続・カフェ巡り4(本編・後半戦)
私は、会話の大切さを知っている。大学院時代に引きこもりを経験しており、自分一人で何かに思い悩み、考えに考えを重ねたつもりでも、往々にして同じところをぐるぐると回り続けているだけだと知っている。厄介なことに、長い時間を思索につぎ込んで、自身では様々な角度から検証したつもりになっていて、完全な理論武装が構築され、この世の真理に到達したような気分になることさえある。それは、自己だけで完結する自涜行為に他ならない。他の誰かと少し話すだけで、蒙を啓かれたり、誤りを自覚させられたり、単に気分が軽くなったり、とにかく鎖されていた世界が広がっていくことを知っている。
確かに、私だって、他人とコミュニケーションをとることが億劫になり、等閑な返相槌に終始する瞬間はあるし、気の知れた仲間がおらず、黙っているだけで終わってしまう飲酒会合もある。
それでも、対面で誰かと話すことはとても重要だと感じている。
この日、S・Tと会って話すことが出来て本当に良かったと、思っている。
「それはたぶん、私達二人に、わかりやすい共通の話題が多いからですよ」
酔った勢いか、いつにも増した長広舌を振るっていたら、もう何杯目かわからない日本酒を飲みながら、S・Tが口を挟んできた。
「Nさんのこともそうですが、同期の彼(私の職場の後輩)だったり、私の研究の話だったり、今迫さんの作品のことだったり、昔の活動のことだったり、まあ、PCYCHO-PASSのこともそうかもしれませんが、ほどよくお互いが興味のある語れるテーマが多いんですよ」
「……似た者同士、ということですか」
「そう言われると心外です」
「それこそ心外ですけど」
「冗談はさておき、今迫さんから今回の面会のお話をいただいた時、正直、かなり迷ったんですよね。同業者とは言え、カフェ紹介サイトの仮説をどこまで伝えて良いかわからなかったですし、経歴的にも普通にヤバそうな人だと思ってましたし」
「そうですよね。私自身、断られてもおかしくないと思っていて、そうなったら、すぐに引く心づもりでした。会えなくても、S・Tさんを『都合が悪いから面会依頼を拒否してきた黒幕的存在』に仕立て上げる作品を書けば、まあ、それでいいかな、と」
「転んでもただじゃ起きない感じがすごいですね」
「カクヨムに予告編をあげた時点で、予防線しか張ってなかったので」
よもや、本編と称してこんなに長い駄文を載せることになるとは思わなかった。S・Tに事前に下読みを依頼する際、面会の様子を書いた続編が『カフェ巡り』より何倍も多い文章量になった旨を伝えたところ「どんなAIに自動生成させているんですか?」という痛烈な皮肉が返ってきた。勿論、ポンコツな人間が手動で生成した結果である。
「会ってもいいかな、と思ったのは、やっぱり第一にNさんの知り合いだったということが大きくて、Nさんのことを誰かと話したかったんです。中学時代の知り合いは、当時あんなに慕っていたのに、事件以降は掌を返したように、やれ神経質で些細なことで注意を受けていただの、八方美人で誰にも本音を見せたがらなかっただの、目がずっと笑ってなかっただの言い始めて、確かに現実の人間のことなんで、聖人みたいなエピソードばかりじゃなかったかもしれませんけど、さすがにそれは違うんじゃないかと」
「まあ、たぶん本音じゃないんですよね。『殺人を犯す人間は、皆、どこかおかしいところのある異常者だ』『考えてみれば変なところはあった』というバイアスをかけて安心したいということでしょう。今隣にいる『ごく普通の人』が、何らかの理由で突然自分を殺しにかかるかもしれないという警戒を続けながら生きられる人なんていないですからね。警戒できる相手こそ人殺しであってほしい、わけです」
「気持ちはわかりますけど。陰口をたたかない数少ない友人達の間でも、Nさんは、完全にアンタッチャブルな存在になってしまってます。誰かと話したい、となった時、相手を探すのが凄く難しかったんですよ」
「そこにうってつけの奴が現れた、と」
「そうです。親しい間柄でないので、どんなことを話しても後腐れがないですし」
「それは、結構重要ですよね。私も、Nの話は今日まで誰ともできていません。ああ、妻には事件発生時、『え、この人知り合いなんだけど』くらいのことは言ったかもしれませんが。ネットカフェで二人きりで話すほど親しい関係だとは夢にも思ってないはずですよ」
