「私のことだけ誰も助けてくれない」

 実話系怪談のふりをして質の悪い日記を世間に公開するのが常なものだから、私にはホラー作品を書いているという実感が決定的に足りない。


「せっかくだから、怖い話でもしますか?」


 隣の女が声を潜めてそのように提案してきたのは、深夜二時に差し掛かろうという頃合いだった。私は完全に虚をつかれたかたちとなった。

 2023年9月某日、都内某所のネットカフェで夜を明かすことになった私は、本作でS・Tと呼称されるその『想像上のイマジナリーフレンド』と、個室の一歩手前みたいなカップルシートに並んで腰かけていた。

 S・Tとの会話内容については、別の章(『続・カフェ巡り』他)で触れる機会が多く、『令和の実話系怪談』というタイトルの作品に取り上げているという時点で、普段から広義の『怖い話』以外の何物でもないわけだが、話している時点でそんな風に認識することは殆どない。現実の殺人事件の犯人について話していても、最近見たアニメの登場人物について話しているのと殆ど似たような感覚で過ごしているというのが実情だ。


「……何が『せっかく』なんですか? 丑三つ時だからってことですか」

「夜通し話せる機会があると、百物語とかやりたくなる人じゃないんですか?」

「……なったことないです。私のこと何だと思ってるんですか」

「……大丈夫な人?」

「百物語をやる人は、大丈夫じゃない方の人が多そうですけど」

「じゃあ、大丈夫じゃない人」

「大丈夫か大丈夫じゃないかだけで人を表現するのは全然大丈夫じゃないですからね」


 私とS・Tの関係性や、何故一緒にネットカフェで夜を明かすことになっているのか、その辺りの事情を語るのは別の章(『犯行時刻現場存在証明』他)に任せるとして、私には今でも正解が分からない。つまるところ、こういうシチュエーションで怖い話でもするかという提案がなされた時、話を受けた側は、快諾するべきなのか、それとも断固として拒むべきなのか、という話だ。

 むしろ、正解なんて無いのだと、有識者に優しく解説付きで諭されたいのが本音ではある。


「……中学高校の頃、友人が通学で毎日バスを使ってたんですけど」

「え、何かもう始めようとしてます?」

「せっかくですから。丑三つ時ですから。……面白かったらカクヨムで使ってもいいですから」

「……いや、『令和の実話系怪談』っていうタイトルなんで。二十年も前の話されても余程じゃないと使えないですよ」

「ハタチの子から聞いた三年前の話ってことにすれば良いのでは?」

「ハタチの人間との接点が思いつかない上、コロナ禍真っ只中っぽいエピソードも思いつかないので、たぶんリアリティがなくなります」

「……友人が通学で毎日バスを使ってたんですけど、オンラインの在宅学習が始まったおかげで乗らずに済むようになったんですよ、みたいな」

「いや、最初の導入とかけ離れた話になりますよね、それ」


 とはいえ、コロナ禍のキーワードをふんだんに使った怖い話も意外とありだな、と感じたのも事実である。学校の怪談や都市伝説の内容も、時代により移り変わると聞く。私自身は実話系怪談の収集家などではないため、その辺りの傾向に明るいわけではないが、興味が全くないわけでもない。いつか、話を創作する際にでも、役に立つかもしれない。


「友人の名前を、……U子としましょう。あ、アルファベットのUですよ。イニシャルだとYですけど」

「何でもいいですけど」

「U子の家から二分のところに最寄りのバス停があって、そこから十五分かけて駅に出て、電車で三十分かけて学校の最寄りの駅まで行って、三分歩いて到着、という感じです。都内の私立中高一貫校に通う人間としては、まあ、普通の通学時間だと思います」

「私も、一時間くらいかけて通学してました」

「U子は常々、通学経路の中で一番辛いのが、バスの部分だと言ってました。バス路線の終点に新興住宅地が出来たのに増便が追いついておらず、通勤・通学の時間帯は、駅に向かうバスがとにかく混んでいたそうです。各バス停には長蛇の列、来たバスに人が犇めき合っていて全員が乗り込めず、一本や二本見送るのも日常茶飯事だったとか」

「きついですね。混んでいるバスは、乗り降りに時間がかかるせいでダイヤ通り進まないし、とにかく最悪なんですよね」

「U子も、出来るだけ早い時間に家を出るようにしたりして、何とか空いているバスに乗ろうとしていました。その日も、だいぶ余裕のある時間に家を出て、何本かバスを見送ったとしても遅刻しないという感じだったみたいです。彼女が最寄りのバス停に着いた時点で、十人くらい並んでいたということです」

