雑草という名の草はない

 世の中の全ての動植物には名前がある。より正確には、二名法によって種の名前(学名)がラテン語でつけられる。これは凄いことだと思う。

 今でも新種の生き物がどんどん見つかっているし、これまで同種だと思われていたものが別種だったということも少なくないので、必ずしも現時点でつけられた種名が真実かどうかはわからないが、それはさておき、発見されたことのある生き物全てを正しく識別して異なる名前を付けようという試みが行われていること自体、見ようによっては異様なことなのではないだろうか。


 物の名前がわかると、世界が違って見える。


 これは何も生き物に限った話ではない。私は車に詳しくないので、街中で走っている自動車を見かけても、「白い車」「バス」「速そうな車」みたいに、小学生の頃から殆ど変わらない把握の仕方をしているが、詳しい人は当然、一目でメーカーと車種を判断しているので、「さっきすれ違ったシビックに乗っていた人が……」みたいに喋り始めてこちらを混乱させる。私の世界は極めてあいまいで、ファッションにも明るくないため、一人の女性を説明しようにも「全体的に白っぽい感じ」「上は何か肩が出ている感じのやつ」「下はスカートみたいに見えるけど実はズボンのやつ」と、まるで要領を得ない。「パールホワイトのオフショルダーブラウスにスカンツを合わせている」という説明を書くだけでも、私は検索エンジンの助けを借り、十五分の時間を費やさなければならなかった。世界の解像度が低いという言い方ができるかもしれない。

 当然、木本や草本についても一緒であって、道端に生えている植物の名前を意識したことなど殆どなかった。春先に桃色っぽい花をつけている木があったら全部サクラだと思って暮らしているが、生きるのに支障はない。サクラとウメを区別しないことと、ソメイヨシノとエゾヒガンザクラを区別しないことは、結局程度の問題に過ぎないのだと言い訳させていただきたい。


 雑草という名の草はない。これは、日本植物学の父とも呼ばれる植物学者、牧野富太郎の言葉である。その言葉に感銘を受けたから、というわけでもないが、私はごく稀に雑草の名前を調べることがある。

 きっかけは、TV番組でスマートホンの図鑑アプリの存在を知ったことだった。そのアプリは、スマホで撮った動植物の写真の画像情報とEXIFファイルの位置情報から、AIが種の名前を判定してくれる機能が付いていて、手軽に自分だけの図鑑を作ることが出来る。公開範囲は各々で設定が可能だが、全ユーザーが発見した生物の情報は運営側で把握されており、位置情報が紐づけられていることで、生物分布についての情報を蓄積することも出来るという寸法になっている。国内で発見された動植物全てが網羅されている、というのを売りにしており、実際、適当に撮った雑草(失礼ながら私の認識時点ではそれでしかない)の写真がナデシコ科ハコベ属の「ノミノフスマ」だと判定された時には、その全く聞きおぼえのない名称の登場に感嘆せずにいられなかった。

 当該アプリについて、コレクション気質の人であれば嵌まるのではないかと思うが、何分私は非常に飽きっぽいし、「街中で綺麗な花が咲いているのを見つけたから思わずカメラを向けた」みたいなタイプでもないので、動植物の写真を撮ることも少なく、本当に気の向いた時しか起動しないというのが実情だ。


 仕事の関係で、とある研究施設に出張した時のことである。先方の人間に導かれ、施設を見学させてもらうことになったのだが、研究棟に向かって敷地内を歩いている時、通路沿いにやけに背の高い草が生えていることに気づいた。植栽というにはあまりに無造作であるが、雑草というには立派過ぎる。丸みを帯びた細長い葉が生き生きと生い茂っている。施設の人が言うには、人の背丈を越える六月頃に業者に頼んで伐採しているが、毎年生えてくるのだという。セイタカアワダチソウっていうやつですかね、デカいですよね、とのことで、聞いたことのある有名な侵略的外来植物だったので、さすがにすごい生命力ですね、みたいな当たり障りのない返事をした。

