「いいわけ」はいろいろあるけど

葵月詞菜

第1話「いいわけ」はいろいろあるけど

一.


「お前、それで良いわけ?」


 逆光の中、腰に手をあてて仁王立ちになった青年が、地べたに這いつくばった少女を見下ろした。

 少女は恨めしそうな顔で彼を見上げる。


「……良いもん。もともと私にはハードルが高すぎたんだよ」

「何言ってんだ。まだたったの三日だろ? 音を上げるには早いぞ」

「早いとか関係ないよ。……もう腕も腹筋も足もビキビキなんだもん~」

 

 少女は力なく床に突っ伏して動かなくなった――動けない、と言った方が正しいかもしれない。


「おいおい、腹筋を板チョコにするんじゃなかったのかよ」

「……そんなこと言ってない……」


 青年は肩を竦め、これみよがしに大きなため息を吐いた。


「ちょっとセツ。あんまりナコをいじめないでよね」


 お盆を手にやって来た少女が青年に釘を刺すように言った。


「別にいじめてねえよ。鍛えてやってんだろ」

「どうだか。――ほらナコ、スポーツドリンク持って来たよ」


 床に突っ伏していた少女――ナコは残った力を振り絞るように起き上がり、冷たいコップを手に取った。

 水分を喉に通すと生き返った心地がする。


「ありがとう、レイ」

「どういたしまして」


 レイはにっこりと笑い、それからついでとばかりに青年の方へお盆を差し出す。そこにはもう一つコップが載っていた。


「あんたも喉が渇いてるならどうぞ?」

「……嫌味な言い方すんな」

「わざと言い分けてるんですう」


 レイが「べえ」と舌を出すと、セツは眉を顰めながらコップを手に取った。


「ホントにかわいくない……」

「大きなお世話です」


 レイは軽くいなして、ナコの傍にしゃがみこんだ。


「やっぱりトレーニングの先生間違えたんじゃない? 絶対トキの方が優しかったと思うけど」


 トキとはセツの兄のことである。口が悪く天邪鬼みたいなところがあるセツとは反対に、トキは穏やかで優しい。


「トキは今、大学の課題に忙しいでしょ。邪魔したくないし」

「オレも大学生だぞ?」

「まあ確かにトキの性格からして、忙しくてもナコに合った運動を一緒に考えて付き合ってくれそう」

「なあ、オレも絶賛今ナコのトレーニングに付き合ってやってるんだけど?」


 ナコとレイは困ったように顔を見合わせ、それから溜め息を吐いた――もちろんその対象はそこにいる青年セツに対してである。

 

 そもそもの始まりは、先日行われた中学校のマラソン大会だった。その翌日、ナコは朝からひどい筋肉痛に見舞われたのだ。日頃の運動不足が祟ったと言える。

 何とか必死でゴールしたものの、その夜は疲労で爆睡、そして朝起きたら筋肉痛が待っていた。

 その反省から、今後少しは運動習慣を取り入れようと思ったのだ。

 ここ『うさぎ荘』の同居人・セツが割れた腹筋――ナコはこれを板チョコと呼んでいた――を持っているのを見て、筋トレでも教授してもらおうと考えたのだが。

 同じく同居人であるレイの言う通り、先生にする人を間違えた。

 彼なりにナコの体力を考えてくれていたとしても、あまりにも妥協のないトレーニングメニューだった。片手間に、もしくは隙間時間に、なんてものじゃない。生半可な覚悟でいたら潰される。

 よくもまあ三日間も耐えたなと自分でも思う。もう十分ではなかろうか。


 また床に倒れ込んだナコは、ふいに顔にふわふわとしたものが触れたのに気付いた。


「あ、うさぎだ。また入って来たんだ」


 小柄な白いうさぎが一匹、ナコの顔のすぐ横にくっついてきた。頬に毛があたってくすぐったい。

 彼女たちが暮らす『あべこべ兎毬町』には、あちこちに野良猫ではなく野良うさぎがいる。町民たちもみんなそれを当たり前の風景として認識していた。

 だからこうやって人々の家に勝手に入り込んでいることも多々ある。だがこのうさぎは前にも見た覚えがあるから、きっとトキに懐いている個体だろう。

 トキはうさぎを始め動物に好かれやすく、気付くと彼の部屋に潜んでいたりする。


「言い訳染みたこと言ってるけど、単にトキに頼むのが恥ずかしいだけじゃねえの?」

「……ちーがーうーもーんー」


 ナコは頬を膨らませながら、うさぎの背を撫でた。白くて小さいそれは気持ち良さそうに目を細めた。このうさぎは人懐こそうだ。


「こら、セツ。いじめないの」

「だからいじめてないってば。そういうレイは運動しようとか鍛えようとか思わないのかよ。よくダイエット云々言ってるじゃねえか」

「しようと思っても、まずセツには相談しないわね」

「……なるほどな?」


 二人の間に微かに火花が散る。――いつものことである。

 暫くナコに背を撫でられていたうさぎだったが、急に気が変わったのかぴょんと離れて行ってしまった。見遣るとその方向に他のうさぎの姿が見えた。


「さあ、水分補給も終わったし次行くぞ」


 セツが腕を回しながら言う。ナコは信じられないような目で彼を見た。


「さっきの言葉もう忘れたの? 私のトレーニングはもう終了で良い」

「お前まじで三日坊主にするつもりかよ。――本当に良いわけ?」


 ナコは暫くセツと仏頂面睨めっこをした。


「トキも三日坊主はどうかって言う気がするなあ」

「トキは三日頑張ったことに対して褒めてくれるもん」

「あのな、まだ序の口で、ここからが本番なんだぜ? 今のままじゃお前はただ筋肉痛になるためにトレーニングしてただけだぞ」


 それはナコもそう思う。だがすでに身体的にも精神的にも音を上げていた。

 セツがふうと息を吐いて、仕方なさそうに言った。


「まあ本人にその意志がないんじゃしゃあねえな。この件は一旦保留だ。その代わり、筋肉痛に関してぐだぐだ言うんじゃないぞ」

「分かってます~」


ナコは先程のレイのように、セツに向かって「べえ」と舌を出した。




二.

***

 その夜、不思議な夢を見た。

『うさぎ荘』の庭で、うさぎたちがあるものをしているのを発見したのだ。

 二本足で立った二匹が長縄の両端をそれぞれ持ち、息を合わせて大きく回している。その中に三匹のうさぎが入って、軽やかにぴょんぴょんと跳んでいるのだ。

(大繩……!!)

 夢の中のナコはそれほど驚かなかった。何も違和感なく彼らに近付いていくと、跳んでいた内の一匹が器用に縄から抜け出してナコに言った。

 小柄な、白いうさぎだった。


「一緒に跳びませんか?」

「え」


 夢の中のナコは幸いなことに筋肉痛の症状がおさまっていた。夢の中万歳だ。


「良いじゃん、やりなよ」

「え……?」


 どこから現れたのか、暫く顔を見なかったトキが隣にいた。

 戸惑うナコはしかし、気付くと流されるように彼らの縄跳びの中に入っていた。

 夢の中だからなのか、体は勝手に縄のリズムを捉え、軽快に跳躍する。

 久しぶりに縄跳びをする楽しさと、うさぎと一緒に跳んでいるという謎の状況に気分が高揚していた。


「また一緒に跳びましょうね」


 そんな言葉を最後に聞いたような気がした。


***

(痛い……)

 朝起きると、普通に体は筋肉痛だった。

 ぼんやりと覚えているのは、うさぎたちと大縄跳びをしたこと。その場にはトキもいたような気がする。

 ピキピキとぎこちない動きで階下の食堂に行くと、そこにはトキがいた。


「ナコ、おはよう。久しぶり」

「おはよう」

「うわ、反応薄いな」


 現実ではかれこれ数日振りなはずだが、夢の中で会ったせいで久しぶり感が薄れていた。

 ナコは曖昧に笑って誤魔化した。


「そういえばレイから聞いたけど、セツにしごかれたんだって?」


 早くもレイから伝わっていたようだ。セツ、ドンマイ。だがナコも特にフォローはしない。


「もう三日が限界だった……」


 言いつつ肩を落としたらまた腹筋がピキリとする。


「まああいつのやり方は合う合わないがあるからなあ」


 トキはやんわりとそれだけ言って、あるものをナコの目の前に差し出した。

 カラフルな色のビニール製の紐が何重かに折り畳まれたそれは――


「なわとび!」

「うん。うさぎが跳んでるの見て、これはどうかなと思ったんだ。まあ縄跳びもトレーニングにしたらなかなかキツイんだけど、ナコは遊びからでも良いんじゃないか」


 受け取ったなわとびをまじまじと見つめる。

 今朝見た夢のせいか不思議な感じがした。


「それにやっと課題が片付いたんだ。今度は俺が付き合おう」

「!」


 それは楽しみだ。ナコは「ありがとう!」と笑って――腹筋に走った小さな痛みに顔を顰めた。

 今の筋肉痛の状態で縄跳びをするのは、ナコにとっては少しハードかもしれなかった。


Fin.

 




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