「全員乗れなさそう」

「そうですね。U子もそう思って、次のバスには乗れないだろう、と覚悟しつつ、通学用バッグから英単語帳を取り出しました。あの、小さい短冊みたいなやつを金属のリングでまとめて、表に英単語、裏に日本語訳を書いて自分で作るやつです」

「懐かしすぎるでしょ。令和にもあるんですかね、あれ」

「どうでしょう。スマホアプリにとって代わられてそうですけど」

「英単語帳、話の筋に関係してくるんですか?」

「まあ、関係あると言えばありますね。……五分もしないうちに一本目のバスが来ましたが、思ったよりは空いていて、何とか自分まで乗れるかも、という感じだったそうです。ただ、時間の余裕があったこと、一本は見送るものと事前に覚悟していたこと、先頭で二本目のバスに乗った方がまだ車内で良い位置取りが出来る見込みが高いことなどから、あえて乗車列から外れて乗らないことにしました」

「わかります。私も満員の電車でたまにやってました」

「その時には、U子の後ろに二人の客が並んでいたそうですが、その二人はU子の意図を察し、U子を追い抜いてバスに乗り込みました。最後の一人、サラリーマン風のおじさんだったそうですが、その人は、『乗らないで良いんですか』とU子に確認までしてきました。U子は、小さく頷き、『あ、どうぞ。次のに乗りますので』と答えたそうです」

「追い抜くべきか、一緒に次の一本を待つべきか、微妙な時もありますよね」

「バスが出発して、U子はまた単語帳に目を落とします。そして、十秒と経たないうちに、とてつもない大きさの衝突音が聞こえてきたそうです。あまりに驚いて、単語帳を落としたと言ってました」

「急展開ですね」

「交通事故でした。三十メートルくらい先の交差点で、進行中のバスの横腹にノーブレーキの軽自動車が左から突っ込んできた、という状況だったみたいです」

「左から? U子さんが乗るはずだったバスの、乗降口がある側ということ?」

「そうです」

「怖」

「まさに、そういう話をしています。軽自動車の運転手は即死だったと聞いています」

「バスの乗客は?」

「六名が搬送され、うち二名重体、というところまで全国紙の新聞でも見ました。私自身はその先を知りません」

「……U子さんは九死に一生を得た、というわけですか」

「話には続きがあって、U子は、単語帳を拾ってコートのポケットに入れると、事故現場に走って向かいました」

「コート? 季節は冬だったんですね」

「秋です。寒い朝でした。付近には住宅も多く、現場には人が集まり始めていました。見て見ぬふりをすることも出来たんでしょうけど、U子は正義漢が強い娘でした。現場に着いた後、携帯電話で救急車を呼んだそうです。重複して既に何件も通報があったらしく、救世主になったというわけでないあたりが微妙にリアルですが」

「それでも凄いですね。私には絶対無理だと思います」

「U子は、その後も事故現場に残って、負傷者の救出作業や乗客の避難誘導、周囲への声掛けなど、出来る範囲で手伝えることをしていました。少なくともそのつもりだった、と言ってました」

「……? なんですか、その言い回しは」

「その日、U子は結局学校を休んでいます」

「まあ、それはそうでしょう」

「彼女はその日、、母親と警察署まで被害届を出しに行ったそうです。彼女は、コートのポケットに入れていた単語帳以外の一切を失いました。教科書もノートも、財布も定期入れも携帯電話も、母親から持たされていたお弁当も、体操服も、全てです」


 私は、意外なことの成り行きに思わず絶句した。


「携帯電話も? 通報の後、ポケットに入れておいても良さそうなものなのに、バッグに戻したってことですか? 巡り合わせが悪すぎないですか……」

「『いつもバッグにしまっている』なら、そういうことも起きます。そういう話です。『いつも一本くらい見送る』から九死に一生を得て、でも同じような、特に深い理由のないルーティーンで、他者の悪意により大きな被害を被る」

「禍福は糾える縄の如し、みたいな」

「私は時折、その日のU子の感情を、……想像して、叫びそうになります。自分の代わりにバスに乗り込んだ人は事故に遭って自分は紙一重で助かり、そのことだけでも感情ぐちゃぐちゃになりそうなところ、自分に出来ることをしようと前向きに行動したら、どさくさに紛れて所持品全部盗まれたわけですからね。ちなみに、当時まだ中学生ですよ。一生分くらいの焦燥感を味わって、頭完全にパニックでしょう」

