ぼくのかんがえたさいきょうのトロッコ問題

 哲学者の考える思考実験は、何故、中二病患者をこんなにも惹きつけるのだろうか。『世界五分前仮説』『中国語の部屋』『スワンプマン』『テセウスの船』など、タイトルのお洒落さだけでもワクワクさせてくれる。創作に携わる人間なら誰しも、どうにかしてそれらを自作の中に自然な形で盛り込み、読者に対する知識マウントを取りたいと考えてしまうことを避けられない。

 同じ文脈で語ってよいことかどうか微妙なところだが、『トロッコ問題』という倫理学で用いられる有名な思考実験が、私は非常に好きである。


・線路を走るトロッコが暴走してしまい、このままでは進路上にいる作業員五名が犠牲になる。

・自分の目の前には丁度、分岐器のレバーがあり、トロッコの進路を待避線に切り替えることが出来る。

・進路を切り替えれば五名の作業員は助かるが、切り替え先の待避線にいる別の作業員一名が犠牲になる。

・上記以外の有効手段が一切ないものとして、進路を切り替えるべきだろうか?


 これは、学術的には功利主義と義務論の対立、と説明されている。功利主義的には一人を犠牲にして五人を助けるべきということになるが、義務論に従えば、他の目的のためだけに誰かを利用するべきではない、ということになる。本来は、道徳的に許されるか許されないか、みたいなところが論点なのだが、「進路を切り替えた場合、切り替え先にいた作業員の遺族から法的な責任を追及されるに違いないので、何もしない方が無難である」という、道義的視点より現実社会の理を重視した意見も根強い。

 また、この問題は単体では完結せず、「では、五人を助けるために、自分が歩道橋の上から一人の人間を突き落としてトロッコを止める必要がある状況ならどうか」というような続きがあって、「それでも同じ選択を選べるか」「選べなくなるのだとしたら、それはどのような理由によるものか」といった掘り下げも行われている。

 詳しい話はネットでいくらでも調べられるのでそちらに譲りたいと思うし、さらに言えば、「トロッコの前輪が分岐を越えた瞬間に切り替えを行うことでトロッコを脱輪させることができ、全員助かる」という、線路の物理構造を利用した正答のようなものも出回っているし、ネット上では「どれだけ奇を衒った思いもよらない回答が出来るか」の大喜利みたいな状況になっているのが実情である。余談だが、トロッコ問題をGoogleで検索しようとしたら、「トロッコ問題 正解」というのがサジェストに出てきて、世も末だと思った。「エントリーシート 志望動機」と、インターネット検索で調べるのに似たものを感じる。それをネットで調べようと考える時点で、もうおしまいである。


 私は、トロッコ問題に対して自分なりに明確な答えを持っている。それは、「レバーを倒して進路を切り替えて五人を助けるべきだと心の底から思っているので、他の人間にも絶対にそうして欲しいが、もし本当にそのような状況に陥った時、自分では絶対に出来ない」というものだ。大した意見ではない。大体の人間がそんな感じになると思う。「自分では絶対に出来ない」理由についてだが、「突発的な出来事に弱いので、咄嗟に行動できると思えない」が九割、「いざとなると怖気づくに決まっている」が一割といったところであって、正直、待避線に誰もいないというボーナスステージであってすらなお、レバーを倒せない可能性があることを危惧している。「あの時、レバーを倒していれば五人を助けられたのに……」と後悔しながら一生を終える覚悟は出来ている。

 五人と一人の比較であれば、五人を助けた方が良いに決まっている、という安易な発想からだろう、トロッコ問題で、「じゃあ、その一人が自分の家族でも進路切り替える?」みたいな追撃の質問が飛んでくる場合がある。トロッコ問題の目指す先は「究極の選択」でないわけだから、この追撃は本質的でないのではないか、と思わなくないが、それに対する回答も決まっている。「それを言えば、五人だってそれぞれ誰かにとっての家族なのだから、条件は何一つ変わらない。その一人の方が自分にとってどんな関係であっても進路を切り替えるべきだ。そうは言っても、そんなの無理に決まっている。思考実験であってすら、絶対に進路を切り替えられない、切り替えたくないという関係性の相手がいるなら、それだけで素晴らしいことだと思う」

