犯行時刻現場存在証明

 つい先日、我が家で出来した小さな修羅場の話である。


「カクヨム見たんだけど、なんか変な奴と飲みに行ってない?」


 何の前触れもなく、妻からそんな言葉をかけられた。平日の夜、娘は眠りにつき、私は生きるのに一切役立たないYoutubeの動画をiPadで1.5倍速再生しながら時間を潰しているところだった。片耳にイヤホンを差していた私は、聞こえなかったふりをすることさえ考えたが、反射的に振り向いてしまっており、回答せざるを得ない状況に追い込まれていた。

「……何勝手に読んでんだよ」

 とりあえず逆切れしておいた。というのも、先の台詞は、妻が私のカクヨムアカウントをフォローして作品を読んでいる、という流れで発されたものではないからだ。妻は基本的に十八禁のBL作品にしか目を通さないので、私の書いたものを読む気など一切ない。だからこそ私は、二人の共用のノートPCで堂々と執筆を行っており、ウェブブラウザ上でカクヨムの編集画面を開いたままにしてしまうこともざらにある。要するにこれが油断以外の何物でもなかったのだが、推しのボーイズグループのMVをYoutubeで再生しようとPCを開いた妻が、偶然、私の下書き段階の作品を目にしてしまった、ということのようだった。ちょうど、前章『ぼくのかんがえたさいきょうのトロッコ問題』の後半を執筆しているところだった。

 執筆途中の作品を予想外に読まれたことへの気恥ずかしさ(こっそりしたためていたポエムを朗読されたような感情)とそれを糊塗するための憤りが兆したが、何よりも「よりによって最悪なところを読まれたものだな」と思った。


「これってあれじゃないの? 出張だったのに、宿直が入ってたって言って帰って来なかった日のことじゃないの?」


 何言ってんだ、こいつ。事情を知らない読者諸兄は当然そう感じたことだろう。要するに、2023年9月某日、私が都内へ出張した後、直帰する予定であったにも関わらず、職場での宿直業務が当たっていたことが発覚して急遽職場に向かうことになり、翌日の勤務を終えるまで自宅に帰れなかった、という出来事があったのである。本来の私が宿直の日程を忘れるという平凡にして致命的なミスをするタイプでないことも手伝って、妻の中では妻なりに不信感を覚えるエピソードだった、ということらしい。

 確かに、普段の私であれば起こすはずのないミスかもしれない。だが、ミスをしない人間はいない。どれだけ注意深く生きていても、たった一度、人生最初の起こりえないミスが文字通り命取りになる事例すらある。


「何を疑っているのか知らんけど、『そもそも論』として良い?」

「うん?」

「これ、フィクションだよ」

「でも一部実話なんでしょ」

「ごく一部ね。S・Tなんていうイニシャルの女友達はいないから。というか、女友達自体いないから。人生で一人もいたことない。知ってるだろ」

「……え、実は男ってこと? 男と会ってるの?」

「いや、作中のS・Tは女だよ。でも、現実にはいないってこと。現実にいない奴と飲みには行けないだろ」

「裁判の傍聴は?」

「それは行ったよ。出張の理由はそれだから。同僚の証人出廷の記録をとる必要があったってだけで、S・Tなんて奴はいないのよ。で、その後、同僚と喫茶店に行って感想戦みたいなことやって、職場に終了の報告入れたところで、宿直だったことが発覚して、俺だけ職場に向かう羽目になったって感じ」

「証拠は?」

「証拠? ……なんだろ。職場に確認してもらうのが一番アレなのかな。宿直日誌とか残ってるし、9月○日に俺が職場に戻ったことは証明できるはず。マジで気になってるなら電話でも何でもしてくれ」

「え、じゃあ、まじでこのS・Tっていう女はこの世にいないわけ? 架空のキャラクターなの?」

「そう言ってんじゃん」

「……キモ」

「いや、こっちの台詞だから。勝手に人の小説読んで現実だと思い込んで追及してくるって相当だからね」

「それは、悪意を持ってまるで本当のことみたいに見せかける変な作品を書いてる方が悪い」

「誉め言葉と受け取っておこう」

 とりあえず、諍いは何とか無事に終結した。私は念のため、『ぼくのかんがえたさいきょうのトロッコ問題』の結末を、誰がどう考えてもフィクションであるとわかるように書き換えてから投稿し、自宅のPCでカクヨムの作品を執筆する際は、最後に必ずログアウトをすることを固く誓ったのであった。




 




 妻が指摘している日に関して、確かに私には職場の日誌という鉄壁の犯行時刻現場不在証明(アリバイ)があるが、私がS・Tと会っていたのは、別にその日ではないので、実は何の証拠にもなっていない。その日の出張の理由だって、本当は裁判と全然関係ない。

 2023年9月、妻の中で、私は二回、宿直業務をこなしたことになっているはずである。私が出張から呼び戻された上記の一回と、いつものようにあらかじめ「宿直で帰れない」と伝えていた別の一回。当然、妻にとっては急遽決まった方が疑わしく感じられたに違いないが、別の一回こそ、私の虚偽申告であり、本来的には宿直でも何でもない通常業務の金曜日であった。

 私はその日、有給休暇をとって、仕事のふりをして家を出発し、都内へ向かった。S・Tとの約束の時間までだいぶ暇があり、その時間を潰すのに苦労した。裁判は午後からだった。