「しかも、状況的に、犯人は近所の住人かバス路線沿線の住人。下手すれば知り合いですよね。最悪じゃないですか」

「そう、普通に考えれば犯人はすぐ見つかりそうなものですけどね。警察官も臨場していた事故現場での犯行ですし。でも、犯人は結局わかっていません。そんな酷い事故現場で、駆け付けてきた善意の中学生のことや、あまつさえその通学バッグのことなんて、誰も気にしてなかったんです。彼女が、バッグが見当たらないことに気付いてオロオロしている時でさえも。端的に、『それどころではなかった』ので」

「……難しい問題ですね」

「U子の絶望の構造は単純ですが、根は非常に深いです。『私のことだけ誰も助けてくれない』。人間、救いのない状況にいるのが自分だけでなければ、まだ精神的には何とかなるものです。良い表現ではないですが、最悪でも傷を舐め合うことができますから。逆に、自分だけが救済から取りこぼされている状況になると、途端に駄目になります」

「被害感情を剥き出しにして怒りのエネルギーに変え、強い推進力を得ているケースもありそうですが」

「あるでしょうけど、その主張、周りの人に同情的に受け入れられると思いますか?」

「あ、無理ですね。辛いのはお前だけじゃないのに何言ってるんだ、みたいに反感を買うことになりそう」

「先ほどの話で、一番の被害者は、一体誰なのか? 順位付けすること自体不謹慎ですけど、死者も出ている以上、U子が一番酷い目にあったというわけでないのは間違いないでしょう。でも、あの現場で、『被害を受けているのに救いの手が差し伸べられなかった』のは、おそらく彼女だけです。彼女は、そのこと自体の絶望と、その絶望感を表立って主張するだけの正当性を持ち得ないという絶望の二つを相手にしなければならなかったのです」


 私は、話を聞いているうちに、S・Tが言外に伝えようとしていることに気付いていた。気付いてしまった、というべきか。他の章で似たような結論に至ったことがあったのを思い出した。

 私とS・Tは、共通の闇を抱えている。とある殺人事件の発生を止められなかったという罪の意識に苛まれ、誰にも助けてもらえない、否、助けようのない隘路にいる。

 絶望と、その絶望感を表立って主張するだけの正当性を持ち得ない絶望。

 それを、二人なら分かち合えるという、希望。

 …………。


「結局、事件はどうなったんですか?」

「どうもこうもないです。U子は次の日から学校に通いました。指定の物でないリュックに、盗まれなかった教科の荷物と新しい弁当箱を詰めて。バスに乗るのが怖くなった、みたいなことはチラッと言ってましたが、普通に乗ってましたよ。携帯電話は週末には新しい機種に買い替えていたような気がします。バッグは卒業まで見つからないまま。もうとっくに時効が成立しましたね」

「U子さんは今、何をやってる方なんですか?」

「……どうなっていて欲しいんですか?」


 思わぬところで質問が返ってきて、私は面食らった。そして、確かに自分が何か歪な期待感を持っていたことを、正確に咎められたような気がして、少しバツが悪い思いをした。


「正直ベースで言うと、犯罪被害に屈せず普通に暮らしていて欲しい、が七割、怪談のオチに使えそうなヤバい状況であって欲しい、が三割ですか」

「……それを口に出せる倫理観の人間がやってて良い仕事じゃないでしょう」

「ごもっともです」

「U子は、犯罪被害に屈しなかったどころか、犯罪を撲滅させることを心に誓い、最終的に警察組織に入るに至りましたよ」

「……あれ、まさかそれって」

「そう、U子は今、貴方の隣にいるの……。ほら、どうですか。怖い話のオチにありがちなやつになりました。伏線回収ですよ」

「なるほどね。これはやられました。友人の話なんだけど、と話し始めるのは大抵自分の話だ、とも言いますもんね」

「恋バナの場合だけじゃないですか」

「それにしても、U子のUはアルファベットで、イニシャルはYみたいなことを面白がって言ってたから、普通に、『ゆうこ』って名前の人の話をしてると思い込まされてました」

「今迫さんは、絶対そう思うと、思ってましたよ」


 S・Tは、こちらを揶揄するような不敵な表情になった。

 そして、これまでで一番声を落とし、片手をメガホンのようにして、私の左耳に無声音で耳打ちしてきた。





 どうして知っているのか、とは思わなかった。


 ただ、その時の私は、とにかくゾッとし、その、怖い、と思う対象を、『女は』と広げるべきなのか、『この女は』に止めるべきなのか、そんな益体もないことを考え続けていた。

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