「……カクヨムで公開してる作品を、奥さんは読んでないんですか?」
「読みません。妻は、18禁のBL(ボーイズラブ)作品以外のフィクションには見向きもしない過激派なので、私の書いているものを読むことは絶対にありません」
「興味深い生態ですね」
「そうでしょう」
「ここだけの話、Nさんとは、本当に何もなかったんですか?」
S・Tの目が据わっていた。
「何も、とは?」
「密室で男女が二人きり。何も起こらないはずがなく、みたいな」
「ないですないです。そんなのそれこそ成人向けのフィクションの世界だけですよ。普通に考えればわかるでしょ。男女二人きりですぐ何かあるわけないでしょ。今もそうなんですから。何も起こってないでしょ」
「いや、今とは状況が違いますよ。ネカフェのカップルシートでしょ? 普通行かなくないですか?」
「作中にも書いたじゃないですか。私自身もそう思いますよ。疑われたら言い訳きかないと思いますけど、本当にそんな雰囲気じゃなかったんですって」
「大学時代もですか?」
「全くないです。実は元カノだった、みたいな衝撃の事実も出てこないです。だって、Nに彼氏候補として友人紹介してるんですよ、私」
「Nさんの方は今迫さんのこと好きだったってことはないですか?」
突如、冷水を浴びせられた気分になった。
「……ないと思います。いや、そんなの本人に聞かないと本当のところはわからないですけど」
「Nさんから彼氏が欲しいって聞いて、高校時代の友人を紹介したんですよね?」
「そうです」
「その頃今迫さんは誰かと付き合ってたんですか?」
「いいえ。別名義の方をご存じならわかると思いますけど、彼女いない歴=年齢みたいな典型的な非リア充の人間をやってた頃です。キャラでやってたわけじゃなく、リアルに」
「彼氏が欲しいって言うのは、今自分に恋人がいないっていうアピールだったんじゃないですか」
「そうですか? むしろそれ言われたから、異性として自分は全く眼中にないんだな、と思いますけど。実際、その後、私の紹介した人間と会って、付き合い始めたわけですし」
「好意に気付いてくれなかったことに対する当てつけじゃないですか」
「当てつけで結婚までしますか?」
「いや、それは付き合ってる内に気が変わったっていうことでしょうけど。もしかしたら、それすらわかりませんよ」
「……恋愛の駆け引きみたいなやつ難しすぎないですか」
「恋と戦争においてはあらゆる戦術が許される、という名言がありますね」
「いやいや、戦争は、無差別な細菌兵器とか毒ガス兵器とか禁止ですからね。ルールありますから。恋の方がヤバいじゃないですか」
「それはともかく、私はNさんから旦那さんのエピソード聴いた時、第一印象で、憧れの先輩に彼氏がいないアピールをしていたのに、全然脈が無くてむしろ友人を紹介されてしまった、という笑い話みたいな風に受け取りました。一言一句憶えてないですし、その先輩というのが有名人(有名人か?)なので、どこまで脚色された内容かは定かでないですが」
「憧れの先輩、みたいな感じじゃなかったですよ、私。確かに、Nは同じ研究グループのすぐ下の後輩だったんで、直接指導することとか多かったですし、Nがバイトか何かで早く帰らないといけないみたいな時に実験代わってあげたりとか、まあ、色々世話は焼いてましたけど」
「十分じゃないですか。むしろ人が人を好きになるのに特別な理由なんて別にいらないですよ。大体が後付けですしね。顔が好み、大きな手が素敵、実家が太い、何だっていいじゃないですか」
「いやいやいや、勝手に、Nが私なんかを好きだった、みたいなことにするのは、さすがに何か失礼に当たる気がします」
「……すみません。精神衛生上も良くないですし、やめますか、この話」
「いや、まあ、Nの昔話という観点でなら、別にいいんですけど……。そういえば、関係ありそうなことで、一つ、思い出した話があるんですよね」
「恋バナですか?」
「いや、どちらかというと怪談ですね」
「……今迫さん、本当に実話系怪談の世界の住人なんですか? なんかキモいですね」
「ただの悪口やめて下さい。これ、私の人生で一番怪談っぽい話なんですけど、令和の話じゃない上、別名義の活動が関わってくるんで、カクヨムでそのまま披露できなくて困ってたんです」
「はあ」
悩み方までなんかキモいですね、と言わんばかりの目線を感じたが、私は負けじと続けた。
