三月十八日

佐倉有栖

は、まだ来ない。

 当日の朝までは、完走する気満々だった。

 お題を見た瞬間にいくつかのお話が浮かんだし、大体の話の流れだってすぐに決まった。予定文字数は五千字ほどで、二時間もあれば書きあがる。万が一文章に詰まったとしても、三時間あれば十分だ。そのあとで誤字脱字確認をゆっくりしたとしても、一時間はかからない。

 四時間もあれば十分に一本書きあがると思っていた。

 頭の中ですでに出来上がっている話を、キーボードで打ち込むだけ。そう考え、寝る前の二時間を執筆にあてることにした。しかし予想外に筆は進まず、何度も躓いては気分転換に音楽を聴いていた。一曲聞いたら書こうと思っていたのに、二曲三曲と聞き流しているうちに眠気が襲ってきた。

 ボンヤリした頭で書いても時間がかかるばかりで、良いものは出来ない。

 ここは潔く、一度寝てしまったほうが良い。少々早起きして、残りの文字数を一時間ほどで書き上げればなんとかなる。誤字脱字確認は、書きながらやれば良い。


 そう思い、ベッドに入って熟睡すること数時間。目覚ましの音に叩き起こされた頭は、眠る前よりもボンヤリとしていた。睡眠不足からくる機嫌の悪さに、もう十分の猶予を与える。

 さらに十分、もう五分、三分、一分。

 締め切りまで残り三十分。今から必死に頑張れば間に合うだろう。

 重たい体を起こし、なんとかパソコンの電源をつけると続きを書き始めた。




「で、結局書きあがらなかったのね」


 低音に似合わない、しっとりとした女性のような口調で言われ、突っ伏したまま頷く。飲み終わったカフェラテのカップを指先で弄び、深いため息をついた。


「あともう二つだったんです。せっかく五回目までは参加したのに……」


 覆水盆に返らず。何度後悔しても、過ぎてしまった締切日はもう戻らない。


「あの時、せめて書き上げてから寝ていれば、三十分前に起きても間に合ったんです。でも、前日に友達と食事に行って疲れてたので、どうしても起きてられなくて。眠いまま書いても良いものは出来ないし、お話自体は出来上がっていたから少し寝れば大丈夫だと思ったんです」


 締め切り時間ギリギリまで粘ったのだ。何とか形にしようと、懸命にタイプした。それでも、頭の中のイメージをうまく言語化できずに悩んでしまった。


「中途半端な文章を書くくらいなら、いっそ見送ったほうが良いよなと思ったんです。でもやっぱり、最後まで書き上げた人たちの完走報告を見ると、自分も良い報告をしたかったなって思ってしまうんです。あの時、もっと頑張れていたら……」

「過去の自分に責任を押し付けたって、何にもならないわよ」


 男性が苦笑しながら首をかしげる。胸元のループタイが揺れ、ターコイズ色の石がキラリと光を反射した。


 彼の言っていることは、もっともだった。いくら同じ自分とはいえ、にしか存在していない以上、過ぎ去った時間にいる自分を非難しても仕方がない。今から見ると過去の自分は、その時のにおいて、未来の自分に行動を託したのだから。

 過去の自分には、その時にできなかった正当な理由があったのだろう。しかし今となっては、過去の自分の主張などただの言い訳に過ぎない。その時にできていたのに、やらない理由を考えて放棄し、未来に投げたのだから。


 の自分が行動しない言い訳を考えて未来に託し、未来になったの自分が過去の自分の怠惰をなじる。そんな何の生産性もない行動を、ずっと続けているような気がする。

 いつだっての自分は何もしたくなく、行動を起こさない。未来の自分ならきっと何とかしてくれるだろうと、責任を転嫁する。そしていざ未来がやってきたところで、それはとなり、過去のと同じように何もしたくなくて行動を起こさない。