 そもそも、家族であれば大切だから死んでほしくなかろうというのがステレオタイプな発想に過ぎない。例えば、私は生前の父と非常に折り合いが悪かったのだが、こういった究極の選択の「家族」枠に生前の父を当て嵌めた場合、逡巡の理由になど到底なり得ず、むしろ積極的に死んでもらいたいという方向に偏った選択になりそうですらある。その一方で、サイコパスなのではないかと疑っている私の妻ですら、「五人と一人なら一人の方に死んでもらうが、その一人が娘だったなら五人に死んでもらう」と平然と口にしていたので、血縁というものの強さも認めざるを得ない(その一人の方が私だったらどうか、という問いは怖くて聞けなかった)。要は、家族でも友人でも知人でも何でも良い。「悪いけど、トロッコ問題で五人の方に死んでもらいたい」と思える人のことは、大切にしていただきたい、という話だ(話のテーマが前章『イマジナリー・イマジナリーフレンド』と全く同じになってしまって驚いている)。


 タイトルにつられて、さぞ面白い「究極の選択」クイズみたいなものがあるのだと思ってこれを読みに来た読者のために、私が考える最強のトロッコ問題についても書いておく。


・線路を走るトロッコが暴走してしまい、このままでは進路上にいる冤罪の疑いのない罪で死刑判決が出ている凶悪な死刑囚一名が犠牲になる。凶悪なので、生き残った場合、次に何をしてくるかはわからない。

・自分の目の前には丁度、分岐器のレバーがあり、トロッコの進路を待避線に切り替えることが出来る。

・進路を切り替えれば一名の死刑囚は助かるが、切り替え先の待避線にいる自分の分身五名が犠牲になる。分身を出すことは非常に困難な条件が必要であり、一度消したら次にいつ出せるかわからない。ただし、経験上、分身が消えても、自分に対するダメージは一切ない。

・上記以外の有効手段が一切ないものとして、進路を切り替えるべきだろうか?


 これは、従来の功利主義と義務論の対立という課題に、死刑囚(悪人)の人権、自己犠牲の精神、特殊能力バトルの要素を絡めて物語感を演出したものである。『悪人なら死んでも良い』の精神に従ってレバーを動かさなければ何も起こらないが、トロッコの進路を切り替えると、最悪の場合、自分の命と引き換えに『最強死刑囚編』がスタートしてしまう危険性がある。待避線にいる分身さえ助けられれば、六対一で何とかやりようもあるのだが、と考えずにいられないが、徹頭徹尾、不毛である。

 私がこの章で言いたいのは、トロッコ問題の変形は、「一人の方を助けたいと思える」方向にばかり発展させがちだが、むしろ、「一人の方を死なせればよいに決まっている」と全員が思えるような問題の方が、よほど怖いのではないか、ということだ。迷う余地がなければ、「問題」という体を為さないので、それはただ「死んでも良い人間の条件」を提示しているに過ぎないが、トロッコの進路の先にいる別の何かとの比較の結果、自分が、世界中の人間から「死なせればよい方の一人」だと思われる可能性があるということでもある。私は死刑囚ではないが、ある種の悪人ではあるし、貴方が修行の末に生み出した分身五人に釣り合うだけの価値があるかと言われると微妙である。大事な妻と娘がいる、金なら幾らでも払う、と土下座しながらアピールする準備は出来ているつもりだが、それで助けてもらえるだろうか……。



「今迫さんって、頭おかしいですよね。……良い意味で」

「……その言葉に良い意味は無いんよ」

 大体上記のようなトロッコ問題についての持論を長々と語った私に対する第一声がそれである。

 2023年9月、都内某所における空想上のイマジナリーフレンド(他の章でS・Tというイニシャルで呼称される女性)との会話である。喫茶店でその日傍聴した裁判の感想戦のようなものを終え、何故か二軒目として居酒屋のチェーン店に入っていた。

 以前、作家の羽田圭介氏が独身時代にテレビ番組で、「結婚した女友達と遊ぶことほど不毛なことはない」と力強く語っており(交際に発展する可能性が微塵もない異性と遊ぶくらいなら同性の気心の知れた人間の方が良いに決まっている、という意図)、その時は激しく同意していたものだが、既婚・未婚関係なく、会って話すことがこんなに楽しい「女友達」という存在が現れたことが未だに信じられない。本当に空想上の存在なのではなかろうか。

「AIの世界では、トロッコ問題って結構リアルな課題なんですよね。自動運転で衝突が避けられない時どっちにぶつかるべきか、みたいな判断基準に実際に関わってくるんで」

「ああ、聞いたことありますね。運転手がノーヘルで走ってるバイクとヘルメットしてるバイクがいて、どちらかに衝突するしかない、となった場合、ヘルメットしてるバイクにぶつかった方が怪我が軽く済む可能性が高いけど、規則を守っている運転手の方が不利益を被るような選択をしてもよいのか、みたいな話を見た時は考えさせられました」