「私、実は別名義の方のグループが全盛の頃、大型のオフイベントに出たことがあるんですけど」
「え、顔出しで?」
「サングラスとマスクしてる状態をそう呼ぶなら」
「ああ、当時はそんな感じでしたね」
「滅茶苦茶広い会場で、客いっぱい入ってて、ビビりましたね。私、大学ではお笑いのサークルに入ってて舞台慣れしてるつもりだったんですが、あれは次元が違いました。トークとクイズメインのしょうもない企画だったんですけど、何やってもファンは大喜びで大騒ぎですよ。何だこれ、おかしいだろってずっと思ってましたし、ステージ上で実際にそれ口にしちゃったんですけど、その瞬間が、人生で一番ウケたんじゃないですかね」
「言ってるとこ想像出来ますよ。その後、○○君(リーダー格のメンバー)が止めに入るところまでが一連の流れ、みたいな」
まさにその通りだったので私は苦笑する。
「で、そのイベントが、ある年の四月の末だったんですけど、最前列の観客の中に、研究室に配属されたばかりのNがいたんですよ」
「へー、なんか意外ですね。先輩がいるから来てくれた、みたいな感じですか」
「いや、実はその頃は配信活動のことを殆ど周囲に知らせてなかったし、正直まだNとも殆ど話したことなかったんですよね。だから、観客の中に見つけて、滅茶苦茶びっくりしました」
「声でバレたってことはないです?」
「ないですないです。これは断言できます。声が誰々に似てますね、そうなんです、たまに言われます、で終わりです。本人と思う人いないです」
「じゃあ、Nさんは元々今迫さんのファンで、超幸運にも本人と研究室でばったり出会ったってことじゃないですか! 運命ですよ!」
「急にテンション上げすぎでしょう。それに、自虐でも何でもなく、どうせ私以外のメンバーの誰か目当てなんだろうな、と思ったんです、その時は」
「その時は? どういうことです?」
「ゴールデンウィーク明けに、研究室でNに直接確認したんです。そしたら、Nは××××(グループ名)の存在自体を知らないって言うんです」
「は?」
「そして、イベントのあった当日は、一日中家にいて、一切外出してないと。嘘ついてる感じも全然なくて」
「え? 他人の空似だったってことですか?」
「まあ、私は人間の顔を見分けるのが苦手なんで、雰囲気が近い人を誤認することもよくあります。だから、別人だったのかな、と思ったんですけど」
「けど?」
「その日の服装が、客席にいた人物と完全に一緒だったんです」
「怖! 超怖いじゃないですか。何ですかその話」
「ドッペルゲンガーだと思ってました、さっきまで」
「さっきまで?」
「いや、今思えば、本当にただN本人が巧妙に嘘ついてただけなのかもしれないな、と」
「何のためにですか」
「私じゃないですけど、メンバーの誰かが、自分の活動のこと知らない人と付き合いたいって配信中に言ってた気がするんですよ。芸能人が結婚する時もたまにあるじゃないですか。表の活動中の自分を知らないのに、それでも好意を寄せてくれる人間こそ、本物だって感じで。ミーハーな人より長続きしそうな気がしますし」
「つまり、有名人に近づくためにあえてその有名人を知らないふりをするというアプローチだったってことですか? ……そっちの方が何か怖いですけど」
「だから、何にせよ怪談です」
S・Tが、ふと何かに気付いたような顔になった。
「もしかすると、Nさんは今迫さんに、メンバーの誰かを紹介して欲しかったんですかね……?」
「その可能性は、実は当時から考えてました。Nが、彼氏が欲しいとか話すようになったの、私が配信活動のことを暴露した後だったので。でも、私が彼らを紹介することは、絶対にないですよ」
「まあ、人気が命の商売ですしね」
「いやいや、ヤツらが単に女関係に関してはクズの集まりだからです。暴露系YouTuberに垂れ込んだら社会的に即死するレベルですよ」
この後、私は昔の仲間の悪逆非道な振る舞いをS・T相手に熱弁し、S・Tの若かりし日の幻想を完膚なきまでに破壊してみせた。なお、事実関係を丁寧に洗っていくと、私が必ずしも無関係と言えない案件も複数出て来てしまい、訴追の恐れがあるので、内容について一切公表できないことをご了承願いたい。
「そろそろ良い時間ですけど、電車とか大丈夫ですか」
23時を回ろうかという時に、S・Tが声をかけてきた。
「なんと。随分長く居座ってしまいましたね」
