桜羽優の過去

 5月の中旬、イベントが開催されることとなり、内容は釣り堀で釣りをするという中々学校生活で触れられないような稀有なものだった。


 だが、彼女――桜羽優にとって、イベント内容が稀有か否かはそんなに関係なかった。ただ、自分の決めたことを自分の思考、感情に従って動くだけ。そう決然していたから。


 イベント内容が聞かされた日の夜、改めてそれを反芻していた。


 ――私は性格が悪い。


 六辻に対してそう言った桜羽は、何故そう言ったかをハッキリと覚えている。そして何故それを六辻に伝えたのかも。


 桜羽は中学生の頃、憧憬を抱く先輩が居た。スポーツ万能で成績優秀。文武両道を擬人化したらきっと、彼のような人なのだろうと思えるほど天才の先輩だった。


 しかし、ほぼ完璧だからこそ、人はその完璧の近くで学校生活を過ごしたいと思う生き物であり、当然先輩の周りに人は多く居た。誰もが嫌うことなく先輩に寄って、話し相手になるために話題を出して、それはもう人気店に並ぶ行列のように眩しい人気ぶりだった。


 だが、先輩は純度100%の完璧ではなかった。そう。感情表現が乏しかったのだ。欠如していたのではない。ただ、何事にも興味を抱かず、敷かれたレールを歩くだけの人生を幸せだと思う親からの、日々の厳しい環境下にて鍛えられた果てのAIのような完璧存在。それに成れ果ててしまったのだ。


 だから、周りに人が居るだけでそれらは友人ではなかった。親友でも恋人でもなかった。才能に群がるだけのカースト上位に居たいだけの金魚のフンに過ぎなかった。


 先輩にとって人間関係は無駄。自分が完璧であることで、他を必要としない環境に慣れてしまっていたから、孤独でさえ生きることができる才能を身につけてしまっていた。


 だが、桜羽にとってはそんな先輩だからこそ憧憬を抱く理由だった。親によって心を砕かれ、人生を曲げられてしまったという同じ経験を持つ先輩に、そんな生き方でも部活を楽しめていたことが、当時何事にもやる気を持たなかった桜羽の目には常闇の中に見える1つの星に見えたのだ。


 だから心底尊敬し、未来を明るく照らしてくれる唯一の希望としてついて行くことを決めていた。


 けれどそれは唐突にも終焉を迎えた。


 先輩の感情を豊かにした存在が現れたのだ。この世でたった1人だけがなれる存在――彼女が。


 先輩を自由に連れ回し、感情が乏しいことも知った上で何度も遊びに誘った。暗黙のルールとして、先輩を狙った抜けがけは許されないという空気感があっても、彼女はそれを無視するように連れ回した。何度も何度も、先輩が飽きることを覚えるまで。


 すると半年くらい過ぎた頃だろうか。先輩の顔に、部活以外で見せることのなかった笑顔が戻っていた。しかも彼女にだけ見せるのではなく、誰にでも分け隔てなく見せる爽やかな笑顔が。


 今思えばきっとそれが唯一の理由なのだろうが、それを知った桜羽は無性に気持ちに駆られてしまった。


 それが――奪いたい、という彼女に対しての嫌悪と忌避の気持ち。他の単語を使うなら、寝取りたいという気持ちと差異はない。


 何故、過去の先輩の経験に「そんな過去があったんだ。でも私は君を――」というような言葉しか伝えられない人に、自分の憧れの先輩を取られたのか理解できなかった。先輩と釣り合うとは思っていない。けれど先輩の過去の辛さを共感することのできない女に、先輩が笑顔を見せるようにさせられたことがただただ嫌だった。


 その時に芽生え、育ち、ついには根を生やして心の底に確立してしまった――奪いたい欲。


 それが今、六辻遥という、先輩よりも激しく心が消耗し、完全に無感情となった同級生の男子に再発させらていた。六辻に憧憬はないし恋慕もない。しかし、六辻に近寄って好意を抱く人は皆、奪ってしまいたいと、その気持ちがまた顔を覗かせていた。


 結局、先輩の卒業まで先輩の彼女を引き剥がすことは不可能だった。先輩から彼女を消すことが、何よりも心を苦しく締め付けたから。


 だからこそ、今回はその過去も重なって強かった。過去が悲惨で無感情の人は、桜羽にとって似た痛みを知れる存在。そんな存在に無傷の他人が堂々と恋心を抱くと、それを目の前で取り除いてやりたいと、一瀬逢を被害者にすることを決めていた。


 過去が悲惨な先輩を知らないのに、恋愛感情を抱くことが嫌いで剥がそうとした当時とは違う。今は、過去が悲惨な六辻に好意を抱く一瀬の目の前で、六辻を誑かして一瀬を悲しませたいという性悪女のそれが現れていた。


 本当は持ちたくなかったが、曲げられてしまった性格によって持ってしまった悪い部分。良くないことだと分かっていても、過去が重なって欲を満たしたかった。幸い今は入学して間もない。今人間関係が瓦解しても、然程苦労することはないだろう。


 大前提として、一瀬が六辻を好いていなければならないが、それを知るために桜羽は日々スキンシップを重ねて有無を確認していた。六辻に近づくと、その時の一瀬は毎回六辻から桜羽を引き剥がし、嫌そうに眉間に皺を寄せていた。


 好意を抱いていることは確実だと証拠は得ている。だから後は、運良く組み合わせの中に六辻と一瀬が居た釣りにて行動に移すだけ。後悔はない。ただ、一瀬の好意を砕ければそれで良い。


 「我ながら、楽しみなのは何とも言えないな……」

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