 頭ではわかっているのだ。を変えなければ、未来のだって変わらないのだと。それでも、過去から続く怠惰なの自分が足を引っ張るのだ。


「終わってしまったことに言い訳をしていても仕方がないわ。逆に、やらなくてプラスになった良い理由いいわけはないの?」

「そうですね……パっと思いつくのは、睡眠時間が確保されたことですかね」


 お題が出た二日後ないし三日後の午前中までに書き上げて提出するというタスクがなくなった分、遅い時間まで起きている必要も、早朝に目覚ましをかける必要もなくなった。


「書かなくてはというプレッシャーがない分、気楽に過ごせました」


 お題という制約や明確な締め切りがある分、書き上げなくてはいけないという重圧がすさまじかった。


「時間が空いた分、ゲームができましたし、色んな人の小説が読めました。漫画も読めましたし、ネットショッピングも楽しめました。セールで買いたかったものもばっちり買えましたし、動画や映画も見れましたし……」

「やだ、良いこと尽くしで充実してるじゃない。それ、参加しなかった良い理由いいわけには十分だと思うわ」


 そう言われてみれば、そうかもしれない。

 物語を書くというのは、想像以上に時間もエネルギーも必要になる。やらないほうが充実するというのは、当たり前かもしれない。

 でも、書きあげたときの達成感は何物にも代えられない。出来上がったばかりの小説を見直す時のワクワク感も、それを投稿したときの緊張感も、反応があったときの高揚感も、やらなければ味わえない特別なものだ。

 どんなに充実した時間を過ごしていても、ふと我に返ったときに書き上げられなかった物語の続きを思い出しては、自己嫌悪に陥っていた。


「折角、このお店のお話を書いても良いって言ってくれたのに……」

「あら? ここの話は書いたじゃない。ちゃんと読んだわよ」


 両手を広げて微笑む男性を一瞥し、壁一面に並んだ天井まである本棚を見上げる。すべての棚にはぎっしりと本が詰まっており、文庫本から単行本、大型のハードカバーから豆本まで並んでいた。日本語はもちろん、多種多様な言語がそろっていた。

 深く息を吸えば、インクと紙のにおいがする。

 どう見ても書店なここは、食堂と名の付く場所だった。

 ポッカリとあいた中央部に、申し訳程度にテーブルと椅子が並んでいるほかは、食堂の要素はない。入口以外の三辺は全て本棚で埋まっており、キッチンの類はない。奥に置かれた長机の上にレジが置いてあるだけで、他は目につくものは何もない。

 それでもここは、れっきとした食堂だった。

 この男性は、本の中から文章をコピーし、空中にペーストすることで料理を作っていた。少なくとも、彼以外にこんな作り方をする人は見たことがない。それゆえ、ここでしか食べられない料理が数多くあった。


「ここのお話を最初に持ってきたからこそ、完走したかったんですよ」


 拗ねたように唇を尖らせれば、男性がヤレヤレと言うように首を振って微笑んだ。困ったような顔で目を細め、口の中で小さく「仕方がないわねえ」と呟くと一回だけ手を叩いた。


「わかったわ。時間にねじれを作って、明日からまた新しい三月一日を始めてあげる。今日、三月十七日が終われば、三月一日が始まるわ。もう一度最初から、挑戦してみなさい」

「そんなこと、出来るんですか?」

「出来るわ。言霊ですもの、言ったことは現実になるわ。……でも、忘れないでね。明日から始まるのはよ。今までの三月一日から十七日までは、失われてしまうわ」

「今日のことを覚えていないってことですか?」

「そうよ。だから、また同じことを繰り返さないようにね。三月十七日に、を教えてね」


 指先からすり抜けてしまった挑戦の切符を、再び手にすることができるとは思わなかった。

 今度こそは、絶対に最後まで完走する。そう心に誓い、男性にお礼を告げると気合十分に食堂から出て行く。


「……次で七回目の三月一日なんだけどね」


 ポツリと呟かれた男性の声は、開いたドアから流れてきた外の喧騒に紛れて、耳には届かなかった。


「完走した感想を教えてねなんて言うもんじゃないわね。完走しない限り、永遠に三月一日が始まっちゃうんだから」


 覆水盆に返らず。

 三月十八日は、まだ来ない。

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三月十八日 佐倉有栖 @Iris_diana

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