正直、私は後半途中から冷たい水しか頼んでいなかったので、店に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになった(週末の夜に時間制を敷いていなかった店側の責任もあるのだからそんなこといちいち気にしなくて良いと思います、病みますよ、とはS・Tの弁)。
私の終電までは30分以上あったし、S・Tは最悪歩いて帰れるということだったが、話の区切りがついたこういう瞬間を逃すと、延々と解散のタイミングを逸しそうな気がしたので、我々は会計をお願いすることにした。不意に、「こういう時は自分が奢るべきではないか。女性側に金を出させたら炎上するのではないか」みたいな俗物的な懸念が頭を過ったが、S・Tは公務員らしく割り勘しか頭になかったようで、「私ばっかり日本酒頼んでたんで、少し多めに出します」とまで主張してきた。結局、それは固辞し、一応は年長者ということで、小銭が絡んでくる端数の分くらい私が多めに支払う、という感じで決着した。
「二次会、ネカフェ行きます?」
「いやいやいや。今からそれ行ったらただのサイコでしょ。私から誘ったら通報される案件ですよ」
「いや、いいんじゃないですか。今迫さんは大丈夫な人なんで」
「……大丈夫な人なんていないんですよ」
何が正解かわからず、曖昧な言葉を返して、私は出口に向かって歩き出した。なんか、作劇上の盛り上がりになりそうなエモいセリフ無理やり言わせようとしてないですか、と尋ねたら、バレましたか、撮れ高欲しいじゃないですか、とS・Tは笑う。何もなくても勝手にエモいこと思い付いて書き足すんで大丈夫ですよ、と私が言うと、いやそれキモすぎて草、とZ世代みたいな返しをしてきて、S・Tの底知れなさを感じた。
店外に出る。夜も更けてきて、さすがに暑さも少し和らいでいた。
「私は駅に向かいますけど、S・Tさんはどうします? 歩いて帰ったりします?」
「それもいいですが、まだ電車があるので普通に電車乗りますよ」
逆方向なので駅で解散ですかね、と言うと、途中にネカフェがあったら寄りますか、としつこく返してくる。
「どんだけネットカフェ擦ってくるんですか」
「……その感じだと、やっぱりご存じないみたいですね」
「は?」
「丁度、駅までの話題くらいになると思います。Nさんの旦那さんの不倫相手について、どこまで知ってます?」
「『事件のことを通報した現場に居合わせた知人女性』っていう報道のされ方してましたよね。その時、重傷だって言われてたせいで、一緒に刺されたと勘違いしてる人(私の後輩など)もいる、みたいな感じですか。さっき、勤務先がバーだって言ってましたけど、それも初めて知りました」
「それだけじゃなく、たちの悪い友人がいるらしく、週刊誌に凄い色々な情報がリークされてしまったんですね。まあ、ゴシップ誌なんで、信憑性は定かでないですが」
「はあ」
「Nさんの旦那さんと不倫に至ったきっかけも書かれてました」
「いかにも低俗な読者が好みそうな内容ですね」
「旦那さんとその方は、大学のゼミの先輩後輩だそうです」
「……はあ」
「ゼミの先生の退官記念パーティーがあって、そこで久しぶりに再会して」
「はい」
「二次会まで行って、終電を逃してしまい」
「…………」
「ネットカフェで共に一夜を明かしたそうです」
「……さすがに嘘ですよね?」
「まあ、あくまで不倫相手の友人の談話なんで。実際にはその時のネットカフェでは何も無かったかもしれません。誰かさんと同じように」
「それはいつの話なんですか? Nが私と会った時には、知ってた話なんですか」
S・Tが告げた日付を、『カフェ巡り』の作中の時間軸にあわせると、令和四年三月末ということになる。NがS・Tと面会したのと同時期で、私と会う半年以上前だ。旦那との仲が険悪になっていた、と語っていたタイミングでもある。
「まあ要するに、旦那に一夜の過ちがあったのかと疑って険悪になったけど、しばらく何事もなくてほとぼりが冷めたものの、後になって実はその時の相手とずっと繋がっていたことに気が付いて……みたいな構図なんですけど」
「いや、その構図自体は良いんですけど」
「はい」
「Nが私をネットカフェに誘ったこと自体、あれなんですか。旦那への当てつけか何かだったってことですか」
だとすれば、私は、Nのことを完全に見誤っていたことになる。
