爆走ライオン爺さん

 口裂け女や人面犬といったベタな怪異について、私は未だに出会うことが出来ていないので、その本当の恐怖を知らない。結果、近隣に現れる不審な人物の方が余程怖いというのが本音である。

 私が子供の頃、かぶりつくように青いママチャリにまたがり、国道を猛スピードで逆走するタンクトップ姿の老年男性が問題になったことがある。どう考えても危険極まりなく、物理的に怖いに決まっている。その国道は、車道より一段高い歩道が狭くてガタガタで、規則などなくても自転車が車道を走らざるを得ないような有様だった。片道一車線のところ、車による追い抜きもシビアでただでさえ危ないのに、そこを逆走してくる自転車が現れたら、一巻の終わりである。いつ重大な事故が起こってもおかしくない。私の通っていた小学校では、くれぐれも自転車に乗ってこの国道に近づかないように、と注意喚起が行われていた。当該老年男性は、ボサボサの爆発したような白髪と髭のせいで、小学生の間で「爆走ライオン爺さん」あるいは「逆走ライオン爺さん」と呼ばれていた。国道以外の場所で目撃された際には、彼の自転車は必ずしも逆走していなかったらしく、呼称として爆走派の方が逆走派より優勢だった。

 私も何度か見かけたことがあるが、親の車に乗っている時が多かった。正面から猛スピードで近づいてくる危険な運転行為に対し、運転していた父または母が悪態をつきながら回避のためにハンドルを切るのが常で、一度、ぶつかりそうになって思わずクラクションを鳴らしたら、何事か大声で怒鳴り返され、すぐ近くの助手席にいた自分が一番怖い思いをした。お察しの通り、話の通じるタイプであれば、はなからそんな危険な運転をするわけがない。外から見て明らかにわかる奇人変人には、絶対に近づかない方が良い。

 小学校5年生の時だったと思うが、本屋に行くために例の国道沿いの歩道を歩いていた時、遠くの方でけたたましいブレーキ音が聞こえてきた。自動車のものでなく、錆びついたママチャリ特有の、あのキーともギーともつかない甲高い音である。現場に近づいていくと、どうやら、車とぶつかりそうになった爆走ライオン爺さんがまたぞろ怒鳴り散らし、柄の良くない若い運転手が降車して応戦したことで、トラブルになっているようだった。仲裁しようとしている男性がいたが、運転手の連れなのか、通りすがりの人なのかはわからなかった。私は、咄嗟に道を折れ、ぐるりと大きく迂回して進むことを選んだ。大人の揉め事は、当事者でなくとも、子供にとって大きなストレスである。野次馬的に近づくことすらできなかったので、そのトラブルがどのように決着したのかは知らない。


 ある時から、爆走ライオン爺さんの目撃例がパタリと止んで、とうとう交通事故で死んだのだという、無責任なくせに信憑性の高い噂が流れ始めた。足が悪くなって自転車に乗れなくなっただけだ、この前近所の図書館で見かけた、という話もあったが、あんな人物が静かに本なんて読むわけないだろう、という失礼極まりない意見によって早々に却下された。いなくなったらそれはそれで寂しいもんだな、みたいなぬるい感想を抱けるほど可愛げのある人物でもなかったので、誰もが平和の到来を素直に喜んでいた。

 中学校から、私は電車通学で私立の学校に通い始め、地元の情報から隔絶されてしまい、爆走ライオン爺さんについて考える機会を失った。何の比喩でもなく、たぶん中学進学以降、一度たりとも考えることなく過ごしてきた。


 そのまま一生を終えても全然差し支えないところだったのだが、令和五年五月某日、ゴールデンウィーク明けの憂鬱な気分を抱えた朝、職場の最寄りのバス停でバスを降りた私は、二十年以上の時を経て、爆走ライオン爺さんを目撃した。さすがに、私の記憶の中から具現化したのでなければ同一人物ということはないだろうが、爆発した白髪と髭、タンクトップという強烈な特徴を持つ老人が、これまたあの頃のような青色の自転車に跨ったまま、逆走する向きで車道の端に止まって、周囲に睨みを利かせていた。当然、四月から努力義務が課せられ始めたヘルメットなどは装着していない。目が合っただけで絡んできそうな、剣呑な雰囲気があった。端っことは言え、車道で進行方向と逆を向いて止まっている時点で暴挙としか思えない。どんな非常事態であっても情状を酌量できることはないだろう。

 いつかのように迂回したいと心底思ったが、職場の門の目の前であって、どうやっても当該人物に近づかざるを得ない状況だった。私は、本物のライオンに対峙した方がまだマシだというヘビーな心境に軽い吐き気すら催しながら、何一つ気にしていない風を装いながら歩いた。夢か何かであれ、と心から祈った。

 日頃の行いが正当に評価されたのか、運の良いことに、当該人物は私を一切気にすることなく突然ペダルを踏み、一漕ぎ二漕ぎで軽快に加速してトップスピードに乗り、バス通りを逆走して去って行った。私はその様子を目の当たりにして、あまりの衝撃に言葉を失った。


 令和の爆走ライオン爺さんの自転車のシートチューブには黒い無骨なバッテリーが付属しており、明らかに電動アシスト機能が搭載されていたのだった。


 怪異だろうと奇人変人だろうと、利便性には勝てないということか。

 ふざけないでいただきたい。「充電が切れた電動アシスト付き自転車は重くて本当に漕ぐの大変だから、快適に爆走または逆走するために、あの人もバッテリーにこまめに充電するよう心がけてるんだろうな」とか考え出したら、恐怖なんて消え失せる。

 終わりだよ、こんな怪談。


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