 何故、都内で裁判を傍聴するにあたって、わざわざ「泊まり」の計画を立てたのか。件のS・Tという女性と疚しい関係にあるから、というわけでは当然ない。

 この作品の全章を通して読んでいる奇特な方にだけはわかってもらえるかもしれない。要するに、私達が何の裁判を傍聴しに行ったのか、という話である。……私の知人であるNが被告人となっている例の刑事事件に関するものに決まっている。


『被告人となったNは、痩せて、面差しが変わっていた。入廷直後、傍聴席の我々の存在に気付き、一瞬だけ目を見開いたが、顔を俯けるようにしてすっと目を逸らした。

 それから、二度とこちらを向くことはなかった』


 私は裁判が終わった後、その日の夜に、『カフェ巡り』でNと時を過ごした例のネットカフェをもう一度訪ねるつもりでいた。誰も得をしないフィクション世界に殉じ、感傷に浸るためだけに、仕事を休み、家族を欺いたのである。



 傍聴を終えて近くの喫茶店に赴き、S・Tに上記の旨を伝えたところ、彼女は「さすがのヤバさですね」と呆れたように笑っていた。

「実際に行かないと自分の中でこの件が終わらないような、呪縛めいたものを感じるんですよね」

「気のせいですよ。帰った方がいいですって」

「まあ、それはそうなんですが。乗り掛かった舟なんで、ここまで来たら行くしかないでしょ。裁判傍聴した時点で、色々と囚われてることは間違いないんで」

「……私は止めましたからね」


 喫茶店を出た後、今からネカフェに向かうと早すぎるんじゃないですか、ちょっと時間を潰しませんか、と言って、S・Tは居酒屋に行くことを提案してきた。居酒屋で二時間が経過した頃、夫が今日は帰れないという連絡を寄こしてきた、とS・Tがスマホのメッセージアプリの画面を見せてくれた。

「淡々と、了解、の可愛いスタンプでも返すのが正解なんでしょうか」

「どうでしょう。夫側の意見として、機嫌を損ねないでいてもらえるとありがたい、というのは確かですが」

「そんな都合の良い話があるわけないでしょう」

「ですよね」

「まあ、今日もどうせ遅くなるか帰って来ないだろうな、と思ってここにいるんで、良いんですけどね」

「自分の時間を自由に使えるってのは、夫婦にとって良いことでもありますよ。私なんて、飲み会に参加するためには前日までの事前決裁が必要ですから」

「その日に急に飲み会が入ると、作った夕飯が無駄になるし、納得は出来ますよ」

「いや、『ちょっと今から飲みに行こうぜ』と気軽に言い合える関係性の友人知人がいることが羨ましくて許せないからだそうです」

「……さすがですね」


 店を出て、最寄りの駅まで歩き始めたタイミングのことだった。前章の設定を踏襲するなら、五人に増えたS・Tのうちの一人がこんなことを口にした。

「今迫さん、今から例のネカフェに行ったとして、一人じゃカップルシート使わせてもらえないと思いますけど、どうするんですか?」

「え、どうもしないですけど。完全に一緒の席に行かないといけない、みたいな病的な執着は無いんで」

「目の前に、今夜旦那が帰って来ない人妻がいますよ」

「いや、実話系怪談でそういうの求めてないんで」

「いや、私もそういうつもりは一切無いんで」

「なら言い方おかしいでしょ」

「今迫さんは大丈夫な人なんで」

「まだ言いますか」

「それに、ほら、こっちは五人いるんで。一人いなくなっても、四人が家に帰れば、多数決で家に帰ったのと一緒なんで」

「なるほど、とはならんやろ。なんで急にそんなノリになったんです? さっきまで否定的だったじゃないですか」

「夫が帰って来ない、の連絡があった時、あの日今迫さんをあえてネカフェに誘ったNさんの気持ちが、何となく、ちょっとだけわかった気がしたんです。その追体験ですよ。……エモくないですか?」

「いや、エモいよりヤバいでしょ。追体験すべき話じゃないですし。私、書きますよ、これ、カクヨムに」

「それ、何かの抑止力になりますかね? どうせ殆ど誰も読んでないフィクションなのに」

 S・Tは、冷ややかな口調で告げた。確かに、公開したところで数人の目に留まるのがせいぜいで、S・Tが五人いる以上、現実のことではありえない。現実に何の影響を与えられるというのか。

 そこからも少し議論を重ねたが、どうやら、五人のS・Tも一枚岩ではないらしく、ネットカフェに行くことに心から乗り気なのはどうやらその内の一人だけであり、残りの四人はどちらかと言えば帰るべき、と考えているようではあった。人間の心の迷いが受肉するとこんな感じなのか、と私は素直に感心した。心の中の一対四が覆るためには、本来、何らかの外部からの強い干渉(後押し)が必要なのだろうが、分離して現出したことで、話が悪い方に単純化してしまっている。

 世間では、酔っている、とか、自棄になっているとか、この状況を示す適切な表現があるのではないかと思うが、それをどれだけ訳知り顔で指摘したところで、今更意味などない。少なくとも、当時の私は十分理性的に、彼女に対し、翻意するよう何度も促したつもりである。

 当然、捨て台詞だけは、決まっている。

「……私は止めましたからね」



 その後、S・Tから夫婦間で何か揉め事があったという話は聞かない。多数決で言えば帰宅したことになっているし、そもそもあの日は夫の方が帰って来なかったわけだから、何に気付かれたということもなく仲良くやっているのだと思う。

 私についても上記の通りの愉快な修羅場が出来したものの、総じてすこぶる楽しい日々を送っている。



 なお、この章は誰の検閲も受けずに独断で公開していることを申し添える。

 公開目的は、『への戒めのため』。それ以外にない。

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