「そういう見方も出来るかもしれませんね。あ、あそこ、丁度ネカフェありますよ」
あえてなのだろう、こちらを試すような面白がる口調でS・Tが通りの向かいのビルの上の方に光り輝く看板を指さした。
「いや、これ、この流れでネットカフェ入ったら、凄い、何でしょう、説明しにくいですけど、何か凄い話が書けそうな気がする」
「……お、では行きますか?」
「リアルには行くわけないでしょ。ああ、でも、もしかしたらカクヨム上では行ったことにするかも。それくらい、何か、こう、何だろう。マジで言葉が出てこないですが、感情の振れ幅がヤバいですね」
「ネカフェに行く展開にする場合、今迫さん一人で行ったことにしてください」
「急に裏切りますやん」
「私、8月に結婚するんで」
「は? え? 急に何なんですか。そうなんですか。おめでとうございます」
「相手は大学時代の研究室の先輩です。付き合ったきっかけは、卒業後に飲み会で再会して二人で終電を逃してネカフェでオールした時に仲良くなったことです」
「……それはさすがに嘘」
「勿論、嘘です」
「どこからです」
「それは秘密です」
酔いも醒めてきた頭の中で、感情がぐちゃぐちゃになりつつあった。『カフェ巡り』の物語を完全に終わらせるために、本当にネットカフェに向かうという選択肢も実は頭を過っていたが、フィクションのためにそこまで現実の自分を奉仕させる必要は一切なく、もはや本当にただの狂人に成り下がる気がしてしまい、私は大人しく撤退を決めた。
駅に着いて、改札を抜けて人通りの邪魔にならない場所に避けてからS・Tが振り返った。
「今日は本当にありがとうございました」
「こちらこそ、色々と情報をいただいてしまって。執筆作業が捗ります」
「絶対、公開する前に読ませて下さい」
「約束します」
「また連絡しますけど、さすがにもう職場のアドレスじゃない方が良くないですか?」
「そうですね。私用のアドレスも送ります」
「次に会う時は、たぶんもうイニシャルS・Tじゃないと思うんで、作中で呼びにくくなりますね」
S・Tがメタ的な発言をしたので、私は苦笑いした。そのせいで、重要な情報を二つ拾い損ねそうになった。
「我々がまた会うことあるんですかね。あと、結婚するのは本当だったんですね」
「まあ、社交辞令で終わると思いますが。結婚するのは本当です」
「もっとプライベートな話に踏み込んでおけば良かったですかね」
「今迫さんがそういうのに全然興味なさそうな人だからこそ、会って話そうと思えたんですよ」
「なるほど。それは、さすがです」
もし『カフェ巡り』に関係することで何か新しいことがわかったら連絡ください、と言うべきかどうか迷ったが、私は結局黙っていた(「下読みの過程でそれを相手に読ませる時点でどうかと思いますけどね」とS・Tは手厳しい)。これで一区切りついた、それで良いじゃないか、という妙な満足感が頭を占めていた。
おつかれさまでした、失礼します、と会釈を繰り返しながら、S・Tはホームに続くエスカレーターに向かっていった。逆方向の電車に乗るにせよ、ホームは同じであるということに私は気付いていたが、あえてそれをそのまま見送って、時間をずらしてからS・Tと反対の階段の方へ向かった。
ここは大丈夫な場所なんです。
あの時のNの言葉が、何度も頭を過った。大丈夫じゃない場所なんてない、そう伝えるべきだった、カフェ紹介サイトのことに囚われる必要なんてないと安心させてやるべきだった。そう、ずっと考えていたが、もしかすると全然見当違いの後悔だったのかもしれない。
Nは、別の意味で全然大丈夫じゃない場所を選んでいた。しかもそれに自覚的だった。……意味がわからないし意図もわからない。難しすぎる。Nのことなんて結局何一つわかっていなかったのだと、逆にそれがわかって良かったという、負け惜しみみたいな感情が頭を支配する。
気になることが出てきたら、S・Tとまた話せば良い。そういうフェイルセーフがあるだけで、おそらく私はまだ舞える。「いつでも呼び出せる都合の良い女みたいな扱いしないでください。心外です」「あと、下読みの時の指摘を本編に組み込んでメタ的にエモくしようとするの、イタいですよ」という切れ味鋭い検閲者のコメント(及び誹謗中傷)で、本編はようやく幕を下ろすことが出来る。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます