グッド・フォーリング
詩人(ことり)
本文
「雲ひとつありませんね」
「太陽がうるさいくらいね」
「今日は雨粒のひとつも降りはしないだろうと思っていました」
「わたしもそう思った」
「それなのに、あなたが降ってくるものですから」
「青い空のときに死にたかったの」
「死にたいのに、どうしてあなたは空中に留まっているのですか」
「そんなこと、私にもわからない。一刻も早く地面に激突したいのに、何が私を止めているのかなんてわからない」
「本当なら、僕だって両手を伸ばしてあなたをこちらに引き入れるべきなのでしょうけれど、体が動きません」
「その割に、口はよく動くのね」
「親からは、お前は口から生まれてきたのだと揶揄われました」
「親なんて、ろくなものじゃないわ」
「それはそれは。何かあったのなら、聞きますよ」
「簡単な気持ちで優しくしないで」
「簡単なんてことは」
「私が私を殺したい理由をあなたに話して、それであなたは私に何をしてくれるの。私の問題を完全に消失するように尽力してくれるの」
「それはできないけれど、話さなければならないときだってあるのではありませんか」
「それは話せる人の言い分か、もしくは私のような困難に直面したことのない人の言い分だわ」
「それでも、こうして真っ逆さまのあなたたとベランダで目を合わせて、その瞬間に時間が止まったことは、何かのお告げだと思うのです」
「私の過去と決断をあなたに話したら、あなたはきっと、このときのことを何らかの糧にしてしまう。これを機に何か行動を起こすかもしれない。そうでなくても、この日のことを『面白いことがあった』と記憶してしまうのよ」
「そういうふうに、誰かの重大な出来事を一瞬の道楽として消費してしまう人間を、僕も何人か知っています。だいたいが刹那的で、明日のことすら考えない。けれど、それは今現在を全速力で這い回っているとも言えます」
「たしかに、そうかもしれない。あなたから見れば、その刹那的な人間もそう見えるのかもしれない」
「あなたはやっぱり、そう見ることはできませんか」
「頑張れば、努力すればきっと大丈夫。けれど、私は眼下の、あなたからすれば頭上の階層から、自分の身を投げるに至っているの。努力しようなんて考えられない」
「あなたは自分の人生に尽力し、そして懸命を軸としていて、遂には潰れてしまったのですか」
「誰でもそうだと思う。最初から死ぬ気がある人間なんてほとんどいない。自分は何かを成せる、何かに成れると信じて直走るの。でも、ある日、ほんの小さな石に躓いて脚を止めたとき、その脚がすでに機能不全に陥っていたことを知る」
「その停止した両脚に鞭を打ってまで柵を乗り越えたのは、そうすることがあなたを重圧から離脱させる最善の方法だと確信したからですか」
「最善かなんてわからない。私には何もわからない。ただ、無意識に、あの黒い地面だけが私を全的に受け止めてくれると思ったの」
「ひとつだけ言いたいのは、僕はあなたの自死を止める気はないのです。あなたが決定したことに、まったくの他人である僕が妨げる道理はないのです」
「それは助かるわ。私、いまさらになってあなたに止められたところで、もう戻ることはできないから」
「僕はあなたのことを何も知らないし、あなたもまた、僕のことは顔しか知らない。今から名乗ることもありません」
「ひどく非開的ではあるけど、そうね。私たちは落下の最中、9.8の重力加速度を潜り抜けて出会っただけの、赤の他人だから」
「そして、あなたが頭を下にしながらも空中に留まっていることは、決してあなたの心の奥があなたの決断を否定しているからではないと僕は思うのです」
「そうではないことだけは私にも分かる。けど、では私があなたと出会ったのは、なぜかしら」
「僕はあなたという人間の存在を知り、あなたが歩いてきた道を僅かながら知り、その決断の過程を知り、そして、あなたという人が死の間際に何を思うのかを知った」
「すると、どうなるの」
「僕はもうすぐ、あなたがあのコンクリートに激突する瞬間、潰れるあなたと噴出する血液を悼む世界でただひとりの人間になるでしょう」
「そう。それは素敵だわ。私、自分が死んでも誰にも関係のないことだと考えていたから。あなたみたいな人がいると知ったら、この死はほんの少しだけ良いものになる」
「そうであれば、よかった」
「それじゃあね」
「待ってください。いちばん大切なことを言うのを忘れていました」
「何かしら」
「おはようございます。今朝はいい天気ですね」
「おはよう。良い日だったわ」
グッド・フォーリング 詩人(ことり) @kotori_yy
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