嘘を知らない女

 『ベッドの下の男』と呼ばれる都市伝説をご存知だろうか。典型的な怖い話として、山ほどのバリエーションが知られているが、私の把握しているものは次のような話だ。


 ある夜、マンションで一人暮らしをしている女性の部屋に、恋人の男性が遊びに来た。二人で座って一緒にテレビを見ていたが、男性の様子が少しおかしい。突然、コンビニにアイスを買いに行こうと言いだし、女性が「夜も遅いし、どうしても食べたいなら一人で行って買ってくればいい」と言っても、一緒に行こうという一点張りで、しまいには強引に腕を引っ張って来る。女性が仕方なしにしぶしぶ部屋を出ると、外に出てからようやく、顔面蒼白の男性が告げる。

「ベッドの下に、包丁を持った知らない男が隠れていた」


 訪問するのが女友達であったり、隠れている人物が斧を持った男だったり場所がクローゼットの中だったりするが、話の骨格はわかりやすい。知らない間に自宅に誰かが侵入していて自分の身に危機が迫っていたというのは、非常にわかりやすい恐怖である。実際に、近年のストーカー犯罪で、この都市伝説にそっくりな事件も発生しているという。物騒な世の中になったものだ。


 私がこの章で紹介したいのは、『ベッドの下の男』を初めて聞いた、とある女子大学生Yの話である。Yは、「幽霊の存在は全く信じていないが、怪談やホラー作品は、怖がらせるために作られていて本当に怖いから嫌い」という、日本人にそこそこいるタイプの、理に適っているのかいないのか判断しづらいメンタリティの持ち主だった。そういう人物が参加する酒宴において、「幽霊が出てこないタイプの怖い話は大丈夫なのか」試してみようというろくでもない流れがあり、同席していた女性陣から都市伝説の一つとして上述の『ベッドの下の男』が披露された、という局面を想像していただきたい。

 私は、話を聞き終えたYの第一声を、今でも忘れることができない。


「え、でもんだから、全然解決してなくないですか?」


 その場は爆笑の渦に包まれたし、私も思わず笑ってしまったが、同時に、戦慄が走るのを止められなかった。なんで本当にコンビニにアイス買いに行くんだよ、警察に知らせるに決まってるじゃないか、と皆からツッコミを入れられて、Yは「あ、なんだ。それもそうですよね」と恥ずかしそうに納得していた。相変わらず天然だなあ、みたいな感想でその場はおさまったが、そういう問題でもない。

 Yは、嘘という概念をうまく呑み込めないのだ。


 調べてみたが、これは、大人の自閉症スペクトラムにしばしば見られる特徴なのだという。言葉以外に含まれるメッセージを正しく受け取ることが苦手であり、その真意を推し量ることができない。皮肉でも建前でも苦しい理由付けでも、文章そのままの意味で受け止める。恋人の男がアイスを買いに行きたいと言い出した以上、よほどアイスを食べたいのだと考えるし、ベッドの下に男が見つかろうが見つかるまいが、その目的は完遂されるものだと思い込んでしまう。

 そして、臨機応変な対応も苦手なので、そのまま思いついたことを口にする。常に正直であるということは必ずしも美徳ではない。Yは後に、「自分は他の人との会話で、言わなくてよいことを言ってしまったり、言わない方が良いと気づいたけれども代わりの言葉が見つからなくて黙り込んだり、とにかくうまくいかないことが多くて、家に帰ってから後悔ばかりしている」と語ってくれた。嫌な思いをしたくないしさせたくないから、人付き合いをできるだけ避けているという。

 私も、コミュニケーションが得意な方では決してないので、ある程度頷ける部分はある。だが、虚言癖に近いくらい平気で噓をつくし、相手の言葉に裏の意味があるのでないのかと無駄に勘ぐってしまう。Yとは同じようで違っている。


 ある時、Yがニコニコしながら、「今日は良いことがあった」と上機嫌でこんなエピソードを話してくれた。

「駅に向かって歩いている時、財布を無くして困っているという男性に呼び止められたから、電車に乗って家に帰るために必要だという五百円を貸してあげた。良いことをすると気分が良い」

 貸してあげた、と言い条、相手の住所も名前も、何も聞いていないという。

 ちなみにそれは、寸借詐欺という名前がある類型的な犯罪の一種だよ、と伝えたら、一瞬間があったが、「そんなわけはない。明らかに困っていそうな人だった」と否定してきた。

「本当に財布を落としてお金を困っている人は交番に行くはずだし、何なら、帰りの交通費は交番で借りることが出来る。これは、相手の善意に付け込んだ犯罪であって、世の中にこういう悪い奴は山ほどいる。今後は気を付けた方が良い」

 そう告げると、Yはさすがに落ち込んだ様子で頷いた。私は、人助けができたと喜んでいた善意の人間に水を差したような形になってしまい、何故自分が妙な罪悪感を覚えなければならないのか、とその不条理さに憤りを感じた。

 そして同時に、この女はこの世知辛い世の中をどうやって生きていくつもりなのだろう、と心底心配になった。


 つい先日のことである。

 テレビ番組でお笑いタレントが素人と絡むような屋外ロケをやっていた。公園で出会った幼稚園児たちに、「みんなどこから来たの? 幼稚園はこの近所?」と尋ねたところ、「バス遠足で来た」と返答があり、少し過激な芸風で鳴らすそのタレントが即座に、「え、向こうでバスが川に落ちてたよ」と驚いたふりをして喋り出すシーンがあった。私は、「今日日、不謹慎だという理由で変な炎上したりするかも」と一瞬ヒヤッとしたものの、特にそんなことはなく、しかも意外なことに、「嘘だー」「嘘つきー」など、子供たちも思い思いのリアクションを返しながら大笑いしていて、その場も盛り上がっていた。

 私は、過激な芸風のタレントが、結構なバランス感覚で子供たちにも受け入れられていることに素直に感心し、Yにそれを伝えることにした。

 向こうでバスが川に落ちてたよ、という瞬時の切り返しが秀逸だった、という言葉を口にした瞬間、Yは眉をひそめて一言。

「え、それはもしかして『冗談』ってこと? 事故の発生をただ伝えたわけじゃなく?」

 帰りのバスがないことを教えただけじゃ、結局子供たちは幼稚園に戻れないんだから、全然解決してなくないですか。

 言外に、彼女が最初に口にしようとしたはずの感想を嗅ぎ取った私の脳裏に十数年前のエピソードが鮮明によみがえり、私はこの章を書くことを決意した。

 妻帯者にとって一番怖いのが妻だというのは自明であり、妻の話はどんな内容であれ怖い話のカテゴリーに含まれ得るというロジックである。



 嘘を知らない女は、生き辛いはずの世界で今日も暮らしている。私は、自宅のベッドの下に包丁を持った男がいた時、何と言ってその出不精の女を外に連れ出すべきなのか、今でも考えあぐねている。

「え、アイスを買いに行くっていう名目で無理に外出しようとしてるってことは、もしかしてベッドの下に包丁を持った男がいるんですか?」

 全員生存ルートは無いかもしれない。

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