 写真を撮ったのは本当に単なる気紛れだった。実験装置や施設内の様子が撮影可能だったことで、常に右手にスマホを持っていたことから、いつもより写真を撮ることへの心理的ハードルが下がっていたし、その施設への訪問自体が貴重な機会だったということもある。記念写真みたいなものだ。

 その日の夜は、施設の敷地内の宿泊棟に泊まった。部屋は申し分のない広さと快適さだったが、一般のホテルとは異なり、TVが無かった。その一方、敷地内ではWi-Fiが利用可能というアンバランスさだったので、私はスマホを見ながら時間を潰していた。

 図鑑アプリを起動させたのも気紛れだった。しばらく起動しておらず、自動アップデートもオフにしていたので、更新を促す警告に押し返された。更新後に再起動し、昼間に撮影したセイタカアワダチソウらしき植物の名前をAIに判定してもらおうとした。


『不明なエラー この写真を投稿することは出来ません』


 画面に見たことのない表示が現れ、別の写真を選ぶよう促された。時間をおいて再度試しても同じだった。AIで上手く判定できない時は、自分で植物の名前を検索して自由に名付けることが出来るはずなのだが、その対象からも弾かれてしまう有様だった。

 

 私は、名前を付けることのできない植物を見つけてしまった。


 当該植物は、私の見立てではセイタカアワダチソウと考えて問題ないように思える。インターネットや図鑑を調べた限り、大きさは一致しているし、伐採しても毎年生えてくるという点も、地下茎から増殖できる多年生植物であることと矛盾しない。葉の形と茎へのつき方が少し異なるような気もするが、まあ許容範囲だろう。

 おそらく図鑑アプリは、画像情報そのものではなく、その写真の由来となったを警戒している。

 厳重な管理がなされている国内有数のXから、特異な形態を有する突然変異体、多型、変種などが確認されてしまった場合、どうなるか。それが単なる偶然の賜物であったとして、間違いなく大問題になる。

 福島の原発事故の後、避難区域内では四本足のニワトリが闊歩しているといった荒唐無稽で無責任な言説が流布されていたが、笑っていられなくなる。いくら放射線のDNA変異原性が高かろうと、それが原因でわかりやすい異形の化け物が生まれてくる可能性は極めて低い。しかし、ちょっとした形態の違いならどうだろう? 四本足のニワトリと違い、写真もある。科学的エビデンスに背中を押され、紛れもなくX線の影響だと思い込んでしまうはずだ。

 混乱や邪推を避けるためには、そもそも投稿自体を防止するしかない。

 

 万が一、本当に特異な形態を有する動植物が敷地内に溢れかえっているのだとしたらどうするのか、社会問題の隠蔽につながるのではないかと憤る方もいるかもしれない。しかし、当該研究施設は、少しアクセスしづらい場所にはあるが、一般人に対する見学会も開催されているごく普通の場所でもあって、全面立ち入り禁止の物々しい警戒区域などではない。何より、日本における放射線の管理体制は私たちの想像をはるかに超えて厳格である。あの施設がもしも突然変異の動植物の楽園になっているのだとしたら、それはX線の影響ではなく、隔離された環境か何かのせいであって、それも一つの生態系だと認めるしかない。


 セイタカアワダチソウ(?)を見つけた次の日、敷地内で、赤みがかった背中と長細い足を持つ小型のクモと、白地に黄色いマダラが入ったチョウを見つけた。もちろんスマホで写真を撮っておいた。チョウの方は飛んでいたこともあって、上手く撮れたとは到底言い難いが、確かに記録には残した。

 そのクモにもチョウにも、当然、名前はある(クモという名のクモはいないし、チョウという名のチョウもいない)。ただ、未来永劫、その名を私が知ることはないだろう。

 解像度が低い世界の居心地の良さに、これからも甘えさせてもらうつもりだ。

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