現実は小説じゃない

 私が、小説をはじめとするフィクションの世界を好んでいる一番の理由は、「ことの真相が明らかになる(余地がある)」という一点に尽きる。作者によって用意された世界で、明確に答えが設定されている。正解がはっきりしている。その正解が必ずしも読者にとって気持ちの良いものであるとは限らないし、場合によっては提示されないかもしれないし、最悪の場合、最初から存在していないかもしれないが、少なくとも、完結する物語には着地点がある。ある種の秩序がある。

 現実は、そうはいかない。

 自分以外の人間が何を考えているのかは最後までわからないし、過去に起こった出来事に関しては、知ることのできない部分を想像で埋めるしかなく、寄ってたかって尤もらしい辻褄合わせを行うばかりで、別の角度から何か新しい事実が明らかになるやいなや、今しがたまで真実と呼ばれていたものが軽々に塗り替えられていく。その脆弱な真実とやらに興味が持てず、目を背けて生きてきた思春期に、やれ世間を知らない、常識を知らない、と罵倒され、反動のように勉学に打ち込み、覚えるべきことを物語世界の作法で作者の用意した「設定」であるものと割り切って自らの知識にどんどん変えていった結果、一見すると物をよく知る、経験知の欠けた頭でっかちの人間が出来上がった。物語世界の文脈であれば、社会から弾き出されて酷い目に合うか、あるいは逆に、独自性を極めて時代の寵児としてのし上がっていきそうなものだが、現代社会にかろうじて適合する小市民に落ち着いた。物語は何一つ動き出さない。

 現実は小説じゃない。

 

 この世界は伏線を張らないし、フラグを理解しない。

 大学院生の時、何かの懇親会でたまたま話した隣の研究室の女性が、小説を読む人間だった。大抵の場合、読書家同士が偶然出会っても、話は合わない。「自分が本当に一番好きな作家でなく、好きなジャンルにおいて一番有名どころの作家」の名前を挙げてすらなお、「聞いたことある」というリアクションが返ってくるのが関の山であり、逆に、相手も自分にとって同じくらいの人間の名前を挙げてくる。また、ライトノベルは色々とリスクが高すぎて挙げられない。私は主に日本のミステリーとSFを中心に読む人間なのだが、その女性は、「恋愛小説を読んでいる」とのことで、早くも絶望的な状況を覚悟した。しかし、乾くるみの『イニシエーション・ラブ』だったと思うが、まさにミステリー読みの主人公と恋愛小説読みのヒロインが、連城三紀彦作品(恋愛ミステリー)という共通項を見つけ出す印象的なエピソードがあったことから、何か自分もそれに近いことが出来るのではないかと考えた。思いついた作品は、たった一つだけだった。

「前に読んだ小池真理子の『恋』が滅茶苦茶面白かったけど、読んだことある?」

 私の言葉に、その女性は目を丸くして、背中と椅子の間に挟んでいたバッグからブックカバーのかかった文庫本を取り出した。開いたら、小池真理子の『恋』だった。今まさに読んでいる最中だという。

 私は心底驚いた。というか、正直、怖いと思った。『恋』は著名な作品ではあるが、特段その頃に映像化されたとか、復刻されたとか、文庫本の表紙が新しくなったとか、そういった動きがあったわけでなく、そのタイミングで読んでいる必然性は一切なかった。

 物語世界の文脈なら、これが導入部なのだろう、と私は思った。私が小説の主人公だったら、この女性がヒロインとしか考えられない。『恋』という作品タイトルすら出来過ぎていて、作為が透けて見えて逆に気持ち悪いくらいではないか。

 結局、その女性とは何もなかった。名前も憶えていない。印象的だったのは、とんでもない偶然に浮足立って会話が盛り上がったのは一分間くらいで、私自身は語りたいことが山ほどあったが彼女は読んでいる途中なのだから『恋』の内容自体を話題にすることはできず、結局は潮が引くように、異なるジャンルの読書家同士の微妙に噛み合わない会話のフェーズに移行するしかなかった。読書という細い共通概念を除けば、最初から住む世界が違っているような女性だったので、私は「諦める」というほどの感慨を抱くことすらなく彼女との接点を失った。

 現実は小説じゃない。


 この世界は退屈な時間をスキップする術を持たない。

 一日を経過させるのに必ず二十四時間費やす必要がある。正気の沙汰とは思えない。メリハリをつける気がなく、どんな境遇におかれていても、同じ時間の流れで描出される。三年後の世界が気になるなら、三年生きるしかない。いち早くエピローグを見ることが許されない。しかも、退屈な日常の、滅茶苦茶どうでも良さそうな一瞬一瞬の積み重ねが、三年後の展開に影響を与えてくる。誰も文字に書き起こしたいとすら思わない本当に些細なやり取り、心情の揺れ動きを死ぬほど繰り返す。諍いとも呼べない諍いに苛立ちとも呼べない苛立ちを覚え、幸運とも呼べない幸運に喜びとも呼べない喜びを覚えながら、「色々あったな」と昔を振り返るためだけに存在する「色々」をこなして生き続ける時間がとにかく長い。

 しかも、それを持て余しているのはどうやら自分だけであって、世間の大半の人間は、自己実現だとか社会貢献だとか、やけに高邁な思想に突き動かされて充実した生活を送っていたり、趣味だとか「推し」だとか、何か熱中できるものを見つけて楽しんでいるという。一歩も動かずに時間だけ経過させようと腐心しているのは私だけらしい。私の代わりに私の時間を使ってくれ、時間を売れるものなら誰かに売りたい、と心底思うが、当然、そんな面白い設定で動いてくれない。

 現実は小説じゃない。


 この世界は、嘘が多すぎる。

 ただでさえ何が真実かわからないのに、あえてそれを糊塗しようとする勢力まで存在するのであれば、収拾がつくわけがない。その点、最初から嘘だと知って読んでいるので、小説は安心である。何が起こっても許すことができる。信頼できない語り手が今さら何を言ったところで、所詮は徹頭徹尾フィクションである。

 飾り立てられた虚像を発信することで、何か私にはわからない大衆の支持を得ようとするインフルエンサーは、しかし現実の存在である。誰から顧みられることもなく、何の発信もせずにそれと同じような生活をしている人間がいないのであるとすれば、その価値を何と呼べばよいのか。異性の配信者の中身のない雑談に対して支払われる投げ銭、恋愛禁止のアイドルへの「ガチ恋」、ネットの炎上に颯爽と駆けつける悪事を絶対に許さない正義の味方のような顔をしたコメント、フィクションのような体裁で書かれたゴミみたいな暴露話と暴露話みたいな顔で書かれた紛れもないフィクション。

 「現実」なのに、何が「本当」なのかわからないなんてことが許されて良いのか。


 それでも現実を生きるしかない。私にはそれしか残されていない。それが今の私には一番恐ろしい。

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