。そして、二度目は……娘が自分の入った後の風呂には入らなくなる日。

 百合にもいずれ、そんな日がくるのだろうか? 『パパの入った後のお風呂なんて汚くて入れない』と言い出す日が……。

 ――バカな! そんなことがあるはずがない。百合に限ってそんな、実の父親を『汚いオヤジ』呼ばわりするなどあるはずがないではないか!

 私は首がちぎれるほど激しくかぶりを振って、不吉な想像を追い出した。それから、急いで部下に電話し、指示を下した。

 「いますぐ、育毛剤と加齢臭防止のスプレーを買い占めておけ! どれだけだと? ありったけに決まっているだろうが、この間抜けめ!」

 私がそんなことをしている間に隣でシャワーを浴びていた瑞樹みずきくんが百合に話しかけていた。

 「百合ってさあ、ほんとに胸、大きくなったよねえ」

 「そうかな?」

 「そうよお。ほら、あたしよりこんなにある」

 と、瑞樹くんは百合の前に立ち、お互いの乳房をぴったりと突き付けるようにして比べあう。

 「三年生のなかにもこんなに胸の大きい人、そうはいないわよ。もしかして、部で一番大きいんじゃない」

 「そんなことないでしょ。あたし、まだ一三歳なんだし……」

 「あるって絶対。なにかマッサージとかしてるの? 胸を育てるコツとかあるわけ?」

 「別になんにもしてないけど……」

 「じゃあ、あくまで素質? いいなあ。うらやましい」

 瑞樹くんは身をそらすようにしてちょ、と胸を突き出した。若々しい、ピンク色をした乳首と乳首がかすかにふれあう。

 「きゃっ……!」

 と、百合は悲鳴をあげ、電気に撃たれように飛びすさった。前かがみになり、両手で胸を隠し、警戒するような目で瑞樹くんを見る。

 瑞樹くんはといえば左手を真っすぐおろし、右手をほっそりした腰に当て、若い裸体を堂々とさらしながらあきれたような口調で言った。

 「なによお、そんな警戒することないでしょお。女の子同士なんだからさあ」

 「だ、だって……瑞樹ってなんだかエッチっぽいんだもん」

 「なにそれ? あたしにそっちの趣味があるとでも言うわけ?」

 「だって……」

 百合はかわいらしく唇をとがらせながら言った。

 「なんか、しょっちゅうあちこちさわってくるしさ」

 「女の子同士のスキンシップじゃない。他意はありません」

 「でも……」

 「はいはい、わかったわよ。あんたにさわっていいのは白馬の王子さまだけってことね」

 瑞樹くんは再びあきれたように言うと、両手を肩の高さにあげ、後ろを向き、再びシャワーを浴びはじめた。

 ――むう。

 たしかに瑞樹くんには性的に少々、奔放ほんぽうすぎるところがあるようだ。中学一年にしてこれでは将来が心配だ。やはり、彼女とのとの付き合いは考えさせるべきか……。

 瑞樹くんはシャワーを浴びながら言った。

 「でも、ほんと、うらやましいわ。いまからそんなんじゃ五年後にはきっと、すごいことになってるわよ。きっと、お母さんに似たのね。その点、あたしのお母さんはお世辞にも巨乳とは言えないしなあ」

 「………」

 瑞樹くんの言葉に百合は悲しそうにうつむいた。その態度に瑞樹くんははっと気づいた様子だった。気まずそうに謝る。

 「……ごめん。百合ってお母さん、いないんだよね。あたし、無神経だったね。ほんと、ごめん」

 「い、いいのよ、そんなこと!」

 百合は友だちを励まそうと笑顔になった。髪についた水滴が飛び散り、宙に浮かぶ宝石のように百合の顔を彩る。

 「ママは素敵な思い出をたくさん、くれたもの。さびしくなんかないわ。それに……」

 百合は照れくさそうに小声で言った。

 「……その分、素敵なパパがいるし」

 「あー、あのダンディなお父さんね」

 瑞樹くんは現金なことにたちまち普段の調子に戻った。ほっそりした腰に両手を当てて言う。

 「いいわよねえ、あんなカッコいいお父さんで。おまけに大企業の社長さんだし。うちのお父さんとは大ちがい」

 「瑞樹のパパだって素敵じゃない。『やさしいおじさま』って感じで」

 「えっ~、そう? でも、しがないサラリーマンだしなあ。やっぱり、百合のお父さんがいいわよ。もし、あたしが百合のお父さんの娘だったら、毎日うんと甘えて、友だちにも自慢しまくるのになあ」

 私は再び電話を取った。

 「高橋たかはし瑞樹みずきという女子生徒の父親を出世させてやれ。出来れば社長にでも。何? 何のためにだと? 生意気を抜かすな! お前たちはただ総統の言うとおりにしていればいいのだ!」

 私は怒りにまかせて受話器を叩きつけた。まったく、少しは気の利く部下というものはいないのか。

 百合はシャワールームを出た。制服を着込み、部室を出る。これから書道部の紀子のりこくんと合流し、三人で近くの喫茶店かファーストフード店に入るのが百合の日課だ。

 家に帰ってからは掃除と洗濯を済ませ、宿題をこなし、夕食の準備をして私の帰りを待つ。

 毎日、毎日、夜遅くまでひとりきりにしてすまないと思う。だが、これからが私の仕事の本番なのだ。そう。悪の秘密結社・《毒狼どくろ総帥冬の狼としての。

 私は席のスイッチを押した。軽い機械音が鳴り響き、席が降下していく。聖狼超電子産業の地下にある《毒狼》秘密基地への直通エレベーター。更衣室でマスクとマントをかぶり、身も心も悪の総帥となって私は臨む。

 《毒狼》秘密会議へと。

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