頼み事
結局、教室に戻っても一色は居なかった。カバンもリュックもなかったので、部屋に戻ったのだろうと遥も帰宅することにした。今頃晩御飯前だと言うのに、甘い物を否応なしに食べさせられる桜羽と食べさせる一瀬のことを思いつつ、夏の夕日に照らされて帰宅を終えた。
自室に荷物を置くと、次は隣の部屋へ向かう。解決は早いに越したことはないので、部屋の中に相性指令を持ち込みたくない遥は、なるべく進んだ状態にして就寝したいとインターホンを鳴らした。
『はい。あっ、六辻さんですか』
「どうも。少し聞きたいことがあるんだけど、時間大丈夫かな?」
すっかり抜けた敬語も今では違和感なく忘れている。
『大丈夫ですよ。うち入ります?』
「あぁ……そうしようかな」
玄関で長話しても迷惑だろう。それに気温も上昇している季節だ。一色だって外で会話をするなら部屋に入れる選択をするだろう。
『では、すぐに』
足音は全く聞こえない。それだけ防音は完璧だ。
少しして、ガチャとドアが開いて、いつも通り部屋着の一色が姿を見せる。
「どうぞ」
「ありがとう」
軽く挨拶を交わして中に入れてもらう。看病した時以来だが、それでも内装に大きな変化はなかった。
「最近一段と暑くなり始めましたね。夕方も全然暑いですけど、大丈夫でした?」
「うん。汗もかきにくい体質だから、夏には意外と楽なこともあるよ」
けれど、発汗しにくいから、それだけ熱を逃がすことに苦労してしまうこともあった。風邪を引いた時、熱が上がってしまっても汗が出ないし、熱中症に罹患することも。
だから良いことだと捉えたことは一度もないし、これからもないだろう。
「一色さんは夏は好き?」
「好きですよ。休みも多いですし、涼しさを感じれますし、どこか遠くに出かけたり、海やお祭りなどに足を運べて飽きない季節ですから」
用意した2つのコップにオレンジジュースを注ぎながらそう言うと、両手に持って遥の居るリビングのテーブルに持ってくる。
「ありがとう。――意外と興味あるんだね、そういうのに」
「マリンスポーツは前々から興味あったので、いつか経験したいとは思いますよ」
思っているより何事にも取り組む性格で、活発な印象を持たせるくらいに元気なのは予想外過ぎる。小柄な体躯からは想像つかない豪快な思いは、同時にバレーをしていた時のことを思い出させる。
「そういえば、運動能力も高かったし、文武両道なのは素直に凄いと思うよ。何回も驚かされた」
「ありがとうございます。昔から両立は得意な方だったんですけど、そう言われると照れますね」
綻ばせた笑顔を見て、最近関わった人たちの笑顔と比べてしまう。口角の上がり方、どのくらいの気持ちを込めていたか、そして優しさ、本心からの笑顔なのかと。
それは人それぞれでも、やはり共通点はあった。
誰もが嬉しそうに、幸せそうに、楽しそうに笑うことだ。正確にはそう見えるだけだが、必ずそこには負の感情とは真逆の感情が温かくあることが読み取れた。
もしそれが幸福を示す感情なら、気づけないこともないだろうと思えるくらいには、可能性を感じていた。
「それで、今日は何を聞きに来たんですか?」
「聞きに来たというか、お願いごとをしに来たと言っても過言ではないことだよ」
本題に移ると、言い方が違ったことを訂正する。元々一色には話しかけたい理由があって、それが偶然七宮の頼みごとと重なったから部屋に入った。そうすることで、七宮の願い通り、気づかれないで聞くことは可能だと思ったから。
我ながら賢いなと思いつつ、オレンジジュースを一口飲むと言う。
「もう期末試験が近いでしょ?前も言ったけど、俺って頭が悪いから、赤点取りそうで心配なんだよね。だから、良ければ勉強教えてくれないかなって思ってて」
成績は総合値で出される。つまり、相性指令や期末試験、普段の取り組み方など全てがAからEまでの評価に繋がる。そんな中で特待生である遥が情けなくも赤点で、二学期からB以下でスタートしては恥ずかしい。
だから最後の砦である一色に懇願するしかない。一瀬と桜羽は自分のことで手一杯なので、必然的に残されたのは一色だけだった。
「なるほど。全然いいですよ。私の教え方は上手とは言えませんけど、六辻さんの力になれるなら協力します」
「助かるよ、ありがとう」
「いえいえ。でもそれなら、1つ言わなければいけないことがあります。六辻さんとは逆の6098号室に住む人からもそのお願いをされていて、六辻さんが良ければ一緒に勉強しても良いですか?もちろん、その人にも同じことを聞いて了承を得たらですけど」
五組に所属する女子生徒と言っていた覚えがある。五組は学年で最も強気で勝気な性格をした女子が多いクラス。少し心配することがあるかもしれない。
だが、問題行動は起こすような人ではないだろう。なんせ一色に勉強を教えてと頼むくらいの仲を築けているのだから。
「うん。教えられるなら誰が居ても大丈夫だよ。むしろ話せるいい機会だから」
メリットを思うと、やはり人から成長を得られることを確信している遥にとって、他人と知り合えることは何にも変え難い特典だ。
「それもそうですね。では、後日伝えるので、決まり次第私の部屋で勉強をしましょう」
「うん」
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