気にしないで
本当に、弾こうと意識していなかった。だから遥だって驚くし、この次なんて言えばいいのか悩むくらいには不慣れな状況だった。
「気にしないでいいわ。いきなり触れた私が悪いもの」
倉木は弾かれた瞬間驚きで手を後ろへ素早く引かせるくらい予想外だったらしいが、それでも先に謝罪するのはそれだけ申し訳ないことをしたと、遥の反応を見ての判断だ。
「勝手に人の体に触れるのは、社長令嬢としてどうなの?人としてもだけどー」
「お巫山戯の1つとして裾に触れただけよ。六辻なら許してくれる思っていたけれど、人には人の事情があることを忘れていたわ」
「俺も何も伝えてないし、今のは無意識だったから……仕方ないと思う。俺も悪かったから、ごめん」
本能に根付いた反射的に弾くくらいの嫌悪。それが自分にあったことを、今思い出した。それまでごく平凡で気楽な生活をしていたから忘れていたが、遥はしっかりと地獄を歩んだ果てにここに立っているのだ。
それが今叩き起されるように頭の中を過ったのは、それだけ裾を捲られたくないという絶対的な思いが強く頑固に根を張っている証拠だった。
「貴方が気にすることではないわ」
遥も倉木も、お互いのことなんて手のひらに乗る程度しか知らない。だから禁忌に触れることもあって、傷つけることもある。そんな関係の今、咎める理由はどこにもなかった。
「なら、倉木さんも気にしないで」
「そうするわ。でも何かあったら私に言ってくれても良いのよ?親友として」
その言葉の重み、そして伝えたい思いはしっかりと伝わった。親友なら打ち明けられるだろう?と、その関係になったなら伝えてという意味が込められていた。
「うん。いつか」
それに応える必要はない。義理もない。けれど、遥としては倉木という存在と親友になりたいと心底思う。なので快諾する。
倉木のためだけではなく、自分のためにも。
「あれ?いつの間にか親友候補に加えられてたの?」
ハンディターミナルをクルクルと人差し指の先で回し、器用さを見せながら香月は言った。ボールならまだしも、両端で重さの異なるハンディターミナルを簡単に回す姿はバランス感覚の才能に長けているのだろうか。
「六辻ならいけそうと思ったの。唯一無二よ。今のとこ」
「へぇ。私は無理って言ったのに?」
「貴女は私を社長令嬢と言って冷やかすじゃない」
「逆にそれがいい感じになってないの?」
「なってないわ。今はまぁ、マシにはなったけれど、出会った頃は社長令嬢って食いついてきて、これはダメだと思わされたくらいには無理と思っているわ」
「そうですかぁ。いつか親友候補になれるなら別に今急ぐことはないけどさ」
香月は二組の生徒。親友になれるかどうかは、積極的に関わるかが鍵となるだろう。遥に対しては消極的な倉木が、今後香月に積極的になるとは思えないが、香月もノリノリなので心配ないだろう。次会った時には軽々しくあだ名で呼び合うくらいにはなってそうだ。
「おうおう、何話してんだ?若者たちよ」
何も気にすることなく倉木と香月と話していると、店の奥――厨房から男性が顔を出していた。強面で髭を生やし、室内でもしっかりサングラスを掛けている。
「あぁ、店長。どもー」
「たわいない話ですよ。それと、今日1日だけ穴埋めの人連れて来たので、今日は彼とよろしくお願いします」
「あっ、そうだったな。そういや、1人夏風邪って言ってたな。倉木ちゃんが太鼓判押す助太刀くんは君か」
「はい。六辻遥です。よろしくお願いします」
「おう。六辻くんか。ありがとな、急に」
「いえ、問題ないです」
第一印象は気さくなおじさん?いや、お兄さんと言ったとこか。まだ30手前に見え、違ったとしてもアラサーの範囲内の歳だろう外見をしている。
覇気のある風采に、陽気な一面も加えたような明るい人。海の家で働くにはお似合いの性格をしているようだと、話し方と声色から想像していた。
「ちなみに、こういう飲食店でのアルバイトってしたことあるか?」
「いえ、初めてです」
「了解。それなら六辻くんにはホールで、しかも配膳だけに徹してもらおうか。オーダーは全部他のホールに任せて良いから」
「分かりました」
オーダー聞いて、レジも担当して、案内してなんて多数の仕事を覚えてこなせる器用さはない。だから正直助かる。けど、ホールの人に負荷がかかるのは申し訳ないと罪悪感も生まれていた。
「配膳する時に、お待たせしましたって言うだけで良いから、時間が尽きるまで頼む」
「はい」
「何かあれば倉木ちゃんとか香月ちゃんとか、他のホールの人に聞けば優しく答えてくれるから、無理しない程度に頑張れよ」
「ありがとうございます」
「先輩が優しく教えてあげるから、今からでも気になることは聞きなさい」
「先輩面早っ。私と同じで最近始めたばかりのくせに」
倉木も社長令嬢として威張るのではなく、1人の平凡な人間としてアルバイトを経験したい気持ちがあるらしく、海の家に来る途中に遥に普通を知りたいとも零していた。
だから元気過ぎて調子に乗ったりしている。普通を経験できることは、普通ではない人生を歩んだ人には幸せなのだから。
「倉木ちゃんらしいな。それより、もうすぐ開店時間だから準備よろしくな」
そう言って店長は厨房へと体を向けて準備を始めた。
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