第8話
俺はなにかかける言葉を探したが、いい言葉が思いつかなかった。
「泳ごう」
気づくと俺はそういっていた。
彼女はただ見ひらいた目で俺を見ていた。
「一緒に海を泳ごう」
そういった俺に彼女はこくりとうなずいた。
なぜ泳ぐという言葉が飛び出してきたのかわからなかったけれど、彼女と海を泳いだらきっと楽しいだろう。
それに、海は彼女の世界だ。彼女のことを知るのなら、海の中のほうがいいに決まっている。
彼女と午後に一緒に泳ぐ約束をすると、特に話すこともみつからず、少し気まずい雰囲気を残したまま別れた。
水着をはき、上にTシャツを着て、鞄にタオルとのみものをつめて、俺は家を出た。
朝逢ったとき、彼女といつもと同じように話せなかった。
自分は彼女が人魚だということを、早々に受けいれていたと思ったのに、やはり、どこか戸惑いもあったみたいだ。
彼女はなにも変わっていない、ただ、俺が今まで知らなかった部分を知っただけ。それは、わかっている。けど、俺はそれ以外だって、彼女のことをなにも知らないままだ。
出来ることなら、もっと、彼女のことを知りたい。
それは、やはり彼女のことが好きだからだと思う。
そんなことを考えている間に、いつもの浜辺が見えてきた。
そこには、もう彼女がきていて、座って俺が来るのを待っている後ろ姿がどこか儚く見える。
「ごめん、待った?」
近づいていっても、彼女が気づく気配はなく、彼女の後ろで一呼吸置いて、ようやくそう声をかけることが出来た。
振り向いた彼女は、涙を流していた。
その顔は涙を流していることに気づいていないようだった。だから、俺は泣いていると気づくのに一瞬でも時間がかかってしまう。
その顔はあまりにも美しかった。
「なんで泣いているの?」
しばらく見つめあった後に言葉が自然に口をついて出ていた。
「え?」
そういって、手をほほにあてた彼女は濡れていることに気づき、あわててそれをぬぐった。
どうやら、自分が涙を流していることに、本当に気づいていなかったようだ。
「わかんない。昔のことを思い出して、今のことを思い返して、これからのことをただ考えていただけなんだけど」
涙をふき終わり、彼女はごまかすように笑いながらそういった。
「悩みがあるんなら、話しぐらい聞くよ」
「大丈夫。それより泳ごう」
俺の言葉にそう答えると彼女はたち上がり、さっさと海に向かってしまった。
服を脱いで鞄とともに置くと、俺は後を追いかけた。
波打ちぎわで彼女はたち止まり振り返る。
俺が追いかけてきていることを確認すると、波の中に、一、二と跳ねるように進み、三、と大きく飛び上がり、海の中に飛びこんだ。
俺も彼女の後を追いかけ海の中にはいっていく。
彼女が顔を出したのは、浜から二十メートルほど離れたところだった。
俺の顔を一度確認すると彼女はまた海の中に消えてしまう。
さすが人魚だ。一瞬のうちにあんなに遠くまで泳いでいくなんて。そんなことをぼーっと考えながら進んでいくと、
「わっ!」
彼女がいきなり目の前から飛び出してきたものだから、俺は驚いて後ろにこけてしまった。
海の中に浮かぶ俺の手をとり、ヒレのある彼女はすいすいと沖に向かって泳いでいく。
この感じ……。
俺は思った。
この感じを俺は以前にも味わったことがある。
泳ぎのうまい誰かに以前にもこうやって手を引かれ、自分で泳ぐよりももっと早く水の中を突っ切ったことが。
俺が苦しくなってきたのがわかっているみたいなタイミングで彼女は止まり、水面から顔を出した。
俺は大きく息を吸った。肩が自然と上下してしまう。
そんな俺を見て彼女が心配そうに声をかけてきた。
「大丈夫? ごめんね。苦しかったよね」
首を横に振り、息を整える。
「全然平気。それにしてもやっぱり早いな」
そういいながら笑いかけると、彼女はてれ笑いになりながらも、少し誇らしそうだ。
「人魚なんだもん。もっと速く泳ぐことも出来るよ」
そういって胸を張る彼女。
自分のテリトリーにきたからか、いつもよりも無邪気で無防備で自由に見える。そんな彼女がとても愛おしく思えた。
「もっと速く泳いでみてよ」
「じゃあ、私の首にちゃんとつかまっててね」
そういって俺に背中を向ける。
なりゆきではあれ、後ろから彼女に抱きつく形になってしまうことに少し戸惑いつつも、肩のあたりに腕を回した。
「息を吸って」
俺が息を止めると、彼女は一メートルほど潜って、すごい勢いで泳ぎ出した。
体全体で水の流れを感じる。
やはり、それも以前に感じたことのあるものだった。
誰と、どこでなんだろう?
俺は記憶の糸をたぐった。
それは、こんな広いところでも、深いところでもなく、プールとかでもなかったはずだ。緑がある自然の中だったように思う。
ぼやけながらもその場所が浮かび、人も浮かぶのだが、まったくはっきりしない。
まだ息に余裕があったのに、彼女がスピードを落とし水面に向かった。俺の記憶の糸もそこで途切れた。
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