小説は現実じゃない

 私が真っ当な物語性のある小説を書かなくなったのは、所詮、全部が嘘っぱちで現実の出来事ではないという一点に尽きる。架空の世界についていくら思いを巡らせても、この世界で何の得にもならない。勿論、筆一本で生計を立てているというのであれば話は別だが、一銭にもならないのに誰にも刺さらない自分だけの世界を緻密に創り上げていく意味が見出せない。書くだけでそれが実現するなら、私だって異世界に転生して都合の良い性格の女達に囲まれた緩いハーレムを築いてスローライフを送る作品を今すぐに書く。

 小説は現実じゃない。


 架空世界のもたらす感情の揺さぶりは、現実の出来事の前に容易に駆逐される。

 私は物語の力をおそらく誰よりも信じていたし、誰かの生き方を変えるような傑作を物することを無邪気に夢見ていた。物語の無限の世界は、個という枠組みの中に閉じ込められている現実の人間存在にあらゆる可能性を提供するはずだった。大事なことは全て物語が教えてくれるし、自分も物語を通して全てを教えられると思っていた。

 祖父が死んだ時に、雲行きが怪しくなった。身近な人間の死は、物語世界ではもはや陳腐ともいえるテーマであり、そこで惹起される感情については既に履修済であった。だが、自分の祖父が死んだ時に襲い掛かってきた悲しさ的なものを、私は名状することが出来なかった。いや、頑張ればその感情について描出することは出来ると思ったが、その時点で私の感情を理解させることに比重が移っており、どんな手段をもってしても誰かに同じ感情を惹起することは出来そうになかった。経験知が全てに勝るということは、到底許容しがたかった。

 折り合いが悪かった父が筋萎縮性側索硬化症という難病にかかったと発覚した時、その思いは強まった。ザマを見ろ、というヒューマニズムのかけらもない冷酷な思いと、哀切と絶望と、とにかく色々なものが綯い交ぜになったその感情は、私だけのものであって、最早どんな物語でも惹起しえないことが確信できた。同情を口にされた時に「あんたに何がわかるんだ!」と激昂するフィクション上の登場人物の気持ちすら、私は理解したつもりになっていただけだった。経験が、それを伴わない感情全てを机上論に変えていく。

 妻が乳癌を宣告された時、私の物語礼賛は完全に終わった。その現実よりも深い絶望を私に教えてくれるフィクションなど、存在しえない。そして、どんなフィクションでも、その絶望感を塗り替えてくれなかった。小説が惹起する「楽しい」も「嬉しい」も「悲しい」も「恐ろしい」も、それを許容できるゆとりのある現実を生きる人間にしか通用しないと思い知ってしまった。物語の力は過酷な現実の前では無力に等しい。

 結果的に私は、少しでも説得力があるはずの自身の経験に基づく話、つまるところ自分語りしか出来ない、自己顕示欲の権化みたいな醜悪な書き手に堕した。

 小説は現実じゃない。


 小説は現実と異なり、作者が完全にその世界を掌握しているので、真の意味での意外性を持たない。その一方、どれだけ厳密に世界を構築したつもりでも、荒を探せばいくらでもぼろが出てくる。どれほど秩序に満ちて見えようが、作者である人間の能力の限界に応じて物語世界は不完全な代物に留まる。配置された人物も描かれた挿話も張り巡らされた伏線も、作者の主張を通すための舞台装置に過ぎない。現実世界でゆとりある生活を送る読者の協力でかろうじて成立している。小説をはじめとして、フィクションは言外に、最大限楽しむために独特の作法を強要してくる。歌舞伎で黒子の存在を指摘してはならない、というのが例えとして一番わかりやすいが、小説も当たり前のように現実離れした状況を受け入れさせようとしてくる。それは、幽霊が存在するとか、超能力があるとか、異世界であるとかいう話ではない。本当に些細な困りごとに対して「どうかしました?」みたいに話しかけてくる通行人であったり、そこから当たり前みたいに続いていく会話であったり、やけに克明に状況を説明してくれる流暢な台詞であったり、作為に次ぐ作為を自然に受け入れる必要がある。ライトノベルであれば珍妙な語尾と不自然な髪色をした突飛な少女やうすら寒いセリフ回しする顔のない主人公、ボーイズラブであればノンケとは名ばかりで可愛がられるためだけに存在する線の細い背の低い男性、ミステリーであればやけにロジカルで饒舌な割に肝心のところで言葉を濁し最後に関係者を全員集めてドヤ顔で自分の考えを開陳し始める変質者、ホラーであれば自身に降りかかったわけでない常識外れの出来事を相談されても即座に超常現象の存在を受け入れて一緒に対策を練ってくれるねじの外れた理解者、恋愛小説なら恋愛体質の割に自分の心理の分析と描出が異様に上手い普通人を自称するキラキラした女など、現実離れした登場人物を許容できる者だけが楽しむ権利を与えられる。

 人間が描けていなかったり、キャラクターの書き分けが出来ていない作品は評価されない。だが、人間の性格に本当に一貫性なんてあるのだろうか? 私は電車で高齢者に席を譲ったこともあるし、疲れていたわけでもないのに優先席を占拠し続けたこともある。キャラが安定しておらず、問題外ということになるだろうか。わかりやすくどちらかの方針に統一しなければ物語世界には登場させてもらえないのだろうか。それが、私が架空の世界に入れない理由なのだろうか。

 小説は現実じゃない。

 

 最近、あまりに現実で嫌なことが重なりすぎて、物語世界に依存し始めている。小説の中でくらいは良い目を見たいが、私は自分語りでしか小説世界を描けないので、自分では現実の延長みたいな灰色の世界しか広げられない。

 そして、本作品を書き始めた原因でもあるが、小説と現実のちょうど中間、『カフェ巡り』という作品の続きを書かなくてはならないということが、日常生活に支障を来すレベルで頭の中を占拠している。小説のために現実でやらなければならないことができ、それに追い詰められていくなんて、端的に言って狂っているとしか思えない。

 

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