「個人的には、AIには非人間的なくらい合理的な判断基準を搭載してほしいと思いますけどね。暴走して幼稚園児の列に突っ込みそうになった瞬間、AIの判断でその場で自爆して、運転手だけの犠牲で済みました、みたいな」

「程度問題じゃないですかね。運転手の安全を最優先にした結果、歩道に乗り上げて園児をクッションにしました、はダメでしょうけど、現実にはどこかで折り合いつけた対処法があるはずですし」

「現実の話なら、そういう難しい状況では、自動運転から手動運転に切り替わって、人間の判断、人間の責任に委ねられるというオチになりそうです」

「夢がないですね」

「現実ですから」

「トロッコ問題は、現実でないからこそ、『どうにかして両方助ける』というのが正解になりがちですね」

「物語なら、そうあって欲しいと思います。世界を救うか、恋人を救うか、みたいなテーマの作品で、両方救わないやつって嫌じゃないですか?」

「意外とありますね、恋人選んで世界が大変なことになって終わるタイプのやつ。逆は殆ど見たこと無いですけど。……シュタインズ・ゲートがある意味そうかもしれないですが」

「私、シュタインズ・ゲート履修してないんですけど、今さらっとネタバレしました?」

「ああ、いや、大丈夫です。平行世界みたいなのがいっぱいあって、そのうちの一つの世界、みたいな感じなんで」

「なるほど。今迫さんが好きそうな感じですね」

「そうですね。別の世界線のことを考えるのは趣味みたいなものですし」

「何かの選択があるたびに選ばなかった方の選択肢のこと考えて後悔してそうですね」

「考えない方が良いこともあるってのは、わかってるつもりなんですけどね」

 余計なことに気を回さずに、目の前のことをやっつけるだけで生きていった方が楽なのは重々わかっている。それでも、自分の闇や黒歴史と向き合うための行動を辞めることが出来ない。

「とりあえず、私がトロッコ問題を聞くたびに思うのは、登場人物全員病みそうだな、ということなんで、まあ、色々と考え過ぎない方が良いですよ」

「確かに。明確な正解も無いし、悲劇的な話だし、元々健全な感じはしませんね」

「究極の選択、みたいな話題は、『私と仕事どっちが大事なの』に任せておけばいいんですよ」

「それ実際に言ってる人見たことないですけど。どう考えても相当の地雷女じゃないですか」

「私、毎日のように言ってますけど」

「え、相当の地雷女じゃないですか。あ、思ったことを口に出してしまった」

「既に一回口に出してましたよ」

「意外ですね。そういうタイプとは思ってませんでした」

「まあ、勿論本気じゃないですけど。夫が激務過ぎて想像より全然帰って来ないんで」

「へえ、結婚早々大変ですね。正論言いますけど、私と仕事どっちが大事か聞いたところで問題は解決しなくないですか」

「急に正論言わないでください」

「旦那さんは何て答えるんですか。仕事の方が大事って言う奴この世にいないですよね」

「まあ、月並みな回答ですよ。君の方が大事に決まってる、みたいな」

「で、それ聞いてどうするんですか」

「私の方が大事な割に帰って来ないのね、ぎゃおーん」

「ぎゃおーん言われましても。何か、ネットで昔バズってましたけど、『そんなことを君に質問させるくらい寂しい思いをさせてごめんね』みたいな答えが正解って聞きましたよ。それなら満足なんですか」

「いや、どう答えたところで、結局問題は解決してないので満足とかはないです」

「じゃあ聞くな、という話では? どうすれば良いんですか」

「そりゃあ、行動で示すしかないでしょう。実際に目の前の分岐器のレバーを引いてトロッコの進路を変え、待避線にいる仕事を轢き殺して、五人いる私の方を助けてみせる、みたいな」

「……なるほど。五人いれば迷いなく助けてもらえそうですもんね」

「そうなんです。もし次にカクヨムに出す時は、私を増やしといてください」

「……どういう感情で言ってるんです? それ」

「いいじゃないですか、?」

 女は、私を揶揄するようにそう言って笑うと、非常に困難な条件をやすやすと達成し、直ちに四体の分身を出して私を取り囲んだ。不条理なフィクションそのものだな、と私は絶句しながら見守ることしかできない。

「とりあえず、無事に増えることが出来たようなので、改めて全員で乾杯しましょう。今迫さんの奢りで」

「……どういう感情で言ってるんです? それ」

「今迫さんのかんがえたさいきょうの女友達の気持ち、ですかね」

「S・Tさんって、頭おかしいですよね。……良い意味で」

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